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ドイツさんと私  作者: 吉田
番外編と後日談
15/32

緑の海の騎士は恋する 1 《入江君と駒子さん》



 あ、と思った時にはもう遅かった。

 突き刺さるような衝撃と、あとからやってきた痛み。ひどい、苦痛。息が苦しくて、暴れ出す前に全身から力が抜けていくのがわかる。誰かの声。悲鳴。真っ白になっていく意識の中で、俺はただ緑の海に沈む幻を見ていた。




 最初に目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな大きな茶色の瞳。それから、肩の辺りでどことなくユーモラスに揺れる、ポニーテール。


「……内藤、さん?」


 乾いた喉からなんとか声を絞り出すと、目の前の見慣れた顔がぐしゃりと歪んだ。まだぼんやりと霞む頭であれっと思う間もなく、俺の身体にぎゅうっと彼女――内藤駒子ないとうこまこさんが抱きついてくる。柔らかで温かな感触。

 そこでようやくばっちりと目が覚めた俺は、みっともなく動揺してなんとか起きあがろうと試みる。そういえば、俺、なんで寝てるんだろう?

 そんな俺から身体を離した内藤さんは、身を起こそうと慌てる俺をベットに押しとどめた。


「駄目だよ、入江君。もう少し寝てなくちゃ! 今、先生呼んでくるからね!」

「あ、いや、その、俺……どうして」

「覚えてないの?」


 きょろきょろと辺りを見回せば、ここはどこかの病室らしかった。クリーム色の清潔な室内には、俺と内藤さんのふたり。

 寝かされていたベットには、今まで首辺りを冷やしていたと思われるアイスノンがひとつ。

 ずきっと痛んだ頭に手をやれば、額にはガーゼが当てられていた。それに触ったとたん、その時の記憶が鮮やかに甦ってくる。


 前がかりに攻め込んでいたところへのカウンター。

 懸命に戻ってくるDF。間に合わない。

 その網を抜けて正面にやってきた敵FW。手強い相手。一対一。

 少し焦った相手が蹴りこんできたボールを受け止める。いや、取りこぼす。まずい。

 転がった身体を伸ばし、ぽつんと残されたボールに必死に近づく。もう少し。

 グローブに包まれた手がボールに届く。抱え込もうとした、そこへ。

 迫るスパイク。衝撃。

 白。

 暗転。


「ああ……!」


 一気に戻ってきた記憶に、俺は思わず顔をしかめた。

 サッカー選手として、ゴールキーパーとして多くの試合でひやりとした経験はあるが、こんな風に激突したことは初めてだ。しかも、フィールドで気を失うなんて。


「そうだっ、試合! 試合はどうなったの、内藤さん!」

「起きちゃだめだって! 大丈夫、試合勝ったよ。佐々さんが交代して」

「そっか……よかった」


 ほっと息を吐くと、安心したからなのか急に痛みを意識して、小さく呻いてしまう。すると内藤さんは顔を青くして、「ごめんっ、すぐ先生呼んでくる!」と大慌てで病室から出ていった――と思ったら、すぐに引き返して来た。そして、どことなく決まり悪そうに俺を見て言う。なんだ?


「あの、目が覚めたらナースコールしてって言われてたんだった……」


 赤くなったその顔に俺は思わず吹き出して、そんな俺を見てほっとしたように、内藤さんは照れたような笑みを浮かべた。

 俺が頭の上にぶらさがるナースーコールを押すと、内藤さんは横になってる俺のところまで近づいてくる。そして、なんだろうと見ている俺の頭に、恐る恐るそうっと触れた。びっくりして彼女を見上げれば、満面の笑顔。


「入江君頑張ったね。あそこで身体張って止めてくれたから、今日勝てたんだよ」


 その言葉に、俺は見る見るうちに顔が熱くなるのを感じた。そして離れていったその手を惜しみながら思う。

 ああ、俺、内藤さんのこと本当に好きなんだ――と。



***



 俺がゴールキーパーを目指すようになったのは、今から十五年前のこと。テレビであるひとりのキーパーの言葉を聞いてからだった。

 それは彼のチームがアウェイに乗り込んでの試合。当然、サポーターは相手側が多く、常にトップに君臨する彼のチームはひどいブーイングの嵐に見舞われていた。

 そんな中、彼が放ったひと言。


「Das ganze Stadion wird gegen uns sein, was schoeneres gibt es nicht.」

(スタジアム全体が俺達の敵だ、こんなに素晴らしいことはないだろう?)


 ひどく楽しそうな笑顔の中で、挑戦的に輝く青い瞳が強烈に俺の印象に残った。

 それまで背が飛び抜けて高いから、との理由でキーパーをさせられていた小学生の俺は、その日から熱心に練習を重ねるようになる。

 今まで目立つポジションであるFWやMFなんかを羨ましく感じていたが、それは違うってことに気付いたんだ。キーパーって格好いい、心の底からそう思わせてくれた。

 俺もいつかあんな風になりたい。

 まるで神様を崇めるような気持ちを抱いてきた、その世界的ゴールキーパー。元ドイツ代表オリバー・ビルケンシュトックさんは今、俺の目の前で――おにぎりを頬張っている。


「イリエ! 頭おかしい?」


 練習場に入ってきた俺に気がついたオリーさんが、あらゆる意味で足りない日本語をかけてくる。もはや、その言葉の意味を正しく理解することにも慣れてきた、冬。

 俺は笑って彼に近づいた。


「もう大丈夫ですよ。今日から練習復帰っす!」


 冗談めかしてこんこん、と自分の頭を叩いてみせると、おにぎりを飲み込んだオリーさんは満面の笑顔になった。多分、子供だったら泣く感じの。

 そうしてそのでかくて厚い手のひらで、俺の頭をわしわしと撫でる。これのほうが、スパイクと激突した時よりも痛い気がするんだけど。


「Bravo、Bravo、イリエ! 身体は大切に。だけど、キーパー、あの気持ちも大事ですよ」

「あっ、ありがとうございますっ」


 憧れの人からかけられた賞賛の言葉に、俺は涙ぐみそうになって頭を下げる。その俺の肩をばしばしと叩いていたオリーさんが、ふっと視線を俺の背後に流した。

 それにつられるようにして振り向けば、そこにはいつもの茶色いポニーテール。ユニフォームを両手に抱えた内藤さんの後ろ姿があった。

 冬の寒空の下でも、ぴんと伸びた背筋が綺麗だと思わず見とれる俺の頭を飛び越すように、オリーさんが彼女の名を呼ぶ。


「コマコ!」

「あっ、オリーさん、と入江君!」


 その声に驚いたようにこちらを振り向いた彼女は、オリーさんと俺を見てにっこりと笑った。俺の見間違いでなければ、特にオリーさんにむけての笑顔だった気がするけど……このふたり、いつの間に名前で呼び合うようになったんだろう。

 ついこの間までは、いかつくて大きくて、どこか厳格な雰囲気を発するオリーさんのことを、内藤さんはちょっとだけ苦手にしていたはずなのに。

 嬉しそうにこちらに駆け寄ってくる彼女に、俺はざわざわとする胸の内を隠すように、笑顔を返した。


「入江君、もういいんだ?」

「この通り、ばっちり。あの時はついててくれてありがとう、内藤さん」

「い、いいよう、そんな! 入江君はこっちにご家族いないし、頭は本当怖いからね」


 改めて頭を下げた俺に、内藤さんは少し顔を赤くして首を振る。

 俺が病室で目を覚ます前から、内藤さんがずっとついていてくれたんだと、さっき本橋さんが教えてくれた。その顔がにやにやしていたのは、この際忘れることにする。


「コマコ、いい子ですね」


 俺たちのやり取りをそばで聞いていたオリーさんが、そう言って、さっき俺にしたように内藤さんの頭を撫でた。俺よりは少し、優しい力加減で。

 すると、内藤さんは少し首をちぢこませ、ひどく眩しそうにオリーさんを見上げた。その表情に俺はあっと軽い目眩を覚える。

 だって、それは――。


「おーい、オリー! ちょっといいかあ!」

「Ja! イリエ、コマコ、Bis dann!」


 遠くから彼を呼ぶ声に答え、オリーさんは俺たちに軽く手を振ると、そちらのほうへと走って行ってしまった。

 なんとなく、自分的に微妙な雰囲気になってしまったその場を誤魔化すように、俺はオリーさんの消えたほうを見ている内藤さんに声をかける。


「あー、内藤さん、オリーさんと仲良くなったんだ?」


 俺のその言葉にはっと我に返った内藤さんは、顔を真っ赤にして、さっきよりも激しく首を振る。もう、それだけで答えをもらって気がしないでもないが。


「なっ、仲良くなったっていうか、あの……話してみたらなんていうか、イメージと違って。その、優しくてっ。だから、怖くなくなったというか……」

「そ、そうなんだ。わかるよ。ぱっと見はすっげえいかついけど、中身はけっこう可愛いとこある人だよな」

「そうなのっ! 可愛いのっ! やっぱり入江君、いつも一緒にいるからわかるんだね!」


 俺の何気ない感想に、内藤さんは目をキラキラさせて大きく同意する。その笑顔に俺は引きつった笑みを返すしかない。

 後半四十分。一対零で迎えたところで、だめ押し点を入れられた気分。

 俺はほんのわずかに残された期待にすがるように、内藤さんに問いかける。


「もしかして、オリーさんのこと好き、とか?」


 瞬間、これ以上ないってくらいに赤くなった彼女は、手にしていたユニフォームをすべて芝生に落としてしまった。あー……。

 小さく悲鳴を上げてそれを拾い始める彼女を手伝いつつ、俺は複雑なため息をついてしまった。それをどう捉えたのか、内藤さんは慌てて俺に言い募る。


「ち、違うよっ! じゃなくて、その、間違ってはないんだけどね! あの……」


 ちょっと悲しそうに眉を下げて、口だけで微笑む。

 なんだかこっちまでぎゅっと胸を掴まれたような、そんな切ない表情をして彼女は言う。


「知ってるんだよ、婚約者さんのこと。だからね……」


 片想いなの、となぜかすごく嬉しそうに呟いて、「秘密だからね!」と俺に念を押し去っていった。俺はなんとかそれに頷き返し、そうしてその小さな背中を呆然と見送る。マジかよ。

 別の意味で痛くなってきた頭を抱え、俺はゾンビのようにふらふらとロッカールームへ向かったのだった。



 入江衛司いりええいじ、二十五歳。

 J2ゼームレング街田の正ゴールキーパー、三年目。

 今、この瞬間、片想いから失恋に降格が決定しました――。



オリーにプロポーズの言葉を伝授してくれたキーパー入江君の話。少し続きます。

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