彼女はそれを我慢できない 《羊子と和久井部長》
小さい頃から、白馬に乗ったきらきらの王子様にはなんの魅力も感じなかった。
あんな乳臭くてほっそい男のどこがいいんだろう、なんて幼いながらませたことを考えていた私の好みといえば、筋肉。その一言に尽きる。
それも無駄に鍛えられた装飾的な筋肉では駄目。例えば消防士や自衛官、サッカー選手や柔道選手に格闘技の、そういう必要なところに必要な筋肉が必要なだけつきました!って感じの奴じゃないと駄目。肉は赤身が一番!
だからむしろ、王子様の護衛役だとか傭兵だとかはたまた敵役だとか、昔っからそういうムキムキな男臭い人に惹かれる質なのである。
その筋肉大好きのある意味肉食系である私が、どうして今現在、ほっそり草食系代表みたいな営業部長さまに押し倒されていたりするんだ!?
「狩野羊子さん、何を考えているんですか?」
「き、筋肉について色々と回想を!」
「お好きですよね、筋肉」
私に覆い被さっている細身の営業部長様――和久井基さんは、こんな状態だというのに、いつもと変わらないのんびりとした口調で問いかけてくる。
それについ答えてしまう私も私だけれど、いやこれはその、パニックです。プチどころがメガトンパニックです。
そんな場合ではないでしょう!と私の中の仕分け人が声を上げるが、筋肉愛にはうち勝てなかったらしい。思い切り筋肉への想いを叫んでしまった。
「大好きですよ、筋肉!」
「そうですか。それならよかった。僕の努力も報われます」
え、え、えええ!?
にっこりと笑ってそのまま私へと近づいてきた唇に、反射的に目を閉じる。
ふわっと重なったその温度は思ったほど不快ではなく、いつも微笑をたたえている薄い唇の形がくっきりと感じられた。男の人だからだろうか、少しかさついたそれは軽く触れたと思うと、呆気なく私から離れていく。
もっとすごい展開を頭の中で瞬時に妄想していた私は、ほっとした反面「これだけ!?」という複雑な気持ちを心で叫びつつ、目を開けた。
別にそれ以上のめくるめく何かを期待してたわけじゃないけどね! ないと、思うけど。
そんな私の葛藤を知ってか知らずか、和久井部長はやっぱり優しい微笑みで口を開く。
「僕ねえ、最近ボクササイズを始めたんですよ」
この、いかにもこれから僕たちアハンウフンなことおっぱじめますよって体勢で、突然そんなことを言い始めた部長に、私は思いきり「はあ!?」と声を上げてしまった。
あ、いや、その、上司にむかってその口の利き方はないだろうとは思ったが、それを言うなら部下に対してこの体勢もないだろう。
あああ、もう何言ってるの、落ち着けっ! 落ち着け私っ!
「だって狩野さん、格闘家みたいな割れた腹筋がお好きなんでしょう?」
「ちょう好きですけど! 否定しませんけど! それが今この状態と何か関係があるんでしょうか!」
言った。言ってやったよ!
うっかりと部長のかもし出す癒し的マイペースに飲み込まれてしまったが、ようやくここからは私のターン!とばかりに反撃を開始する。
両手を部長に掴まれ、ベットに縫いつけられていなければ、ここでガッツポーズも追加したかったが仕方ない。すると、部長は変わらず笑顔のままで次の話題に移る。
「狩野さん先週、営業の神林君に告白されましたよね」
「なななな、なんで知ってるんですかあっ」
「僕、営業部長なので」
「関係あるかああああっ」
相手が上司であるという遠慮をかなぐり捨てツッコミを入れた私に、よくわからない答えを出す部長。営業部長って、営業部長って、そんなことまで仕事ですか!?
予想外のところから入ったジャブに、わたわたと動揺する私を見て、部長は「まあ、それは嘘ですけど」っとしれっと追加した。
この人、黒い。絶対に、六代目三遊亭圓楽さんより腹黒い!
「ボールペンのインクが切れてしまいまして、備品倉庫に行ったらたまたま、ですよ」
「のおおおおおおおおおおっ」
のたうち回りたいっ。のたうち回りたいので、離してくださいっ、部長!
見る見るうちに自分の顔が赤くなっていくのがわかって、私は上からその様子をじっと見ている部長から目を逸らす。そう、確かに。確かに告白されました。はい、さーれーまーしーた!
半ば自棄になって、私は先週備品倉庫で起こった甘酸っぱい記憶を引きずり出す。あれはいつも通り、切れたコピー用紙を補充するため倉庫に入った時だった――。
コピーしようと思ったら紙切れで、しかもいつもの棚にすら用紙が入っていなくて。
仕方なく私は隣の席の麦子先輩に声をかけ、事務から離れた場所にある備品倉庫へと赴いたのだった。
ここからA4コピー用紙の束を五つほど運ぶとなると、すごい重い。だから、いつもなら少し在庫が減るたびに使用者がきちんと補充することになってるはずだったんだけれども。これは営業の男どもの仕業に違いない!
もう、使っていて切れたら補充しろよなあ、なんてぶつくさ呟いていた私の後ろから、その営業さんが同じように倉庫に入ってきた。
見慣れないその顔は、確か今年入社したばかりの新人君で、名前は……肉は赤身君だ!
正式名称は思い出せないが、筋肉名称は私の中でばっちり管理されている。
多分、学生時代はサッカーとかバスケとか、そういう有酸素運動激しい系の部活とかサークルとかで活躍してましたって感じの、柔らかそうな脂肪の少ないいい筋肉を持っている。これでその若さゆえの細さがなければ、私の中の筋肉番付ではもっと上位を取れただろう、という将来有望な新人君。
その彼が、なぜか顔を真っ赤にして私へと迫ってきた。えええ。
「狩野さんっ、あ、あのっ、俺っ、好きですっ」
「備品倉庫が?」
「狩野さんが!」
ちっ、ノリツッコミで誤魔化そうとしたのに。
私のその「あらやだ私ったら天然なの」という擬体をあっさりと跳ね返し、赤身君はがしっと私の肩を両手で掴んだ。そしてそのまま、倉庫の壁に押しつけられる。
「ちょ、ちょっと!」
「好きなんですっ! 俺と付き合ってください!」
「却下!」
言うが早いか、私は即座にお断りの言葉を告げる。すると赤身君はちょっと泣きそうになりながらも、ぐぐっとさらに私に顔と身体を近付けてきた。
例えるならば、雨の日に捨てられた柴犬の子供みたいな黒い瞳で、じっと私を見つめてくる。ごめん、私猫派だし。
「何でですか!」
「圧倒的な筋肉量不足です! ミルコ・クロコップまでとは言わないけど、もう少しないと駄目! なので却下!」
「そんなあ! だったら俺、これから鍛えますっ。俺の伸びシロに期待してくださいっ」
「なし! 私が男性に対して期待する筋肉は、三十代から光る筋肉です。あと十年後に期待します」
そう言ってぽんぽんと自由な手で尻を叩いてやると、赤身君はがっくりと肩を落とし、しかも涙ぐんで倉庫から退場していった。うむ、素直なのはよいことだ。
いい筋肉育てろよ!と、その後ろ姿に敬礼を送り、私はまたコピー用紙補充の作業へと戻ったのだった。
まさか、その一連のやり取りを、この和久井部長に目撃されていたとは……!
「圧倒的な筋肉量不足が原因だと知って、神林君ジム通いを始めましたよ。先週から」
若いっていいですよね、とどこか他人事のように寸評を下した部長に、私は心の中で十回くらい呪いの言葉を送りつける。禿げろ禿げろ禿げろ禿げろ……。
しかし、私を押し倒している部長の髪の毛は、四十代に差し掛かろうというのにふっさふさのさらさらで、とてもじゃないが近いうちに禿げそうにもない。
むしろ、女の私から見ても羨ましいくらいのキューティクルの持ち主だ。栗色の髪に、薄いフレームの奥からこちらを見つめる、同色の瞳。全体的に色素の薄いその顔立ちは、柔和に整ってはいるが、決してなよなよとはしていない。簡単に言えば、美中年様だ。
前任である営業部長も、ワイルド熊系な美形だったが、それとはまた正反対の美形。私たち営業事務員たちの、密かなアイドルである。
いや、見ているだけならばいい。だがしかし、私の好みは筋肉! 筋肉一筋!
「焦りましたねえ。あのまま神林君に若さで押し切られたんじゃ、僕には太刀打ちできませんから。せっかく、ボクササイズで頑張って腹筋を割ったのに、それじゃああんまりでしょう?」
「腹筋!?」
この期に及んでそこに反応してしまう自分を、私は愛おしいと思うんだ。うん。誰も言ってくれないので、自分で自分を全肯定。
それでよく、隣の席のちっちゃくて可愛いハムスター的な麦子先輩には、ピヨピヨ口の刑という懲罰をくらうが、それはそれで萌えるのでよし。違う、そうじゃなくって!
私のその反応に気をよくしたのか、部長は何か黒さ漂う微笑みを一変させ、なんだかお気に入りのおもちゃを自慢するような笑顔になって私に問う。
「見たいですか?」
何気なさを装ったその声音に騙され、危うく素直に頷きそうになって――かろうじて止める。今年最大級の理性を動員した。もう、今年も残すところあと一週間だけども。
そう、そうだ。さっきまで営業と事務との忘年会だったはずだ。
なんでかいつも以上にハイペースで飲み続ける麦子先輩は、珍しいことに早々と沈んでしまって、それを営業の木村さんに預けたところまでは記憶にある。男の人に可愛らしい先輩を預けるのは心配だったが、この和久井部長が「彼なら大丈夫でしょう」とのお墨付きを出した為、そのまま見送った。
確かに、木村さんには彼女もいるらしいし、普段から馬鹿正直で曲がったことは嫌いな人柄なので信用はある。そのまま、じゃあ僕たちも帰りましょうか、と部長に言われてそれに頷いたらこんなことに。
ああ、気付いてなかったけど、私めちゃくちゃ酔っぱらってました。今さら、もう遅い気もするけど、そんなことを思い出す。
「ぶ、部長、早まらないで! 奥さんが家で美味しいお茶漬けつくって待ってますよ!」
「今からお茶漬け作っていたら、漬かりすぎで美味しくないですよ。あと、僕に奥さんと呼べる方はおりませんので、安心してくださいね」
安心できません、まったくできません。むしろ、危険な香りがしています!
その言葉にぶるぶると首を振る私に何を思ったのか、少し悲しげに眉をひそめた部長がひっそりとため息をついた。麗しいです、部長。
「なんとなくこの歳まで独身を通してきましたが、どうも最近周りがうるさくて困りますね。ジムに通って体を鍛えだした辺りから、営業さんたちが僕にゲイ疑惑をかけまして。僕としてはもう少し穏便にゆっくりとあなたを落とすつもりだったんですが、まあ、そろそろ頃合いということなのかな、と思ったんです」
「ここここ、頃合いって! 落とすって!」
「ずっとあなたのことを想って、あなたのために腹筋まで割ったのに、ぽっと出の男なんかにあなたをかっさらわれたりしたら、僕は泣くに泣けませんから」
だから、先に既成事実を作ってしまおうかなあ、と。
そう続けられ、私はあまりの言われように頭がくらくらしてきてしまった。なんだこの告白。ていうか、告白!?
「ねえ、狩野さん。僕の腹筋、触ってみたくありませんか?」
私がショックとパニックと何かでぐるぐると目を回していると、いつの間にか上半身裸になった部長がこちらを見て妖しく微笑んだ。
ぐわあああ、なんだその色気! 四十手前の男の色気!
言われるままに視線を落としていけば、程良く引き締まった胸板の下に、美しく割れた腹筋がこれでもか!と私に自身を主張していた。しかも、私の好みにドストライクな奴。
無意識にこぼれそうになるヨダレを飲み込めば、私たち以外に誰もいない静かなやる気に満ちあふれたホテルの部屋に、ごくっという生々しい音が響き渡った。あわわわわ。
気まずくなってちらりと部長の顔を見上げると、なぜか彼は物凄く満足げな表情をしている。
「ね、我慢しなくていいんですよ。これはあなたの腹筋なんですから」
「わ。わ。私の腹筋……」
その甘美な響きに、私の理性は崩壊寸前だった。
だって、私の腹筋だよ!? 私がなぞったり、叩いたり、キスしたりしてもいい腹筋てことなんだよね!?
色々な角度からライトを当てて陰影を造り、それを一眼レフカメラに収めた上で、私だけの腹筋写真集を作っても許される被写体だってことだよね!?
「ほら、早く触ってみてください」
ささやくようにそう言った部長は、押さえていた私の両手を離し、そうしてゆっくりと自分の腹筋へと導いた。
そっと手のひらで触れたそれは固く、お酒のせいなのか少し熱く感じられる。そのまま人さし指でなぞると、部長の身体がぴくりと揺れた。その可愛らしい反応に、ついに私の理性は爆発し、木っ端微塵にどこかに吹き飛んだ。
がばりと勢いよく身を起こし、ぐるんと部長と自分との体勢を入れ替えると、おもむろに私を誘う腹筋に唇を寄せる。ああ、この感触! この感触なんだよおおお!
しっかりとついた段々ひとつひとつにキスをして、頬を擦りつけていた私の身体を、突然部長の腕ががっしりとホールドした。えっ、なんですか。
きょとんとして私が部長を見上げると、彼の人はすっごくとっても果てしなく黒い微笑みで口を開いた。
「触りましたね? 舐めましたね?」
「えっ」
「もう返品はききませんよ? 食品会社の事務さんなら、わかってると思いますけど」
「ええっ」
その言葉に、今自分が部長の腹筋に対してやってしまったことを、思い返す。
さ、触りましたとも。な、舐めたというか、吸い付きましたとも。ええと、これ、生もの? 食品!?
ざーっと血の気の失せていく私に対して、物凄く機嫌の好さそうな部長がぐいっと私の身体を自分のほうへと引き寄せた。近づく部長の瞳が、そらせないほどの欲望を内に秘め、私を見つめている。ああ、もう……。
「やっ、やっちまったー……」
「はい、やられました」
再び満面の笑みを浮かべ、今度は突然に深く口づけてきた部長を受け止め、私はついに降参する。さすが百戦錬磨の叩き上げ営業部長!
これ以上ないというくらいに隙間なく合わせられたその唇に、悔し紛れに軽く食いつくと、ますます口付けは深くなる。仕方がないので、私はそっと目を閉じてその部長の動きに応えた。
だって私は今、この気持ちを我慢できそうにないのだから!
肉食系女子、草食系男性の反撃をくらう。ビバ腹筋!