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ドイツさんと私  作者: 吉田
番外編と後日談
12/32

鈴木家の野望 《麦子の両親》



 家に帰ったら、居間でゴリラが雄叫びを上げていた。

 居間に置かれたこたつでテレビを見ながら、その大きな肩を震わせ「サツキっ、メイっ」と、どこかで聞いた名前を呟いている。涙声で。

 ――ん? 名前を呟いている?

 どうしてゴリラが言葉を話せるんだろうと、よくよくその姿を見てみれば、そこにいたのはゴリラではなく、ものすごく大きな外国人だった。

 ここは自分の家だよな、と確認しながら近づくと、その気配を感じたのか外人がくるりと振り返る。


「コムギのファータァ!」


 青い目を真っ赤にしたゴリラ――もとい外人は、大きな身体の割に機敏な動きで立ち上がり、数歩で僕の前までやってくるとおもむろにがしっと抱きついてきた。

 その精神的衝撃に、持っていた通勤鞄を床に落とす。とりあえず、いったい君は誰なんだ!


「あら、敦行さん、おかえりなさい」

「お父さん、お帰りー」


 あらん限りの力を持って僕に抱きついている外人の後ろから、探し求めてやまない家族のおかえりコールがかかる。それに僕はほっと胸をなで下ろ――せないほど苦しいので、そちらにむかってギブアップの信号を送った。


「あっ、こらっ、オリー! お父さんを絞め殺す気!?」

「コムギ、これはオリーの気持ちの強さです」

「いいから離して! 死んじゃう! 死んじゃうから!」


 駆け寄ってきた麦子がべしべしとその広い背中を叩くと、オリーと呼ばれた外国人はようやく僕から離れてくれた。ああ、空気って素晴らしい!

 ネクタイをゆるめ深呼吸をする僕の背を、麦子が心配そうにさすってくれる。娘よ、ありがとう。


「大丈夫? お父さん」

「だ、大丈夫。もう大丈夫だよ、ありがとう」


 不安そうにこちらを見上げる麦子に笑ってそう言うと、僕は改めて目の前に立ちはだかる外国人を見やった。

 黄金色の髪は短く整えられ、青い瞳は今は私をとらえて細められている。なんだかとても恐ろしい形相に見えるが、多分、これは微笑まれていると思っていいのだろう。いかつい。とてもいかつい。

 鍛え上げられた体躯はさっき締め上げられて充分に理解したし、とにかく近年稀に見る巨人ではある。それも、筋肉のしっかりついた、まさに欧米人。

 しかし、とそこまで彼を観察しながら、僕は首を捻った。

 この外人さんを、僕はどこかで見たことがあるような気がするのだが――。


「お父さん、こちらオリー。一週間前に隣に引っ越してきたの。お父さんは出張だったから、知らなかったよね」

「Ich freue mich, Sie kennen zu lernen! オリバー・ロルフ・ビルケンシュトックです。ドイツから来ました! ムッタァ、コムギ、大変親切でした」


 低く心地よい声で挨拶の言葉を告げると、そのオリーは分厚く大きな手で僕の手をがっしりと掴む。そしてぶんぶんと上下に容赦なく振った。

 シェイクハンドだとはわかるが、その力に手だけではなく腕全体が持っていかれて、僕はがくがくと揺さぶられながらなんとか頷く。


「は、初めまして、ビルケンシュトックさん。僕は鈴木敦行すずきあつゆきです」

「オリーはオリーですよ! あー、アチュユキ?」

「敦行です」

「アチュ……アチュ……」


 どうも「つ」の発音が上手くできないらしく、ビルケンシュトック――本人が言うにはオリーは、一所懸命その大きな口の中で僕の名前を転がす。

 その様子がなんだかとてもおかしくて、僕は出会い頭の衝撃からようやく肩の力を抜くことができた。


「オリー、あなたの好きなように呼んでください」


 笑ってそう言えば、オリーはその青の瞳をぱっと輝かせ、傍で成り行きを見守っていた麦子に確認するように口を開いた。


「コムギ、ファータァだから、オオムギ!」

「それはなしっ!」


 思いがけず被って否定した私たち親子を見て、オリーはなぜか嬉しそうに笑う。

 それが私と隣のドイツ人、オリバー・ロルフ・ビルケンシュトックとの異文化交流の始まり。

 そのうち家に入り浸るようになった彼が、私のことを「ファータァ」と呼び始めるのは、このすぐあとからだった――。



***



「これはね、鈴木家最大のチャンスだと思うのよ」


 夫婦の寝室のベットの上、のんびりと新聞を読んでいた僕にむかって、そう強い口調で宣言したのは僕の奥さん――玉菜たまなさんである。

 いつも後ろでまとめられている真っ直ぐな黒髪は、寝る前ということもあって、今は肩まで降ろされている。それが、ぐっと拳を握る彼女の動きとともにさらりと揺れて、僕は少しだけどきっとする。

 何かを決意した大きな黒い瞳は、娘である麦子とお揃いで。奥さんの素敵なところはすべて娘にきちんと受け継がれたんだなあ、と僕は嬉しく思っていた。


「鈴木家最大のチャンスって何ですか、玉菜さん」

「聞いてくれる?」

「もちろん」


 読んでいた新聞をサイドボードへと置き、ついでに眼鏡も外してその上に乗せる。そうして奥さんに向き直ると、彼女は満足そうに微笑んだ。

 僕は何はともあれ、彼女が嬉しそうにしているのが好きなのだ。


「ねえ、敦行さん。私とあなたが付き合ったきっかけを覚えてる?」

「忘れるわけないですよ、玉菜さん。それは、僕が『鈴木』であなたが『佐藤』だったからじゃないですか」


 彼女と最初に出会ったのは大学生になりたての頃。

 流されるままに入った、『お馬さんを愛でる会』という競馬サークルの新歓コンパの席でのことだった。

 競馬観戦という活動内容に反して、そこそこ女性の姿もあったサークルだが、僕と奥さんが言葉を交わすようになったのは偶然ではない。実は僕も彼女も、飲み会に参加していながら、お酒はほとんど飲めない体質だったのである。

 なので、必然と盛り上がる中心からは外れ、静かな隅のほうで料理をつまむことになる。そこに奥さんはいた。

 ああ、なんて可愛らしいんだろう。

 それが第一印象。今から思えば、僕はもうその時点で彼女に恋していたんだ。

 ナンパなどしたことがない僕が、さっさとその隣の席を確保して、多少強引に自己紹介など始めてしまったのがいい証拠。


『こんばんは、初めまして。僕は鈴木敦行といいます。よろしければ、お名前を教えて頂けませんか?』


 その僕の言葉にちょっときょとんとして、彼女はそれからくすくすと笑い始めた。

 何かおかしなことをしてしまったのだろうか、と不安になりかけた僕に「ごめんなさい」とひと言そえて、彼女は言う。


『私、佐藤玉菜。ねえ、面白いと思いません? 鈴木と佐藤なんて』


 問われた内容に僕は首を捻る。

 生まれてこの方、鈴木という名字で笑われたことも面白がられたこともない。むしろ、歩いていて石を投げれば、高確率で「鈴木さん」にあたるくらいの、ありふれすぎた名前だ。

 そこまで考えて、彼女の名乗った名字に思い当たる。その僕の表情を正確に読みとって、彼女は頷いた。


『私たちの名前ってありふれていて面白くないでしょう? しかも、うちの両親なんて二人揃って佐藤なものだから、私は小さい頃からこう言われてきたの。「結婚するなら絶対に三文字以上の名字の人にして」って』

『奇遇ですねえ。僕もそうですよ。特に僕は次男だから、婿に行って名字を変えろって半ば本気で言われてます』

『まあ。じゃあ、残念ね』


 僕がそう言ったとたんに形の良い眉を下げ、心底悲しそうにこちらを見つめる彼女に、僕は胸がぎゅっと詰まるのを感じた。

 その時はよくわからなかったけれど、ただこの人にこんな風な顔をしてほしくない、そう思った僕は、慌てて言葉を重ねる。


『何か、不快なことでも?』


 すっかりしょげてしまった彼女は、小さく首を振ってから顔を上げ、真っ直ぐにその黒い瞳で僕を見つめた。

 その深い色に、僕はお酒を一滴も飲んでいないのに、くらくらと囚われてしまう。

 そして彼女の次の言葉で、僕は完全にダウンしてしまうのだった。


『だって、それじゃああなたと恋ができないわ』





 そう言われて「そうですね」と引き下がれるほど、僕の一目惚れは軽くなかった。

 強引に、ひどく滅茶苦茶に説得の言葉を重ね、僕は彼女――今の奥さんと恋に落ちることになる。

 大学を卒業しても僕たちの恋人関係は続き、いざ結婚の段になって両家に挨拶に行った僕たちは、お互いの両親からものすごくがっかりされたりもした。よりによって、鈴木と佐藤が、なんて。

 だから、娘が産まれた時に僕たちは冗談半分に言ったのだ。「この子こそは珍しい名字の人と結婚できればいいね」と。

 もちろん、素敵な人と出逢って素敵な恋をして、幸せな結婚をしてくれればそれでいいのだけれど。

 そこまで思い出していた僕は、それを察して黙っていてくれた奥さんに笑いかける。


「そうか、そんなこともありましたよねえ」

「思い出してくれた? じゃあ、オリーちゃんの名字もついでに思い出してみてくれない?」

「オリー君の?」


 言われて、近頃とても頻繁に家へと遊びにやってくる、あのいかつい彼の顔を思い浮かべる。

 確か、彼の名前は――。


「ビルケン、シュトック……じゃないですか?」

「ぴんぽーんっ。さすが旦那様! ねえ、敦行さん、数えてみてよ。ビ、ル、ケ、ン、シュ、ト、ッ、ク! 八文字よ、八文字! 素晴らしいことじゃない?」

「はあ……」


 なんだか急に飛んだ展開にうまくついていけず、僕はきらきらと目を輝かせる奥さんに、気の抜けた返事を返す。奥さんは天然だ。

 いつもその突飛な言葉にツッコミを入れてくれる娘は、今ここにはいない。


「あの、それがどうしましたか」

「どうしましたじゃないわよ、敦行さん。これで、鈴木家佐藤家の野望がついに結実するんだわ! 麦子・ビルケンシュトック……素敵!」

「ええっ」


 あまりのことに、思わず大きな声を出してしまう。

 いつの間にそんな展開になったのだろう。僕の可愛い娘と、その倍以上はありそうな立派な体躯のドイツ人。

 確かに、やたらとオリー君が娘のことをかまっているように感じたが、それは彼が意外と可愛らしいものが好きらしい、ということなのかと思っていたのに。

 なんだか、悲しい。


「あら、反対なの? 敦行さん」

「そうではないのですが……なにか、切ないものですね。ついこの間まで小さかった――いえ、今でも充分小さいんですけど。その娘が、もう恋をする歳になったのかなあ、と思うと。ねえ……」

「ちょっと遅いくらいじゃないかしら? あの子の年の頃は、もう私たち付き合っていたんだし。私ねえ、もうお義母さまに電話しちゃったわよ! ついに鈴木家から八文字の名字が産まれますって」

「それは、その……よかった、ですね」


 複雑に響いた僕の言葉には気がつかず、奥さんはにこにこと「お義母さま、とってもお喜びだったわよ」と教えてくれる。あの母は……諦めていなかったのか。

 はあ、と思わず出てしまったため息に何を感じたのか、奥さんは僕に身を寄せると、頭を優しく撫でてくれる。


「大丈夫。オリーちゃん、麦子とちょっと歳も体格も離れてるけど、とってもいい人よ? 麦子のこと一番に考えてくれて、愛してくれてるわ」

「そうですね……二人を見ていると、何だか僕たちを思い出します」

「私も! ねえ、きっと私たち、すぐにお祖母ちゃんとお祖父ちゃんになっちゃうかも」


 ちゅ、と額に軽く触れたその柔らかな感触に、僕はいつまでも慣れることなく胸をときめかせる。そして、その心のままに奥さんを強く抱き締めた。

 この人と出会ってそんなに時間が経ったのかと、僕はその切なくなるくらいの幸せを噛み締める。


「愛してます、玉菜さん」

「私もよ、敦行さん」


 額をくっつけて、思い出が刻まれてお互い少し増えたしわにキスを贈りあって。

 そうして僕たちは、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんになってしまう前に、まだやり残したことがあるとベットの中に沈んだのだった。



麦子の両親は熱々。

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