玄関にゴリラ
ある日、家に帰るとゴリラがいた。
しかも、うちの玄関ポーチ。仕事柄目を使いすぎたのかな、と思って擦ってみても、そのゴリラは一向に消えない。消えないどころか、すごい存在感を発している。
目算で身長二メートル弱。清潔感のある白いシャツからちらりと見える腕には、むきむきの筋肉。
――ん? 白いシャツ?
どうしてゴリラがシャツなんか着ちゃってるんだろう、と近くに寄ってみる。すると、私のその気配に気がついたのか、それはくるりと振り返った。
「コンバンハ!」
しゃ、しゃべったあああ!
どこぞで目にしたCMかくや、というテンションで、私は口を開いたそれを見上げる。
ポーチに取り付けられた暖色の灯りの下、きらきらと光る金色の髪。私を見詰める瞳は綺麗な青色。
つまり、ゴリラはゴリラではなく、ただのでかい外人だったのだ。
「こ、こんばん、は?」
だがしかし、なぜこの巨大な外国人がうちの前に居座っているのか、という疑問はまだ解消されていない。
ものすごく威圧感のあるその顔を見上げながら、とりあえず私は当たり障りない挨拶を返す。そして、じりじりと警戒心を露わにしながら玄関へと歩み寄った。うお、近くで見るとさらに巨大!
「隣に、来ました。オミヤゲ?」
なんで最後に疑問型、と心の中で軽く突っ込みつつ、外人が差し出すそれに視線を落とすと。
なんということでしょう!
どこかの番組ナレーションのような感想が、頭の中を駆けめぐった。外人が手にしているのは、あきらかにワイン。しかも、白。そしてドイツ産。
一瞬にしてそれだけの情報を読みとった私は、自然とにやける顔を直しつつ、差し出されたそれをうやうやしい仕草で受け取る。
「わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
よそ行きの顔で笑ってみせると、なぜか外人はその白い頬をうっすらと染めた。顔とがたいに似合わず、照れ屋らしい。
にしても、でかい。近くで見れば見るほど、遠近感が狂う。
鍛え上げられた体躯はよけいなものの一切ついていない筋肉質。それはボディビルダーのような不自然なものではなく、どちらかといえば軍人さんのような、持久力ありますって感じの付き方。私の好みだ。
その上に乗っかっている顔も、いかにも外国人ですっていう彫りの深さ。整ってはいるのだけれど、いかつさが全面に出ているため、これ絶対子供泣くよねっていう仕上がり。もったいないなあ。
薄い金色の髪は短く整えられ、青い瞳が少し柔らかく私を見つめていた。
ん? そういえばなんで見つめ合ってるわけ?
「あのう、ええっと……」
「オリヴァーです。オリヴァー・ロルフ・ビルケンシュトックです。ドイツから来ました」
「オリヴァー、さん?」
「オリーのフロインドゥ、オリーと呼びます」
フロインドゥってなんだよ、ドイツ人。
よくわかんないけど、とりあえず笑っとけ、と再びよそ行き笑顔をむけると、ドイツ人も今度は満面の笑みで答える。ただし、顔は怖い。
それが、私――鈴木麦子と隣のドイツ人、オリヴァー・ロルフ・ビルケンシュトックとの初遭遇だった。
***
引っ越しの挨拶にいただいたワインは、さすがドイツ産。
甘くて、スパークリングで、めっちゃうまかった。あんまし誉められたことではないが、近くのスーパーで同じ銘柄の値段を見てみれば、そこそこいいお値段。ダンケ、ドイツ人!
両親はともにアルコールを摂取しない人たちなので、二本あったそれはすべて私の胃の中に消えた。
小さなコップ半分のビールでも酔っぱらう両親から、どうしてこんな酒豪が生まれたのかはわからないが、ただで飲む酒ほどうまいものはないね!
現金にも、そんなことでお隣さんを敬っていた私だったのだが。
「オカエリナサイ! 夕飯はおでんです」
なぜそのドイツ人がうちにいる!
会社から帰って玄関に入ったら、いきなり壁があった。というか、壁だと思ったら、件のドイツ人だった。
見慣れた玄関が、すんごく小さく見えるのは私の目の錯覚じゃないと思う。
品のいいグレイのシャツと黒いスラックスに身を包んだドイツ人は、私からの返答を待っているのか、にこにことしたまま動かない。いや狭い、狭いから。
「た、ただいま?」
「今日、ドイツのビーア持ってきましたよ。コムギ、ビア好きですよ」
好きですかって訊いてよ、そこは。まあ、間違ってはないけれどもさあ。ていうか、ドイツ産? ドイツ産のビールって言ったか、今!
いやいや待て待て、落ち着け私。その前に正すべきことがひとつあったぞ、ドイツ人。
「コムギってなに、コムギって。私は麦子!」
「ムギコはコムギ。ムッタァ、オリーにコムギいいよって」
確実に五十センチは上にある理性的なゴリラ顔を睨み付けると、ドイツ人はいたずらを怒られたような表情をして、たどたどしく弁解する。
えらい低音のいい声でんなしゃべり方されると、殴りたくなるくらいに可愛いじゃないか。
というのはおいといて。
「つまり、お母さんがオリーに『麦子のことはコムギって呼んでいいのよ~』なんて勝手なことをぬかしやがったと。そういうことでオーケー?」
「Ja!」
あの天然母がよけいなことを!
ただでさえ低身長に童顔のこの外見のせいで、不当な扱いを社会から受けているというのに。できれば、正しく「麦子さん」と呼んでいただきたい!
二十五歳の淑女らしく扱ってもらいたいんだよ、無理っぽいけどね、すでに。きょとんとしてこちらを見ているドイツ人に、私は大きくため息をつく。ここは気を取り直して!
「オリー、おでんは初めてなの?」
「初めてです。ムッタァ、オリーのうち来て、入れって言いました。オリーはとても嬉しゅうございます」
なぜ最後だけそうなる。
吹き出すのをこらえ、目をキラキラさせるドイツ人を従えてダイニングへと移動。 本国にいる時、知り合いの日本人と日本映画で言葉を学んだという彼は、時々面白い言葉遣いをする。あえて、訂正はしない。
部屋に入ると、母はテーブルにおでん鍋をセッティングしているところだった。冬はこれこれ、これだよねえ。
あ、そういえば重要なことをさっき聞いた気がする。
「ドイツビールあるって?」
「あら、おかえりなさーい。オリーちゃん、誘っちゃったあ」
「ああ、うん。今さら言われなくてもすごい存在感あるしね」
私と母のやり取りをにこにこしながら見ているドイツ人は、やっぱりいかつい。
これで「悪い子いねがあ!」って来たら、なまはげに勝てる。ぶっちぎりで。
「コムギ、ビーアはここです。オリーのダチ、送ってくれたよー」
「おっ、オリー、すっかり『ダチ』をマスターしたね」
「した!」
誉めて伸ばす。うん、成功成功。
初めて会った時にドイツ人が言っていた『フロインドゥ』ってのがわからず、辞書を引いた私。それが日本語で言うところの『友達』だとわかって、斜め上に教えました。いいんだ、『ダチ』って格好いいし。
まるで忠実な大型犬種のように、できたできたと喜ぶドイツ人の腹を、よしよしと撫でてやる。できれば頭を撫でてやりたいところだけれど、悲しいことに私の手が届くのは腹あたりまでだった。屈、辱!
それをくすぐったそうに受けていたドイツ人。何を思ったのかそのでっかく厚い手で、お返しとばかりに私の頭を撫で回してきた。ちょ、やめ、首が首ががくがくするから!
「あらあ、仲良し! 素敵ねえ」
「お母さんっ、止めてっ! 止めてよ、私死ぬから! 頸椎やられて死んでしまうから!」
「コムギ、バカかわいいですねえ」
「いやそれ嬉しくないから。全然嬉しくないかんねっ!?」
なんとかその手の下から抜け出した私は、とにかくまずは着替えてくる、と慌てて自分の部屋へと一時避難したのだった。