婚約破棄された幸運貸しの令嬢ですが、祝福の花嫁が盗んだ幸運を返していただきます
結婚式当日の朝、ヴァルシュタイン公国王都の大聖堂に、私は契約庁の監査役として花嫁控室に通されていた。
鏡の前では侯爵令嬢エレオノール・ヴェルヌが白いヴェールを肩にかけている。三人の侍女が裾を整え、真珠の位置を正していた。扉の外には、同行してきた同じく契約庁のローレンツ卿が待っている。
私、ルディア・ルシュフォードは王太子ヴェルナルド殿下に婚約破棄されたあと、ヴァルシュタイン公国の契約庁で幸運貸しとして働いている。人が約束や支度の端に少しずつ積んだ幸運を黒革の手帳で読み取り、必要な相手に貸す。それが私の仕事だ。
その黒革の手帳が、私の腕の中でかすかに熱を帯びた。
鏡を見ると、エレオノール嬢が肩にかけている白絹のヴェールが光った。よく見ると光っているのはその端に刺された真珠で、そのひと粒ずつが淡く光っていた。私は控室の隅で手帳を開く。
祝福の花嫁エレオノール・ヴェルヌ。
婚礼吉兆。
貸与先、ヴェルヌ侯爵家および婚礼予定先エルゼン公爵家。
その下に、薄い文字がにじんだ。
マルガリータ・ベルニア。
元婚約者、セドリック・ロアン。
婚約破棄時流出。嫁入り支度、一年分。
婚礼衣装、招待客名簿、支度金の帳簿。
ほかにも名はあった。ニーナ・カレン、ミレーユ・サンドラ、リゼッタ・ヴァン。けれど婚礼ヴェールの契約が邪魔をして、まだ最後まで読ませてもらえない。
返却条件、なし。
私は手帳を閉じた。それでも、伏せられた名前の気配は消えなかった。
「どうかなさいましたか? ルディア様」
鏡越しに、花嫁のエレオノール嬢と目が合った。
真珠色のドレスに、肩まで落ちる白いヴェール。彼女が笑うと、部屋にいる侍女たちが一斉に息を止める。針を落としても聞こえそうな静けさだった。
「いいえ。ずいぶん見事なヴェールだと思いまして」
「でしょう。代々の花嫁たちの祝福を集めたものですの」
エレオノール嬢は、鏡の中の自分に向かい、うっとりと微笑んだ。
「わたくしが嫁ぐと決まってから、エルゼン公爵家では大きな商談がまとまり、病で伏せっていた先代が持ち直し、長引いていた権利関係の裁判も良いほうへ傾きました。皆さま、わたくしを祝福の花嫁と呼んでくださるんですのよ」
「それはまた、ずいぶん便利な祝福ですね」
「幸運貸しの令嬢にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ」
その声に、少しだけ棘があった。
ヴェルヌ家では、代々の花嫁が嫁ぎ先に祝福をもたらすと語られてきた。そして今回、ヴェルヌ家の長女エレオノールを花嫁として迎える予定のエルゼン公爵家では、彼女との婚約が決まった直後から吉兆が相次いだ。その評判が彼女の値を吊り上げているのだ。
「ヴェルヌ家の婚礼祝福術は、ずいぶん古いものなのですね」
エレオノール嬢の指が、真珠の髪飾りに触れた。
「ええ。昔から、ヴェルヌ家の花嫁は嫁ぎ先を栄えさせると言われてきましたの。けれど、それはただの言い伝え、根拠のない噂だと思われていました。ですがわたくしの婚約が決まってから、エルゼン公爵家では目に見えて吉兆が続きました。だから皆さま、ようやく信じるようになったのです」
「本日の婚礼は、その力を誇示するためでもあるのですか?」
「そんな大袈裟なものではありませんよ。教会の鐘の下で、ヴェルヌ家の祝福を知らしめる。それだけのことです」
幸運は願っただけでは増えない。結婚式でいえば、式の前夜に衣装のほつれを直す、招待客の席順を二度確かめる、相手の家の者が困らないよう薬湯の好みまで覚えておく。そうした支度や気遣いは、すぐに他者から褒められるとは限らない。けれど、誰かの助けになった分だけ、その行いは小さな幸運としてその人のもとに積もっていく。幸運貸しはその人が積んだ幸運を、本人が認めた相手や場所にだけ貸し出す。雨を半日遅らせる。馬車の車輪を持たせる。病人が夜を越す後押しをする。借りた幸運は、契約に書いた期限と条件で、必ず元の持ち主へ返す。
ヴェルヌ家にも婚礼の幸運を集める術そのものはあるのだろう。それが正しい契約なら問題はない。花嫁本人が積んだ幸運を、嫁ぎ先のために使う。親族が同意して式の日だけ貸す。それなら手帳にも、貸与元、貸与先、返却条件が並ぶはずだ。
だが、エレオノールのヴェールに反応して黒革の手帳に浮かんだ記録は違った。貸与元の名はかすれ、返却日の欄は黒く潰れていた。誰の幸運を借りたのか、いつ返すのかをあえて伏せた契約だ。黒革の手帳は、そういう不正な貸与だけを黒い文字で浮かべる。
婚約が壊れたからといって、それまでの準備までなかったことにはならない。縫い上げた衣装、返されない支度金、何度も書き直した招待客の名簿。そこに積もった幸運は、本来なら、準備をした本人のもとへ返るはずだった。
けれどヴェルヌ家は、それを「使われなかった祝福」としてヴェールへ集めていた。持ち主に返さず、別の花嫁の吉兆として使うために。
だから私には、エレオノールが纏うヴェールは美しい布というより、未返却の契約を何枚も重ねた忌むべきものに見えた。
「本日は監査役として参りました」
「存じておりますわ。けれど、婚礼の日にそんな怖いお顔はおやめになって。幸運が逃げてしまいますわ」
エレオノール嬢はそう言った後、侍女へ目配せした。
「ねえ、マルガリータ。その裾、まだ歪んでいるわ」
部屋の隅でひとりの令嬢が針を止めた。地味な灰色のドレスを着ていた。貴族の令嬢にしては質素だが、姿勢が美しい。細い指先には、小さな針傷がいくつもあった。
「申し訳ございません」
「あなた、昔は自分の婚礼衣装を縫うのだと張り切っていたでしょう? 人のドレスでも練習になるんだから、感謝なさいな」
侍女のひとりが口を開きかけ、すぐに唇を結んだ。別の侍女は針箱へ目を落とす。ここでマルガリータをかばえば、次に嫌味を向けられるのは自分だと知っているのだろう。
マルガリータと呼ばれた令嬢は、ただ頭を下げた。抱えていた黒革の手帳が、じわりと熱を持った。
「ヴェールの縫い目を少し見てもよろしいですか?」
「ルディア様が? 何のために?」
「幸運の記録は、刺繍や印章に残りやすいので」
「まあ、面白いことをおっしゃるのね。よろしいわ。ただ、式が始まるまでに戻してくださいませ」
侍女がエレオノール嬢の肩からヴェールを外し、私へ差し出した。私はそれを両手で受け取る。白くて軽くて、柔らかかった。だが、手の中でずしりと沈むような重さがあった。
借り受けたヴェールを腕にかけ花嫁の控室を出ると、廊下でローレンツ卿が待っていた。
「顔色がよくないですね」
「手帳に、あのヴェールへ貸し出された知らない名前が出ました」
「何人分ですか?」
「少なくとも二十人は。しかも、返却条件は全てなしです」
「司祭はもう読み上げましたか?」
「まだです。司祭が祝福を読み上げる前なら、ヴェールへの貸与を取り消せます」
「読み上げたあとだったら?」
「司祭が祝福を読み上げた瞬間、ヴェールの幸運は『この婚礼でエルゼン公爵家が受け取るもの』として記録されます。そうなると、ヴェールの糸をほどくだけでは戻せません。式そのものを止めて、両家が何を受け取ろうとしていたのか、一つずつ調べることになります」
ローレンツ卿の眉が動いた。
「婚礼契約書は先ほど私が確認しました。表向きは整っています。持参金、婚礼後の保護、祝福で得た利益をどちらの家のものにするか。どれも、書類としては通る形です」
「でも、持ち主の名と返す日が書かれていない」
「そこです。式が終われば、その幸運はエルゼン公爵家が受け取った吉兆として婚礼簿に残ります。あとから調べても、誰から借りたものか追えなくなる」
「では、式が始まる前に止めるしかありませんね」
「ええ。あなたがヴェールの記録を読む間、私が司祭に祝福の読み上げを止めさせます。扉の警備と契約庁の書記官も呼びます」
そう言われ、胸の奥が少しだけ落ち着いた。気持ちが落ち着くと、急に視界が明瞭になる。廊下の窓から教会の中庭が見えた。白い花が敷き詰められ、招待客が笑っている。
結婚式は私にとって少し苦手な場になっていた。純白の布も祝福の鐘もかつては自分の未来に置かれていたものなのだが、その未来は舞踏会の夜に床へ落ちた真珠と共に、どこか彼方へと転がってしまった。
「ルディア嬢」
「大丈夫です」
ローレンツ卿に名を呼ばれ、食い気味に返す。
「まだ何も言っていません」
「言われそうだったので」
ローレンツ卿は笑わず、少しだけ目を細めた。
「では、先に言っておきます。式を止めたあとヴェルヌ家の者があなたを足止めしても、契約庁の馬車で外へ出します。門の警備にも私から話を通しておきますので」
「また出世に響きますか?」
ふと心配になり尋ねる。
「今回は、縁談に響きます」
「縁談?」
「実は、ヴェルヌ侯爵家から私にも何度か縁談の話が来ていまして」
「エレオノール嬢ですか?」
「その妹君ですね」
胸の奥が妙に跳ねた。縁談、と聞いただけなのに。それ以上、私は聞けなかった。ローレンツ卿もすぐには続けなかった。
ローレンツ卿は、言いにくそうに視線を外した。完璧な人に見えて、こういうところで少し不器用になる。
「まあ今回の件を収めれば、ヴェルヌ侯爵家は面目を潰されたと思うでしょうね」
「よろしいのですか?」
「よろしくはありませんよ。ただ」
ローレンツ卿は私の手元にあるヴェールを見つめながら言った。「黙って見ているほうがもっと、よろしくない」
私は手帳を抱え直した。
「では、まず仕立て部屋へ行きます」
教会の裏手にある仕立て部屋は、控室よりずっと暗かった。窓は細く、白い布と糸巻きが棚に積まれている。私は借り受けたヴェールを作業台に置いた。マルガリータ・ベルニアはそこで、ひとり針を片づけていた。
「マルガリータ様」
呼びかけると、彼女は驚いて立ち上がった。
「様はおやめください。私はもう、子爵令嬢と呼ばれる立場ではありませんので」
「婚約破棄されたからですか?」
少し踏み込みすぎたか。だが、彼女の表情は変わらない。針山から一本だけ曲がった針を抜いた。
「ご存じなのですね」
「手帳に記録が出ました。あなたが一年かけて、婚礼衣装や名簿や帳簿を整えて積んだ幸運を、あなたの同意もないまま、エレオノール嬢のヴェールへ貸したことにされています」
「幸運?」
マルガリータは私の黒革の手帳を見つめた後、困ったように笑った。
「そんなもの、私にはありませんよ。婚約者には捨てられましたし、支度金も戻りませんでした。父の商会も大型の契約を失って、私はいま、こうやって親戚の屋敷で針仕事をしています」
「その婚約破棄は、いつですか?」
「半年前です。そのあと、ヴェルヌ家の使いの方が来ました。使わなくなった品々を引き取る、と」
手帳が熱を帯びた。私はページを開く。
マルガリータ・ベルニア。
一年間、嫁入り支度を管理。婚礼衣装の縫い直し。
招待客名簿の整理。支度金の帳簿管理。
衣装代の過払いを返却。婚約先の老婦人へ薬湯を届ける。
貸与先、エレオノール・ヴェルヌの婚礼ヴェール。
この幸運で得をする者、マティアス・エルゼンおよびエルゼン公爵家。
返却条件、なし。
記録は細かい。彼女の行いは、誰かが称えるような派手さはなかった。だが、ひとつひとつが丁寧だった。約束を守り、支度を整え、相手の家を立てるために積まれた小さな幸運だ。
手帳には婚約破棄の日付でこう出ていた。
貸与先、エレオノール・ヴェルヌの婚礼ヴェール。
マルガリータ本人が同意した形跡はない。持ち主の名と返す日は、黒く潰れて読めない。
「手帳には、あなたの支度が残っています」
「支度?」
「婚礼衣装、招待客の名簿、支度金の帳簿。あなたが一年かけて整えたものです」
「でも、それはもう、私には関係のないものでは……」
「いいえ。誰かが勝手に持っていっていいものではありません」
マルガリータは黙った。泣くのにも疲れたような顔だった。
「その支度に残った幸運を、勝手に使った人がいます。エレオノール嬢のヴェールにつけ替えてあります」
彼女の指が止まった。
「それは、私の元に、戻せるのですか?」
「戻します。ただ、あなたの縁談を元に戻すことはできません」
「そんなもの、戻したくありませんよ」
思ったより早い返事だった。
「セドリック様は、私との婚礼を面倒だと言いました。もっと持参金の多い家へ乗り換えたのです。今さら戻ってこられても困ります」
「ヴェルヌ家は、あなたの支度品をどう扱いましたか?」
「純白の布も招待客の控えも、捨てるくらいなら預かると言われました。私は、燃やされるよりはましだと思って……」
私はすぐに言葉を返せなかった。彼女が悪いわけではない。
「話していただき、ありがとうございます」
「いいえ。こちらも少し、楽になりました」
ローレンツ卿が作業台の上に置かれた純白の婚礼ヴェールを見た。
「その縫い目は、あなたが?」
「一部だけですが。エレオノール様が、婚約破棄された女の手で縫い合わせれば、悪い運も従うだろうと」
言い終える前に、マルガリータは唇を噛んだ。悔しさの滲んだ表情だった。
私はヴェールの裏を見た。表からは見えない場所に、淡い金の糸が走っている。その糸だけ、妙に冷たい。指先が触れると、手帳の返却条件の欄に黒い点が滲んだ。
「祝福の刺繍ではありませんね」
「では、何ですか?」
「この糸は、持ち主の名を隠すためのものです。手帳には、担保糸と出ています。誰の幸運か、いつ返すのか。その二つが黒く潰されています」
冷たい糸に触れるたび、手帳の持ち主欄と返却日の欄に黒い点が増える。誰のものか読ませないための印だ。
不幸が幸運に変わるわけではない。ヴェルヌ家がしているのは、もっと残酷なことだ。マルガリータが婚約を破棄されたあとも、一年間準備したものは残っていたはずだ。支度金、花嫁衣装。招待客の名簿。ヴェルヌ家はそれを「使われなかった祝福」と呼び、本人の同意なしにヴェールに移している。
マルガリータは、ゆっくりと椅子に座った。
「私だけでは、ありませんよね?」
「はい」
嘘はつけなかった。
外で花嫁行列の準備を告げる鐘が鳴った。私はヴェールを畳み直し、控室の侍女へ返した。エレオノール嬢は鏡の前で待っていて、戻されたヴェールを当然のように肩へかけた。
式場の中庭には白い花びらが用意されていた。エレオノール嬢が通る道に、笑顔の子どもたちがそれを撒く。晴天だった。香油の匂いが鼻腔をくすぐる。楽師たちの弦が耳に心地よかった。
花嫁が現れると、招待客からため息が漏れた。
エレオノール嬢は笑っていた。ヴェールは肩から長く流れ、光を受けて薄く輝く。婚約者のマティアス・エルゼン公爵令息は、その隣で誇らしげに胸を張っていた。自分が祝福を得た男だと、周囲の人々に主張するように。
「花を」
係の合図で、子どもたちが白い花びらを撒いた。
不思議なことが起きた。
花びらは、エレオノール嬢の足元だけ避けて落ちた。風は吹いていない。白い花は彼女の前で左右に割れ、石畳へ散っていく。まるで油が水を弾くように、花が花嫁から遠ざかる。招待客がざわめいた。
エレオノール嬢の笑みがほんの少し硬くなる。
「花がよくないわね」
小さな声だったが、近くの子どもの耳には入ったのだろう。花籠を持っていた少年が青ざめ、段差につまずいてしまった。
「危ないっ」
マルガリータが駆け出した。彼女はドレスの裾を踏みそうになりながらも、倒れそうになった少年の肩を支えた。花籠が傾き、花びらが彼女の髪にぶち撒けられる。
黒革の手帳が私の胸元で温かくなった。
マルガリータ・ベルニア。
転倒防止。婚礼行列における小児保護。
手帳にその一行が増えた。
エレオノール嬢は子どもを抱えたマルガリータ見て目を細めた。
「目立つのがお好きなのね」
「申し訳ございません」
「本当に運の悪い方ね。触れた子どもまで転ばせるところでしたわ」
少年が何かを言いかけたが、マルガリータが首を振って止めた。慣れているのだ。自分が飲み込むことで場を納めるやり方に。
私は手帳を閉じた。もう十分だった。
祭壇の前で司祭が祝福の書を開いた。大広間は白と金で飾られ、天井から吊るされた白布が静かに揺れている。ヴェルヌ侯爵家とエルゼン公爵家、そしてその近親貴族。皆がこの婚礼で祝福を得る、そんな顔をしていた。
「祝福の花嫁エレオノール・ヴェルヌと、エルゼン公爵家のマティアスに、天の幸いが……」
司祭が読み上げようとした瞬間、私は前へ出た。
「その祝福を読み上げないでください」
ざわめきが走った。エレオノール嬢がゆっくりとこちらを振り返った。
「ルディア様。婚礼の最中ですわ」
「存じております」
「でしたら、お席へお戻りになって」
「そうはいきません」
私の隣にローレンツ卿が立った。彼は懐から契約庁の銀印を取り出した。
「ヴァルシュタイン公国契約庁の監査役として申し上げます。この婚礼契約には、他人の幸運を本人に黙って使った疑いがあります」
マティアス卿が顔色を変えた。
「本人に黙って使っただと? そんな馬鹿な。エレオノールの祝福は、ヴェルヌ家に伝わる正式なものだ」
「正式な契約書はありますか?」
「家伝の祝福に、契約書などあろうものか!」
「他人の幸運を使うなら、いかに祝福といえども貸与契約になります」
「契約書がないのなら、私の方で確認します」
私は黒革の手帳を開いた。
「そのヴェールに縫い込まれた幸運は、あなたのものではありません。本来の持ち主へ返していただきます」
エレオノール嬢の笑みが消えた。
「何を根拠にそんなことを」
「記録です」
手帳の紙面に、細い黒字が一行ずつ浮かんだ。私はその記録を読み上げ、ヴェールの刺繍を指す。名前を呼ぶたび、白い布の裏で金糸が小さく震えた。
マルガリータ・ベルニア。
婚約破棄時流出。嫁入り支度、一年分。
婚礼衣装、招待客名簿、支度金の帳簿。
ニーナ・カレン。
支度金未返還。
奉公先での夜間看病、四十二回。
ミレーユ・サンドラ。
縁談破棄。婚礼衣装縫製、無償補修。
リゼッタ・ヴァン。
婚約先都合による延期。
招待客調整、二十七件。
四人分の記録の末尾には、同じ行が並んでいた。
貸与先、エレオノール・ヴェルヌの婚礼ヴェール。
譲渡先、エルゼン公爵家の婚礼吉兆。
ひとり、またひとりと読み上げるたび、会場の空気が重くなった。客席の奥で、名前を呼ばれた家の者たちが顔を上げる。
「やめなさい」
エレオノール嬢が低く言った。
「まだあります」
「やめなさいと言っているのです。下々の娘たちの針仕事や支度など、ここで読み上げて何になるの?」
会場が静まり返った。扇で口元を隠していた令嬢たちが、ひとり、またひとりと手を下ろす。エルゼン公爵家の親族席でも、誰かが椅子を引く音がした。
彼女たちは気づいていなかったのかもしれない。貴族の娘も、侍女も、仕立屋の娘も、エレオノールの中ではまとめて「下々」だったのだ。
「針仕事や支度」
私はその言葉を繰り返した。
「はい。その一つずつは小さなことです。夜更けに解いた縫い目を、朝までに直すこと。婚約先の老婦人に合う薬湯を探すこと。招待客の名前を間違えないよう、二度確認すること」
マルガリータがうつむいた。けれど今度は、自身を恥じている顔ではなかった。
「そのひとつひとつで幸運を積んだのは、あなたではありません」
「わたくしは祝福の花嫁です」
「祝福とは、奪ったものを白い布で隠すことではありません」
エレオノール嬢はマティアス卿を振り返った。
「マティアス様、こんな侮辱を許すのですか? わたくしを得れば、エルゼン公爵家はさらに栄えますのよ」
マティアス卿は一歩、前へ出かけた。だが、手帳に何度も浮かぶ自分の家名を見て止まった。どの記録も最後は、エルゼン公爵家の婚礼吉兆へ幸運が流れていた。
「全員、私の婚礼のために?」
マティアス卿はかすれた声で言った。
「エルゼン公爵家は、この祝福を受け取る契約書に署名しています」
マティアス卿は唖然として口を開けたままだった。ローレンツ卿が淡々と書類を開く。
「確認しなかった、という記録ならあります。持ち主の名と返す日がない祝福契約に、エルゼン公爵家の印が押されている。誰の幸運か知らないまま、利益だけ受け取るつもりだった」
「違う」
マティアス卿は首を振った。「私は、家を栄えさせるために」
「そのために、誰かの幸運を使ったのです」
ローレンツ卿の言葉は丁寧で落ち着いたものだったが、会場中の人々に届いた。エレオノール嬢がヴェールを握りしめる。
「返しませんよ」
その一言で、会場の何人かが息を呑んだ。
「これはわたくしのものです。わたくしの婚礼のために集められた祝福です。使われずに腐る幸運を、わたくしが価値ある形にしてあげているのです。感謝されても、責められることではありません」
マルガリータの拳がぎゅっと握られた。針傷の残る指が見えた。
「腐ってなど、いません」
彼女が言った。小さな声だったが、祭壇まで届いた。
「私の幸運は私のものでした。たとえ婚約が破棄されても、その準備に費やした一年を、あなたの飾りにされたくありません」
エレオノール嬢の顔が歪んだ。
「お前ごときが……」
「その言葉を待っていました」
私は銀の鍵を外した。鍵を手帳に触れさせると、紙面に並んでいた文字が一つずつ薄れていく。
「このヴェールへ貸したことにされた幸運を取り消します。奪った幸運は、持ち主の元へ。すでに使った分は、ヴェルヌ家とエルゼン家の財産で返していただきます」
私はほどけかけたヴェール越しにエレオノール嬢を見た。
「認めません」
「あなたの同意は必要ありません。幸運の持ち主の同意すらなかったのですから」
かちり、と銀の鍵が鳴った。
身体中の力が抜け、指先の感覚が一瞬だけ薄れた。私は鍵を落とさないよう、手帳の角を握り直した。
エレオノール嬢の白いヴェールの刺繍が、一筋ほどけた。
最初は誰も動けなかった。真珠が一つ、二つと床に落ちる。金糸が音もなく抜け、白い布から光が消えた。みるみるうちに、豪奢だったヴェールはただの薄い布になっていった。
隣でローレンツ卿が小さく息を吐いた。怖がっているのか、見惚れているのか、私には判断がつかない。こちらを見ないでいてくれたのが、少しだけありがたかった。
エレオノール嬢は、ほどけていく布を両手で押さえた。
「いやっ! やめて、わたくしの祝福が……」
祭壇横の窓が自然と開いた。風が吹き、ヴェールの端がふわりと浮いてほどけた糸が光を受けて舞った。
同時に、扉際の家令たちがざわついた。式の最中だというのに、伝令が何人も駆け込んでくる。
「ベルニア商会から使者が。止まっていた取引が戻るそうです」
「返されずに止まっていた支度金を返却したいと申し出がありました」
「リゼッタ様の家から、契約の再協議を求める書状が届きました」
「ミレーユ様の工房へ、未払いだった補修代を支払うと連絡が入りました」
駆け込んできた伝令たちの声で、奪われていたものが戻り始めたと分かった。止められていた取引が動き、戻らないはずの支度金が返され、諦めるしかなかった話し合いがもう一度開かれる。
マルガリータの手帳記録にも、銀の印が灯った。返却済み、という印だ。
マティアス卿は、祭壇の前で立ち尽くしていた。エレオノール嬢へ手を伸ばすことも、私へ怒鳴ることもない。祝福の花嫁を得れば家が栄えると信じた男は、その祝福が誰かの幸運で作られていたのか目の当たりにしたからだ。
「この婚礼契約は、この場では認められません」
ローレンツ卿が告げた。「本人に黙って他人の幸運を使った契約は無効です。返されていない支度金、未払いの補修代、この祝福でまとまった商談や戻った金は契約庁立ち会いのもと、一つずつ確認します」
契約庁の書記官たちが、その場で命令書を書き始めた。ヴェルヌ侯爵家には、婚礼祝福術の使用停止と帳簿提出命令、まだ未返却の支度金や補修代も、ここから一つずつ洗い直される。エルゼン公爵家には、この祝福で得た商談利益の保全命令が出た。調査が終わるまで、契約庁はエルゼン家の新しい縁談契約を受け付けない。
司祭は開いていた婚礼簿を閉じた。
「本日の婚礼儀式は、取りやめます」
大広間の奥で誰かが息を呑んだ。エルゼン公爵家の席から、年配の婦人が立ち上がりかけて、また腰を落とす。祝いの花を持っていた少女は、花束をどこへ置けばいいのかわからず、胸に抱えたまま固まっていた。
「教会記録から『祝福の花嫁』の称号を消します」
「はぁぁぁあ?」
エレオノール嬢の声が裏返った。
「お待ちなさい。わたくしは」
「誰が積んだ幸運か確認できない祝福を、教会は花嫁の祝福とは認めません」
司祭は目を伏せなかった。さっきまで一番柔らかい声で祈りを読もうとしていた人が、今は一番静かに彼女を見ていた。
教会に「祝福の花嫁ではない」と記録された娘を、迎える家などあるだろうか。
エレオノール嬢は床に落ちた真珠を拾おうと膝をついた。白い手袋の指先が、石床を何度もなぞる。けれど真珠は、触れるたびに弾かれ、転がっていく。マティアス卿がその一粒を難なく拾い上げ、指先で転がしたあと、何も言わずに床へ戻した。
「ローレンツ卿」
ヴェルヌ侯爵が、真っ赤な顔をして低く唸った。「我が家との縁を切るおつもりか」
「切ったのは、そちらです」
ローレンツ卿は、少しも笑わなかった。「他人の破談を飾りにした縁談を、私は欲しいと思いません」
会場の鐘が鳴った。高く澄んだ祝福の音ではなく、式の中止を告げる短い鐘だった。
エレオノール嬢は祭壇の上に座り込んでいた。ほどけたヴェールを抱え、何度も「私の祝福」と繰り返していた。
ヴェールだった白い布は、彼女の膝の上でただの皺の塊になっていた。
式場の庭へ出ると、空は曇り始めていた。だが不思議とさきほどまでの晴天より、ずっと呼吸がしやすかった。
マルガリータは教会の門のそばで立ち止まった。
「ルディア様」
「はい」
「私、針仕事は嫌いではありません。けれど、しばらく人の婚礼衣装は縫いたくありません」
「それでいいと思います」
「父の商会を手伝います」
「はい」
「それから、いつか」
彼女は少し迷い、それから小さく笑った。
「自分の花嫁衣装を、自分のために縫います」
黒革の手帳がかすかに温かくなった。けれど、その一言は幸運の貸し借りではない。記録にはならない。ならなくてよかった。
マルガリータが去ったあと、庭には私とローレンツ卿だけが残った。ほどけた白い糸が一本、植え込みに引っかかって揺れている。
「ルディア嬢」
「はい」
「今日の件で、私はヴェルヌ侯爵家との縁談を一つ、完全に失いました」
「後悔していますか?」
「いえ。あの縁談は、ずっと断ってきましたし」
「聞いていませんけど」
「言いましたよ、今」
「では、何を完全に失ったのですか?」
「角を立てずに断るための理由です。もう、ヴェルヌ侯爵家に遠慮する必要はなくなりました」
「では、これからは?」
ローレンツ卿は咳払いを一つしたあと、私を見た。
「私自身が望む縁談の話をしてもよろしいですか?」
聞き返す前に、鐘がまた鳴った。短く、低い音だ。誰かを祝福する音ではなく、片づけを始めるための合図だった。その音はローレンツ卿の言葉を遮るかのように、しばらくの間鳴り響いた。
「助かりました。今のまま話していたら、かなり不格好な告白になるところでした」
ローレンツ卿は少し困ったように笑った。
「では、鐘に感謝しないといけませんね」
「感謝はできませんね。それどころか、若干の恨みすらある」
そう言われて、私は返事に困った。
だが、困ったのに、少し嬉しかった。
私も、少し笑った。
以前なら結婚式の庭に立つだけで胸がすくんだ。白い花も、祝福の鐘も、自分にはもう関係のないものに見えた。けれど今、ローレンツ卿が私の歩幅に合わせて歩いている。
「ルディア嬢」
「はい」
「いつか、鐘に邪魔されない場所で、改めてお伝えさせていただいてもよろしいですか?」
「契約書は必要ですか?」
「できれば書面よりも先に、あなたの言葉でいただきたい」
ずるい言い方だと思った。それはもう、れっきとした告白じゃないですか。
私は黒革の手帳を閉じた。
深呼吸しても、胸のざわめきは落ち着きそうにない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
お時間あれば、他の幸運貸しの令嬢シリーズ(https://ncode.syosetu.com/s5404k/)もぜひ。
ローレンツ卿視点も追加しました。




