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ドイツさんと私  作者: 吉田
番外編と後日談
16/32

緑の海の騎士は恋する 2



 オリーさんの婚約者である鈴木麦子さんを、ひと言で表すなら『ミニハム』だ。

 癖のないさらりとした肩までの黒髪に、同じ色のくりっとした瞳。つんと通った鼻に桜色の唇。それがすべて小さな顔に可愛らしく配置されて、華奢な身体とも相まってすごく美少女なのだ。美女、と呼ぶべき年齢だけれども。

 オリーさんと並べば、どこからどう見ても立派な美女と野獣。ゴリラと小学生。犯罪者とロリータ……は言い過ぎか。とりあえず、そんな麦子さんが俺と同い年だってことは驚きだった。


「入江君、どうしたの? 遠慮しないでどんどん食べてね!」

「あ、はいっ。頂いてます!」


 黒目の大きな瞳に見つめられ、俺はどきりとする胸を誤魔化すように、鍋から白菜と肉をお椀に移す。

 すると今度はその隣に座っているオリーさんが、俺に大量のしらたきを突き出した。ええと、食べろってことですかね。


「オリーのしらたきランドゥ、直輸入です!」

「鍋の中に勝手に領土作らないっ! そもそもなんでしらたきかなあ?」


 そう文句を言いながらも、麦子さんはオリーさんのお椀に野菜と肉を取り分けてやる。その甲斐甲斐しい仕草に、もはやオリーさんのいかつい顔はとろけかけていた。

 これは、もしや俺ってお邪魔なのでは?

 そもそも、なんで俺がこの熱々なふたりの夕食にお邪魔しいてるかというと、すべては先週の怪我が発端だった。

 あの後病院で精密検査をし、異常なしの診断は出たものの頭部を強打して意識を失ったことを考慮に入れて、俺は三日間の休養を命じられた。そして、後々何か危険な症状が出た時にひとりでいるのは危ない、という判断で俺はオリーさんに連れられ、彼の家へとやってきたのだ。

 憧れの人のプライベート空間万歳!とここぞとばかりに、現役時代のユニフォームだとかグローブだとか見せてもらったり、この間の試合についてアドバイスをもらったりと、非常に濃いサッカー的時間を過ごしたのは夕飯まで。

 会社から帰宅した麦子さんが、お鍋の材料片手にやって来たとたん、俺の憧れのオリーさんは彼女にメロメロなただの人になってしまった。

 何だかんだと彼女にちょっかいをかけては、怒られる。それがまた嬉しいらしく、とにかくでかい身体を小さな麦子さんにまとわりつかせていた。なんていうか、空気が桃色。

 支度を手伝おうとして、「怪我してる人は安静に!」と言われた俺は、そんないちゃいちゃっぷりをただ見ているしかなかったのだ。

 さっきのまでの二人のラブラブっぷりを思い出し、思わず大きなため息をついた俺に、麦子さんが心配そうな目を向ける。


「疲れた? 気分悪い?」

「あー、ええと、鍋とかってすっごい久しぶりだなあと思って」


 そうだ。なんかこう座り心地が悪いというか、むずむずするようなこの気持ちはなんだろうと思えば、誰かとこうして鍋をするのが久しぶりだったんだ。

 チームメイトとももちろん飯を食べに行ったりはするが、たいてい大盛りのできる定食屋なんかだし。


「そうなんだ。じゃあ、これからも時々鍋とかしようよ、他の人も誘って」

「Ja! モトハシとフラウ、それとイリエのためにコマコも呼びまするね!」


 無邪気な麦子さんの提案に、オリーさんが笑顔で付け加えた最後の人物の名前に、俺は思わず咳き込んでしまう。俺のために内藤さんって、それって!

 涙目になりながらオリーさんを見れば、彼はいつもはへの字になっている口をにんまりと笑みの形にしている。な、なんでバレてるんだろう!


「オリーは、とっても観察うまいですよ?」


 いやいや、完全に自分にむけられてる好意には気付いてないですよね!?

 得意げに胸を張るオリーさんに、麦子さんの前でそんなことを突っ込めるはずもなく、俺はさっき彼に入れられた大量のしらたきを食べてその場をしのぐ。

 その俺の微妙に複雑な表情を読んでくれたのか、麦子さんからは特に追求もなく、その後は穏やかに夕食を終えたのだった。





 だけど、俺でもあてられまくったあの二人のところに、オリーさんに片想いな内藤さんが来るってのはまずいよな、いくらなんでも。

 でも、オリーさんのことだから何の悪気もなく誘いそうだし、内藤さんは内藤さんでちょっと天然入ってるから頷いちゃいそうだしなあ。あああ……どうする、どすうるよ、俺!

 なんて広い居間のソファーで唸り声を上げると、シャワーを浴びに行っていたオリーさんがいつの間に戻って険しい表情でこちらを見ていた。


「あ、オリーさん」

「イリエ、頭悪い?」

「え」


 突然の言葉に、俺はその意味を理解しかねる。頭は悪いけど、なんで?

 するとオリーさんは自分の額を指さし、それから俺の頭を同じ手で示す。ええと、ああ。俺が唸ってたから、また頭が痛み出したと思って心配してくれたのか。


「平気っす。すみません、迷惑かけて」

「Nein、オリー迷惑ないよ? 接触、キーパーは怖いです。だけどイリエ、怖がってはダメ。乗り越えるよ」


 真剣な瞳でそんなことを言うオリーさんに、俺は戸惑いつつも頷いた。確かにひどい出来事だったけれど、軽い脳しんとうで済んだし。ちょっとくらい額に傷が残るかもしれないとは聞いたけど、まあ男だしな。

 そんな俺をじっと見ていたオリーさんは、もう何も言わずに少しだけ息を吐く。そうして「シャワー空いてます」とだけ言うと、台所へと姿を消した。

 この時、オリーさんが伝えたかったことを、俺は次の試合で身をもって知ることになる。



***



 それは怪我から復帰した最初の試合。

 残り試合数のなくなってきたこの時期、アウェイでの貴重な勝ち点がかかった試合だった。前半、キャプテン河合さんのシュートが決まり、1対0。相手は格下で、きちんとやれば勝てる相手だった。なのに――。

 ネットに突き刺さったボールが、跳ね返って俺の目の前を転がっていく。それを嬉しそうに抱え上げて走っていく背中に、駆け寄ってきた相手チームの誰もが喜んで、抱きついて。

 それを見てうなだれるチームメイトたちに、俺はなにひとつかけられる声を失ってしまった。

 アウェイで勝ち点を逃した。

 今のチームの得点を考えれば、ひとつだって取りこぼせないはずだ。チームは今、二位につけている。J2優勝だって狙える位置だ。

 この間と同じ状況。DFを抜かれて迫ってくるFWとの一対一の場面で、いつもの俺だったら余裕を持って処理できていたはずだった。

 それが、芝生に縫いつけられたように動かない両足。全身から吹き出す嫌な汗。仲間が俺にむかって何かを叫んでいるのに、まるで耳に届かない。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。

 そして我に返った時にはもう、そこには相手チームの歓喜の瞬間。俺は一歩も、動けなかった。

 あの時の痛みを鮮明に思い出した俺は、ただひたすらに恐れてしまったのだ。自分が立つ、この緑の海を。





「入江、俺が言いたいことはわかってるな」


 結果、1対1での引き分けとなった試合の直後。

 誰しもが険しい顔でロッカーに戻っていく背を呆然と見ていた俺に、監督がそう声をかけた。俺が拳を握りしめ「はい」と答えると、監督は小さく頷きこちらに背を向ける。


「チームが今大事な時だってことはお前もわかるだろう。俺がどんなにお前を使ってやりたくても、今日みたいんじゃ降ろすしかないからな」


 次は絶対に、そう言おうとして俺は唇を噛んだ。

 次こそはなんてそんな甘いこと、通用するはずがない。無言で立ち去る監督の背が視界から消えても、俺は自分への苛立ちをうまく処理できずに立ち尽くしていた。


「くそっ」


 吐き捨てて、握りしめた拳を壁に叩きつけようと振り上げる。その手を、いつの間に近くに来ていたのか、内藤さんが押しとどめた。そんなに身長が高いほうではないのに、必死に手を伸ばして、俺の拳を両手で包む。

 その温かさに俺の身体から力が抜け、静かに手を降ろすと内藤さんはほうっと安心したように息を吐き出した。そして、ぎこちなく俺に微笑みかける。


「駄目だよ、入江君。手を傷つけたら、試合に出られなくなっちゃうよ」

「内藤さん……」


 言われて初めて、今自分が何をしようとしたのか気付く。この手を壁に叩きつけて、それで俺はどうしようと?

 怪我をすればここから逃げられる。怪我をすれば、駄目だったことに理由がつく。諦められる。仕方がなかったんだ、そう自分誤魔化して――。


 恥ずかしい。


 一瞬でも楽な方を無意識に選択しかけた自分が、ひどく醜い。

 本当に悔しいのは、責めたいのはチームメイトたちだろうに。それなのに、俺は今自分のことしか考えてなかった。そうして暗い沼に沈み込みそうになった俺の頬に、ふっと優しい温度が触れる。

 驚いてぎゅっと閉じていた目を開ければ、この間俺を覗き込んでいた茶色の瞳が深い感情をたたえてそこにあった。


「格好悪くても、大丈夫。入江君は、大丈夫」


 頬を包んだ手が俺をなだめるように、目の下を小さく撫でていく。傷つけないようにと気遣われるその言葉が、今は痛い。

 俺はその手をそっと外し、きっとひどく不細工だろう顔をそらした。かっこわりい。


「無責任なこと、言うなよ――」


 こんな気持ち、何もわからないくせに。

 絞り出すような俺のその拒絶に、彼女が目を大きく見開いたのがわかった。

 柔らかなそこに俺が今、たった今、傷をつけた。それは荒んだ俺の胸の内に、どこかほの暗い喜びを与えて……それだけだった。

 さっきの恥ずかしさと比べものにならないくらいの、自己嫌悪。どす黒い独占欲。嫉妬。自分の苛立ちを彼女にぶつけて、それで満足するなんて――最低だ。

 凍り付いたように立ち尽くす内藤さんをその場に残し、俺は振り切りようにしてロッカールームへと走り去った。ただ、消えてしまいたかった。




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