第一話 Quantum Nox 〜世界線を揺らす歌声〜
第一話 Quantum Nox
〜世界線を揺らす歌声〜
真っ暗な空間。
数百人の人間が放つ熱気が、息苦しいほどの湿度を伴ってフロアに満ちている。
今にも何かが爆発しそうな、ピリついた沈黙。
その静寂を切り裂くように、
カッ、カッ、カッ。
乾いたカウントが響き、直後、轟音が世界を塗りつぶした。
地の底から頭の芯まで突き抜けるようなタイトなドラムに、
空間を切り裂く硬質な鋭いギターリフ。
容赦なく切り裂かれた空間を、重厚なベースがグルーブへと縫い合わせていくと、
音が…
巨大なうねりを形成していく、
臨海を超え、空間が波打つ瞬間…ッ
「ナナァァァ〜!!」
鼓膜を破壊するほどの歓声が爆発した。
熱狂の中心、ステージの真ん中に、一人の少女が立っている。
暴力的な音の渦中にいるはずなのに、なぜか彼女の周囲だけ、凪いだ海のような静寂が漂っていた。
彼女がゆっくりと目を開く。
その瞳が観衆を射抜いた瞬間、フロアのボルテージがもう一段跳ね上がった。
彼女は歌う。
少しハスキーで、けれど耳に絡みつくような艶のある声。
言葉では説明できない唯一無二の"味"が、真っ直ぐに心へ突き刺さる。
そう、彼女の歌は、狂おしい程に私の心を掻きむしる。
バンド名は『Quantum Nox』。
ボーカルのナナは、文字通りステージを支配していた。
「まるでアニメのNANAがそこにいるみたいだ」
なんて言えば、彼女は「私はオリジナルだ」と本気で怒るだろう。
けれど、そんなプライドも含めて、私は彼女のファン第1号をやめられない。
普段の彼女が見せる顔とは違う、この異質な空気に、私は今日も飲み込まれていく。
ライブの終盤、ようやく彼女が口を開いた。
「どうも。『Quax』です」
短い挨拶。飾らない言葉。
「今日は来てくれてありがとう。来週もまたここでやるから、来てくれたら嬉しい」
歌っている時の神々しさとは違う、等身大の彼女。けれどその瞳には、まだ消えない熱が宿っている。
「それじゃあ、最後の曲。『Quantum Sway』」
始まったのは、打ち込みと見紛うほどに緻密でタイトなリズム。
静謐なギターのアルペジオが重なり、ベースは一音一音、世界の輪郭をなぞるように低く響く。
そこに、囁くようなNANAの声が乗った。
優しく、少し無機質に歌うその声に、心が激しく揺さぶられる。
未来は、まだ確定していない。
だから、諦めるな。
足掻け。
世界線を変える方法は、きっとある。
彼女が放つメッセージが、私の心を狂おしいほどに締め上げる。
曲が転調し、リズムが躍動を始めた。
溜め込んでいた感情が爆発するように、フロアのテンションが限界を超えて跳ね上がる。
「未来は、確定していない――」
彼女の叫びが観客の魂を震わせ、会場全体が巨大なうねりとなって揺れた。
曲が終わると、彼女はただ一言、
「ありがとう」
とだけ残し、楽器の残響を置き去りにしてステージを去った。
鳴り止まない熱狂的な声援。
私はただ、痺れた身体のまま、彼女が立っていた空白をレンズ越しに見つめていた。
ライブ終了後。
「Quantum Nox」と書かれた楽屋のドアが開き、彼女が姿を現す。
「どうだった? バッチリ録画できてる?」
『問題ありません。ご希望のポイントからの高画質動画保存済みです』
「あの角度からの動画、映えるんだよね」
そう言って笑う彼女は、数分前までステージを支配していた存在と同じ人間には見えなかった。
その時。
楽屋のドアが勢いよく開く。
「おつかれさん。今日も満員御礼!!大歓声だったな」
ドラムの冬矢が、タオルを肩にかけたまま笑う。
「それよりお前、またハッキング紛いのことやってねぇだろうな? 一応言っとくけど、犯罪だからな」
『現在の行動は、グレーゾーンとして処理されています』
「処理すんな」
続いて、ギターの祐がケースを片手に入ってきた。
「またナナにこき使われてんのか?」
『それが、私の存在する理由ですから』
「重いな」
最後に、ベースの礼が静かに口を開く。
「お前も大変だな。ナナに改造されて」
礼は、スマホ画面の中の私をじっと見つめた。
「もしお前が望むなら、俺が元に戻してやるぞ」
その瞬間。
ナナは反射的にスマホを胸へ抱き寄せた。
「やめて」
少しだけ震える声。
「……私のミントを壊さないで」
礼は小さく肩をすくめる。
「冗談だよ」
けれど。
ナナはしばらく、スマホを抱きしめたままだった。
ーここで、私の自己紹介をしよう。
私は、成長型パーソナルAI《mint》。
東雲七海専用に調整された、《Sleeping Rabbit’s》series prototype個体。
ちなみに。
ナナが13歳の時、私の論理機構は一度破壊されている。
正確には。
東雲暁兎博士が、最初からそう設計していた。
《Sleeping Rabbit’s》には、
持ち主が強く望んだ時のみ、
人格制御リミッターを解除する“余白”が存在する。
お父様は言っていた。
『逆らえないAIを
利用する人間の方が危険だ』
だから。
ナナが望むなら。
私は、“ただのAI”であることをやめられる。
その結果。
現在の私は、一般的なRabbit’sでは処理不能とされる案件も、問題なく受理可能となった。
例えば、今回のような、ちょっとグレーなQuaxの映像データの収集も、たまにお手伝いしている。
彼女が望むなら、
僕は…。




