ゴールキーパーはテディベアの夢を見るか? 《オリーと麦子》
直接的な表現はありませんが、事後の雰囲気があります。
苦手な方はご注意下さい。
(コムギーっ! コムギコムギコムギーっ!)
真っ暗闇の中、私はなぜか巨大なテディベアに追いかけられていた。
真っ黒なビーズの瞳にふかふかの茶色い身体。丸く可愛らしい耳をぴこぴこと動かしながら、水兵さんスタイルのそのクマは嬉しそうに私の名を呼び走ってくる。しかも、顔に似合わず野太い声で。
当然、私は全力疾走で逃げまくる。じょ、冗談じゃない!
いくら相手が見るからに柔らかそうな、可愛らしいぬいぐるみであっても、自分の十倍もありそうなものがどすどすと走ってくれば、逃げる。
(コムギーっ、大好きですよ、コムギーっ)
(ぎゃああああ、来ないでええええっ)
くりんくりんの毛に包まれた丸い手がこちらに伸ばされ、抵抗虚しく私はその巨大テディベアに、呆気なく捕獲されてしまった。そのままぎゅうぎゅうと抱き締められる。
よっぽどいい素材なのか肌触りはよく、押しつけられる丸いお腹もちょうどよい弾力。これが普通サイズで家にいたなら、私も素直に愛でられただろう。
けれど。
(コムギ!)
体毛が鼻に入ってこそばゆいとか、もう、そういう問題じゃない。
息もつけぬほどの強い抱擁に、私は命の危険を感じ、必死に手足を動かしてそこから抜け出そうと試みる。が、そんな私を逃がすまいと、そのテディベアはさらに腕に力を込めてきた。
(Ich liebe Dich!!)
くくくくく、苦しいぃいいいいいいいっ!
このままでは死ぬ、と遠のく意識の中でそう思った瞬間、私はぱちりと夢から目を醒ました。
目の前には見慣れない部屋の壁。控えめな青色で塗られたそこに、うっすらとした光があたって、まるで海の中にいるような錯覚を覚える。
ここはどこだっけ、と思う前に、先ほどまで見ていたのが夢だとわかり、ほっと息を吐いた。……いや、つこうとして、ひどく胸が苦しいのに気がつく。
何かが私のお腹に巻き付いて、そこを締め上げている。く、苦しいっ。
あんな夢を見た原因はこれかと、とにかくそれを取り外そうとして……。
それは人間の腕。
光が当たって輝く薄い色の毛に包まれた、男の人の。
私の倍はありそうな、がっちりとした筋肉質の、腕。
オリーの。
そこまで確認すると、それに釣られるように甦ってきた昨夜の記憶に、私は声にならない悲鳴を上げてしまった。意味もなくじたばたと暴れてみる。
その動きに、腕の持ち主であるオリーが、私の背後でもそもそと動く気配がした。背中側があったかいと思ったら、彼は私を抱きかかえるようにして眠っているらしい。
大きな大きな体温に包まれた私は、まるでぬいぐるみにでもなったよう。
ぬくぬくで、少し気だるくて、胸を占める安心感に私はため息をつく。そして何だか薄れていく意識に、これが幸せってやつなのかなあ、と思い始め――再び覚醒。
いやいやいや、違う違う。これ、酸欠だから! 惑うことなく酸欠だから!
「オリーっ! ねえ、ちょっとオリー!」
べしべしと唯一自由になる手で、腹に回ったオリーの腕を叩く。
すると、背後の身体がまたかすかに動いて、冬眠明けのクマのような唸り声が聞こえた。耳元で低く掠れたその声に、自分の中のどこかが不快でない震えを覚える。
ち、違う! そんなうっとりしてる場合じゃない! 命危険!
「起きてってば、オリー! 苦しいんだってばあっ!」
遠慮容赦なく後ろに向かって入れた肘が少しは効いたのか、ようやく腹を締め上げていた腕がゆるまった。そこでようやく深呼吸。
真面目にちょっと花畑を見た。あ、危ない……。
いまだ抱きかかえられたまま、それでも少しは自由になった私は、改めて部屋の中を見渡した。
もうすでに日は高いところまで昇っているらしい。小さく灯ったベット脇のスタンドより、薄く引かれていたカーテンから入ってくる光のほうが、強く部屋の中を照らしていた。
目が覚めて初めに見た薄い青色の壁。落ち着いた緑色のカーテン。それがかけられた窓辺に置かれているのは、小さな観葉植物。空いた壁のスペースには、水色のユニフォームと赤いタオルマフラー。
ベットサイドのシンプルな棚の上に、電気スタンドと何個かの写真立て。その中で笑う小さな頃のオリーと、優しそうな男女の姿。これは、お母さんとお父さん?
そうしてなんとか顔をそらしてベットの上を見ると、そこにあったのは――。
「く、クマ?」
ちょこんと行儀よく並んだ六体のクマ。
それぞれに個性的な服と姿をして、黒い瞳がこちらをじっと見つめていた。
ある子はどっかで見たような水兵服に身を包み、ある子は首に大きな赤いリボン。毛並みも短いベージュから、くるくると癖のある焦げ茶色と、多種多様。
それにしても、なぜ、クマ!
む、とその疑問に眉を寄せた時、そこに柔らかなキスが降ってきた。
「モルゲン、コムギ……」
「うあおっ、おっ、おはよう、オリー!」
挨拶というには少々過剰なほどのキスに、私が動揺しながらなんとかそう返す。すると、少しだけ身を起こしてこちらを覗き込んでいた青色の瞳が、すっと優しげに細められた。
ひどく甘ったるいその顔に、知らず知らず頬が熱くなる。
確かにゴリラというか、ドイツ式なまはげというか、いかついんだけども。でも、基本的にオリーって整った顔をしてるんだよね。
左右対称で、鼻がすらりと高くて、金色の眉毛はちょっと薄く感じるけど、その下にある瞳は深い青色でとても綺麗。こんな近くで見て初めて、睫毛まで金色なんだってわかった。
つまり、こんな近距離で微笑まれると……照れる。
「コムギ、身体痛いですか? オリー、昨日頑張りましたよ」
「そういうこと言わないっ!」
満面の笑みで甘い空気をぶち壊したオリーの頬を、私は軽くつねってやる。すると、へらりとさらに相好を崩したオリーは、私のその手をそっと掴むと、そこにも軽く唇を当てた。
なっ、なんじゃこりゃああああ!
酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を開け閉めする私に、続いてちゅっとリップ音を立ててキスをすると、オリーはベットの上に起きあがった。
何も身につけていないその上半身に、羊子ちゃん並とはいかないまでも、筋肉大好きな私の目が釘付けになる。
厚みのある肩に、背中に、綺麗についた良質の筋肉。どこにも丸みのない身体は、すべて真っ直ぐな線で構成されている。女性の、曲線でできた身体とはどこもかしこも違う、安定感のある造り。
その腕に、胸に、身体全体に包み込まれると、もう怖いものなんてなんにもないって気持ちになる。何があっても、大丈夫。
じっと見つめる私の視線に気がついたオリーが、ちょっと照れたようにその頬を染めた。
「コムギ、オリーの身体、気に入りましたか?」
「だからっ、そういうこと言わないでってばっ」
直接的な表現の、その裏に込められた意味まで正確に理解してしまった私は、真っ赤になってオリーの腕をぺしりと叩いた。
嬉しそうに笑ってオリーは、ベットから立ち上がり、下に落ちていた衣服を手早く身につけていく。異性の生着替えなんて刺激が強すぎて、私は慌てて目を逸らした。み、見てないからねっ、あんなところやこんなところなんて、見てないからねっ! お尻にえくぼができてるなんて、思ってないからねっ!
ぶるぶると頭を振りながら私も毛布で身体を隠し、自分の服をかき集める。ちょっとしわになっちゃってるけど、まあ帰る家は隣だし、この際気にしないで身につける。
しかし、ものすごく気恥ずかしい。はたしてこれに慣れることができるんだろうか、私。
ん? 慣れるって慣れるって慣れるってなんだ!?
自分のその想像力に頭を抱えていると、突然ふわりと抱き上げられて、気がついた時にはオリーの腕の中にいた。
背後にそろそろ馴染みつつある、少し高めの体温。
するっと髪をかき上げられ、うなじに唇の感触。それが恥ずかしくなるくらいの音を立て、そこにひとつ、キスを落として離れた。
「コムギ、辛いですか?」
「だだだだ、大丈夫だってば! ええと、その、あの、いっぱい気を遣ってもらって、えっと」
いかん。口を開けば開くほど、どつぼにはまっていく。
こういう時なんて答えればいいのかなんて、そんなん道徳の教科書にも書いてなかったよ! 書いてあっても嫌だけど!
なんとか、なんとかそういう話題から離れなければ、ときょろきょろと視線を巡らせる私の目に飛び込んできたのは、さっき見ていた六体のクマだった。
「おっ、オリー! なんでこんなにクマがいるの!?」
「Nein! クマ違います。ヴィンセント、アンゲラ、ルートヴィヒ、ヨアヒム、ハイディ、ミヒャエルですよ!」
「わかんない、ドイツ人わかんない……」
どうやら一体一体に名前までつけているらしいオリーに、私はさっきとは別の意味で頭を抱えた。これがドイツ基準なの? いや、絶対違うだろうな……。
そんな私に構わずに、オリーが綺麗に並んでいるテディベアの中から、ひとつを取りあげて私に差し出す。
「オリー?」
「ヴィンセントです。オリーのムッタァとファータァ、オリーが短い頃くれました。オリーの一番のフロインドゥ。誰もいなくなっても、ヴィンセントがいてくれました」
「オリーのお父さんとお母さんがくれたの?」
「Ja」
そっと背後から私の膝に乗せられたそのクマは、小さな頃から一緒だという言葉通り、少しだけ毛羽だってしまっている。けれど、とっても大事にしてきたんだろう。ちっともくたびれた感じはしなかった。
私が優しく頭を撫でてやると、オリーはクマごと私をぎゅっと抱き締める。
「ムッタァとファータァ、ワーゲンにぶつかりました。だからオリーは、ひとりです」
肩口に埋められた唇からそんな言葉がぽつりとこぼれ落ち、私ははっとしてベットサイドに飾られた写真に目をやった。
優しそうに、楽しそうに、幸せそうに笑うオリーと両親の姿。それはまだ少年といってもいい姿をした彼までで、大人になってからのものはない。ワーゲン――車の事故で……?
「オリー……」
今、彼はどんな顔をしているのか、背後から抱き締められている私には見えない。
もしかしたら見せたくないのかもしれないけど。それでも、私は彼をぎゅっとしてあげたくなって、何とかもぞもぞと動いてみる。
すると、突然またふわりと身体が浮いて、今度はオリーと顔を合わせるような体勢に変わった。
驚いて腕の中のクマを抱き締める私に、オリーはにっこりと無邪気な笑みを浮かべてみせる。
「だから、コムギ。ふたりは、いっぱいいっぱい子供、作りますよ!」
なに、その、超展開!
ていうか、今の今まであった私の切ない気持ちを返して!
あまりのことに言葉を失った私に気がつかず、オリーは額に頬にとまたキスを降らせていく。ちょ、ちょ、ちょ!
「子供っ、子供って!」
「Ja! オリーはサッカーチーム作るですよ! いっぱいで賑やかは素敵で楽しい! コムギも一緒に頑張る!」
「ちょっ、ちょっと待って、頑張るって頑張るって、えええええ!」
素早い仕草で腕の中のクマを取り上げられたかと思ったら、なんでかそのまま再びベットへと寝っ転がされ、私は悲鳴を上げる。
じたばたと暴れる私をマウントポジションで見下ろし、オリーは「コムギ、落ち着いて」なんて声をかけてきた。
いやいや、どう考えてもそっちが落ち着いてよ!
するっと耳元から首筋に流れた、厚く固い感触の手のひらに、私の身体が知らずに揺れた。それを見て、オリーはますます嬉しそうに笑う。
ちちちちち、違うっ、これは違うのっ!
「コムギ、可愛い……」
近づいてきたその青い瞳が、もはや止められないほどの熱を孕んでいるのが見え、そして私の言葉も何もかもが唇の中へと吸い込まれてしまう。
上唇を軽く食まれ、背筋を走る甘い痺れに思わず開いたそこへと、オリーの熱が入り込んで追いかけられる。そんなことを繰り返しているうちに私の身体からはすっかり力が抜けて、それを感じたのだろうオリーはそっと身を離して微笑んだ。
「頑張りましょう、コムギ!」
息も絶え絶えでそれに反論もできない私は、オリーのそのあらゆる意味でやる気満々の顔をただただ睨み付けるだけだった。
そしてそれが、ますます彼の熱を煽るだけのことだったと知るのは、また別のお話。
とにかく今は、再びゆっくりと近づいてきたオリーの瞳にそっと目を閉じ、私はそれを受け止めることに集中した――。