そして私は途方に暮れる 《オリーと麦子》
想像してみてほしい。
日曜日のゆっくりとした朝。いつもより遅い時間に起きて二度寝の誘惑を振り切り、ぐうぐうと存在を主張するお腹を宥めながら階下のキッチンへ行くと、そこにあった。
すでに高く昇った陽の光に、きらきらと光る金髪を後ろへ撫でつけて綺麗に固め、見るからに上等なモノトーンのスーツに身を包んだ巨体が。そしてそれが、なぜかピンクのふりふりエプロンをつけてキッチンに立っている光景が!
思わず三回は見直した。もちろん、寝ぼけた私の頭が生み出した妄想だと思いたくて!
するとその気配を感じたのか、キッチンに立ったそのある意味R指定本体が、くるりとこちらを振り返る。そして、破顔一笑。
「モルゲン、コムギ! 今、オリーが朝ご飯製造していますよ!」
「ああ、うん、おはようございます……」
ねえ、なんでオリーはふりふりエプロンなの?
この短い朝の挨拶の間に、私は何か人生に大切なものを諦めた。ものすごい勢いで。
その格好についてどこから突っ込もうかと思案する私の鼻に、何かが焼ける香ばしい香り。釣られてお腹が大きく音を立てた。
それを聞き逃すことなく、なんでかすっごく嬉しそうに笑ったオリーが「コムギ、フェアフンゲレですよ」と、われのわからないことを言う。
こういう時、そろそろ私も少しドイツ語勉強しようかな、と思う。今までありとあらゆる重要な場面において、このドイツ語に誤魔化されてきた気がするからね。
そんなことを考えている間に、ダイニングテーブルについた私の前に、美味しそうな料理ののったプレートが置かれた。加えて、生クリームたっぷりのコーヒー。
「Guten Appetit!」
自信満々に差し出されたそれを、とりあえずじっと観察してみる。
スライスされた何か肉っぽいものの上に、しっかりと焼かれた目玉焼き。付け合わせには薄く切って炒められたじゃがいも多数。目玉焼きの黄色の上に乗せられたハーブの緑が、おしゃれである。
悔しいことに、とても美味しそう。
用意されたナイフとフォークを握りしめ、ちらっとオリーを見れば、なんか珍しい生き物の食事シーンでも見るかのように熱い瞳とかち合う。
「オリー、その……そんなに見られてると食べにくいんだけど」
「オリーは今からベルリンの壁です」
「もうそれ崩壊したでしょ!」
会社の後輩羊子ちゃんにするように、ついそのほっぺを挟んでピヨピヨ口にしてやる。すると、オリーはむしろ嬉しそうに笑って、私の手のひらにちゅっと音を立ててキスをした。ななな、なにをする!
もう、私の人生に置けるキスの容量を超えてるよ!
「冷たいの美味しくないよ、コムギ」
「わかった、わかったから手を離す!」
唇を付けたままで喋り出したオリーから、素早く手を取り戻す。そして、私はちょっとだけ赤くなった頬を誤魔化すように、目玉焼きにナイフを突き立てた。
固めの焼き方は、私の好みである。
もしかして、前に一緒に食事した時のその言葉を、ずっと覚えていてくれたんだろうか。
「あのね、その……ありがと」
「Bitte Scho"n!」
いつ見てもどこから見ても、捕らえた獲物を今から食べますっていう肉食獣的笑顔を浮かべ、オリーは手を伸ばして私の頭を撫でた。珍しくそうっと、繊細な動きで乱れた前髪を整えてくれる。
優しいけれど、明らかに父親とは違う触れ方をされた私は、ひどく恥ずかしくなってしまって無理矢理会話の方向を変えた。
「きょ、今日はどこか出かける予定なの? なんかスーツとかだけどっ」
「Ja、オリー、今日はメンセツです。モトハシと一緒します」
「面接!?」
オリーの口から似合わない単語が飛び出して、私は思わず声を大きくして訊き返した。
そういえば、サッカーチームの臨時コーチだとかそこらへんの、オリーのお仕事事情を私は詳しく知らない。
もしや転職するとか? ていうか、モトハシさんて、誰?
頭の中にいっぱいの疑問符を浮かべている私を見て、何を思ったのかオリーはテーブルの向こう側から身を乗り出し、唇に軽いキスをした。
……私、オリーといるうちに、来世分までキスするかもしれない……。
私のその気持ちを知ってか知らずか、とたんに機嫌がMAXになったオリーは、エプロンを外してきっちり畳むと、「イッテキマース」と元気よく出かけていった。
お、おまえはイタリア人かっ!!
追いつかなかったツッコミを心の中で入れつつ、私は急激にあがってしまった体温にくらくらしながら、ブランチを続けたのだった。
まさかその時、あんな悲劇が起きるとも思わずに――。
***
「おや、今日はオリー君、いないんですか?」
夜になってお母さんとのデートから帰宅したお父さんが、開口一番そんなことを訊く。
ああ、うん。あのでかいの、いないとすっごく目立つもんね。いるだけで威風堂々だもんね。
簡単な夕食を済ませ、いつも通りにこたつに入っていた私は、ネクタイをゆるめているお父さんを振り返った。
「なんかねえ、面接だって言ってたよ」
「面接? オリー君はコーチの職についているんじゃなかったかな?」
「そうだと思うんだけど、詳しく聞く前に出かけちゃったから……」
もっともなお父さんの疑問にろくに答えることもできず、私はみかんを口に放り込んだ。何気なく時計を見れば、もうすでに午後十二時に迫っている。
帰ってくれば必ずうちに寄るはずだから、オリーはまだその『面接』とやらから帰宅してないってことだよね。なんだか、こうしてひとりで過ごす休日も、久しぶり。
私が会社に行っている間や、本腰を入れてコーチの仕事をし出したオリーとは、平日はすれ違い気味。なので、休日の夜は必ずオリーがべったりと私に引っ付いているが、もはや私の日常になりつつあったんだけれども。
背中に感じない体温や、その大きな身体がないだけで、こんなに心にぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになるとは思わなかった。
「麦子、オリーちゃんがいなくって寂しいんでしょう!」
「何言ってるの、お母さん!」
ぼんやりしていたところを不意に突っ込まれ、私はむせながら否定する。う、みかん丸飲みしちゃったよ……。
その慌てようにお父さんのあとから入ってきたらしいお母さんが、にやにやと意地悪な笑みを浮かべている。素直になっちゃいなさい、とでも言うように。
ああいやだ、この万年新婚夫婦め!
スーツを脱ぐお父さんの手伝いを、甲斐甲斐しくしているお母さんを横目で睨みながら、私は大きなため息をついた。まあ、少しくらいは寂しい、けどね。
そんな気持ちを誤魔化すようにお茶を飲みつつ、私はテレビの電源を点ける。すると、そこには――。
『はーい、今週も始まりました、たべっちFCでーす!』
『本日はスペシャルゲストとして、元日本代表MF、本橋涼太郎さんと――』
『なんと、世界的GK、元ドイツ代表、オリヴァー・ビルケンシュトックさんにお越し頂いていまーす!』
ぶほわあっと思い切り茶を吹く。吹いただけにとどまらず、気管に入ったそれにむせる。
「あらやだ、大丈夫なの、麦子!」と背中をさすってくれるお母さんに何度も頷きながら、私は涙目のままテレビ画面に釘付けとなった。
そこには、どこからどう見てもお昼に私が見たままの服装をした、オリヴァーがいつものなまはげスマイルで映し出されている。めめめめめ、面接って言ったじゃんよ!
「あれ、これはオリー君じゃないですか」
「まあ、本当! スーツがよく似合ってるわねえ」
「なななななな、何で!?」
テレビの中のオリーを見て、こたつに寄ってきたマイペース両親はこの際無視する。
ちょっと待って、ちょっと待って。面接ってこんな意味があったっけ!?
面接って就職のために色々と履歴を訊かれるってことでしょ、簡単に言うと!
『やー、そうですかあ、オリーさんは正式にゼームレング街田にGKコーチとして就任なさると!』
『Ja、これが最初のアルバイテですよ』
『お陰様で、来季J1昇格なもんで、フロントから宣伝に行ってサポーター倍増させてこいって厳命されまして!』
『それは、オリーさんを客寄せパンダにってことですかあ?』
『パンダというより、ゴリラ的な何かですけどね』
『それではここで、お二人の現役時代の活躍映像を見てみましょう!』
……しゅ、就職のために色々と履歴を訊かれるってこと、ですね。うん、間違ってない。
なんか負けた気がする、と私はものすごい疲れを感じて、ただ呆然とテレビ画面を見つめ続ける。
そんな私に「お父さんとお母さん、部屋にいるからね」と、両親はなにか斜め上のほうに気を利かせて引き上げて行ってしまった。別に、いてくれて構わないんだけど。
その私の目に、次から次へと現役時代のオリーの映像が飛び込んできた。
彼の部屋に飾ってあったユニフォームに身を包んで、今よりずっとずっと険しい顔で何かを叫んでいる。
肩を組んで見守るチームメイトの前を通り、ゴールの前に立つオリー。これはPKってやつかな。蹴られたボールを何度も華麗にはじき飛ばして、そして最後。オリーが歓喜の雄叫びを上げて走り出すと、チームメイトや監督までも興奮してその身体を抱き締めた。
『以上、オリーさんのチャンピオンズリーグでのPK戦を見ていただきましたが……』
『いやあ、めっちゃすごいじゃないですかあ。神がかってますよね!』
『ダンケ! でも、オリーだけじゃないです。他のセンシュ、決めました。だから、勝てたですよ』
きっと、その時すごく嬉しかったんだろうな。
画面からでも伝わってくる彼の喜びに、私の頬が無意識に笑みの形になる。今日は遅くなるだろうから、明日の夜にでもその時のこと聞きたいなあ。
なんて私がいい話だなあ、と油断していたそこに。
『ところでオリーさん、ご婚約されたとか!』
『Ja』
『えぇー、幸せオーラですねえ、羨ましいですっ。お相手はどんな方なんですか?』
司会であるたべっちと女性アナウンサーの問いに、オリーはにっこり満面の笑みを見せた。やややややや、やばいやばいやばい。これすっごくやばい予感がしまくるよ!
オリー、壁になって! 今だけでいいからベルリンの壁復活してえええええ!!
『コムギはとっても優しいですね! 来る時、オリーにちゅうしてくれたですね!』
『うわあ、のろけだあ!』
嘘つくなあっ、オリヴァー・ビルケンシュトック!
したのは、あなただ、あなた! どっちかって言うまでもなく、私は奪われました!
強く強くテレビ画面に呪いの視線を送ろうと、その口を閉じさせることは敵わない。しかも、この番組、生放送……終わった。私の人生、終わった。
ていうか、これサッカー番組でしょうっ。もっとサッカーの話してよおおおおっ。
『じゃあ、そんな幸せいっぱいのオリーさん、最後にひとつだけその婚約者さんの素敵なところを教えて下さい!』
そんなたべっちの余計極まりない質問に、オリーは眉を寄せて考え込んだ。
よおーしよし、そのまま時間切れになれっ。生放送だもん、あんまり悩む時間だってないはず。ほら、ね、そろそろ次のVTRとかにいっちゃってよ。いってよ!
なんて私の祈りも虚しく、すぐにぱっと顔を輝かせたオリーは、なぜか自信満々に言ってのけたのだった。
『オッパイ大きいですね!』
ビール樽で溺死すればいいのに、このドイツ人。
その後、一週間鈴木家に出入り禁止の上、完全なる無視をくらったオリーが本橋さんに泣きつき、事の真相を明かされることになる。
それはふたりがドイツで同じクラブにいた時のこと。チームメイトであるイタリア人に、本橋さんが日本語を聞かれたことが原因だった。
「女の子にカワイイねって、日本語ではどう言うの?」との質問に、いたずら大好きな本橋さんはこう答えたというのだ。「オッパイ大きいですね」だと。
それを伝え聞いて真面目にメモまで取って勉強してしまったオリーは、だから私の魅力について聞かれた時に答えたのだ。「可愛いところです」と、教えられたその日本語で!
必死に土下座をする二人の男に、私はもうため息しか出てこなかった。
そして決める。すぐにでも独和辞典を買いに行こうと!
その後、この話の顛末を聞いた本橋さんの奥様から、本橋さんが苛烈な制裁を受けたというのはまた別のお話――。
オリーが作っていたのは、レバーケーゼ。そして日曜夜のサッカー番組といえば、あれです。
おっぱい云々の話は、元大リーガー佐々木選手の話を元にしました。なにやってんだ、佐々木!