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湊の、名もなき一皿  作者: ジェミラン


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後編

「ジュワッ……」


熱を帯びたフライパンに玉ねぎを落とした瞬間、威勢のいい音が静かなキッチンを跳ねた。


立ち上る白い蒸気が、湊の頬を優しく撫でる。

ヘラを手に取り、油と玉ねぎを馴染ませるようにゆっくりと動かす。透明感を増していく玉ねぎの層が、フライパンの底で踊るように形を変えていく。さっきまでバラバラに切り刻まれていた断片たちが、熱というエネルギーを得て、一つの「美味しい予感」へとまとまり始めていた。


湊は、次にまな板に残っていた人参の細切りを投入した。

オレンジ色の鮮やかな断片が、半透明の玉ねぎの中に混ざり合う。

「パチパチ」という小気味よい音が、リズムを刻む。


続いて、少し硬くなったベーコン。

熱が加わるにつれ、ベーコンからは芳醇な脂が溶け出し、野菜たちを琥珀色の輝きでコーティングしていく。燻製された肉の香ばしい匂いが、キッチンの重たい空気を一気に塗り替えていった。


「……いい匂いだ」


ふいに口からこぼれた言葉は、自分でも驚くほど穏やかな響きを持っていた。


一週間、外食やコンビニの弁当で済ませてきた夕食。それらはどれも完成された、間違いのない「名前のある料理」だった。けれど、どこか自分の身体を素通りしていくような、借り物の味に感じられていた。


今、目の前にあるのは、何の名前もついていない。レシピもなければ、正解もない。

けれど、このフライパンの中から立ち上る匂いだけは、間違いなく湊自身の感覚が求めていたものだった。


湊は、最後に水気を切った小松菜の山を放り込んだ。

フライパンが一時的に緑色で溢れ、温度がわずかに下がる。

湊は、コンロの火力を一段階上げた。

「ゴーッ」という頼もしい唸り声とともに、青い炎がさらに勢いを増す。

小松菜の葉が熱に触れ、鮮やかな深緑へと色を変えながら、しんなりと野菜たちの輪郭に寄り添っていく。


さて、ここからが本番だ。

湊は、調味料が並んだ棚に視線を走らせた。

いつもなら「何を作ろうか」と考え、それに必要な調味料を順番に手に取るだろう。

けれど今夜は違う。

湊は、その時の直感に指先を預けることにした。


最初に手に取ったのは、料理酒の瓶だった。

「ドボドボ」と、目分量でフライパンの縁に沿わせるように注ぐ。

一気に沸き立つ蒸気。酒の香りが具材の雑味を消し、全体をふっくらと蒸し上げる。

湊は、フライパンの底をヘラでこそぐようにして混ぜ合わせた。酒が蒸発し、具材の旨味がぎゅっと凝縮される。


次に、醤油。

キッチンの照明を反射する黒い液体を、ひと回し。


「ジューッ」


醤油が焼ける、あのどこか郷愁を誘う香ばしさが爆発するように広がった。

それは、都会のオフィスビルでは決して嗅ぐことのできない、泥臭くて、力強くて、何よりも「生」を実感させる匂いだった。


「……もう少し、何か欲しいな」


湊は、ふと思いついて棚の奥から胡椒の瓶を取り出した。

ガリガリと、力強く振りかける。

黒い粒が、黄金色の野菜たちの上に散らばる。

それから、冷蔵庫の片隅に残っていた、ほんの少しの鰹節を。

熱い具材の上で、鰹節が生きているかのようにゆらゆらと踊る。


フライパンの中では、野菜も肉も調味料も、すべてが境界線を失って混ざり合っていた。

玉ねぎの甘み。人参の歯応え。ベーコンの塩気。小松菜のほろ苦さ。

そして、醤油と酒と胡椒が織りなす、複雑で深みのある「名もなき味」。

それは、かつて湊が目指していた「完璧な成果物」とは程遠いものかもしれない。

けれど、この無秩序な混濁の中にこそ、今の湊が必要としている「自由」が宿っているような気がした。


仕事では、常に何らかのカテゴリーに分類され、正解の型にはまることを求められる。


「これはこういうプロジェクトだ」

「君の役割はこれだ」


けれど、このフライパンの上では、誰も湊を定義しない。

何を足してもいいし、どんな味に仕上げてもいい。

この場所だけは、湊が湊自身のままでいられる、唯一の実験場であり、聖域なのだ。


湊は、ヘラを止めて、立ち上る湯気を大きく吸い込んだ。

身体の奥の細胞が、一つずつ目覚めていくような感覚があった。

疲労に支配されていた思考が、この熱気によってゆっくりと解き放たれていく。

「美味しいものを食べる」という以上に、「自分を養うために手を動かす」という行為そのものが、湊の心を救おうとしていた。


皿を出すために、湊は戸棚を開けた。

一番使い慣れた、少し厚手の、深い藍色の平皿。

その上に、フライパンの中の熱い塊を滑り込ませた。

盛り付けに工夫なんていらない。

ただ、そこにある熱量を、そのまま皿に移し替えるだけだ。


「……できた」


立ち上る湯気は、先ほどよりも一層濃密になり、湊の視界を白く染めた。


それはまさに「湯気のむこう」に現れた、小さな心の居場所だった。

湊は、炊飯器の中に残っていた最後のご飯を茶碗に盛り、皿の隣に並べた。


都会の喧騒は、もう聞こえない。

深夜のキッチンに漂う、醤油とベーコンの香ばしい匂い。

そして、自分が作り上げた「名もなき一皿」の存在感。


湊は、割り箸を手に取り、椅子に深く腰を下ろした。

一週間、名前のない不安に押し潰されそうになっていた。

けれど、今夜、自分自身の手で一つの「形」を作り上げたことで、湊の心には確かな手応えが戻っていた。

それは、明日を生きるための、ささやかだけれど揺るぎない武器。


「いただきます」


静寂が支配する深夜のキッチンに、湊の声が小さく溶けていった。

湊は、静かに箸を下ろした。

湯気の向こう側にある、新しい朝への入り口を見つめながら。


藍色の平皿から立ち上る湯気は、まるで生き物のようにゆらゆらと揺れ、湊の視界を優しくぼかしている。割り箸を割り、まずは炊きたての白いご飯を一口運んだ。熱を帯びた米粒が口の中で解け、ほのかな甘みが広がる。一週間、冷え切った心に最初に届いた、確かな生命の熱だった。


続いて、フライパンから移し替えたばかりの「名もなき一皿」へと箸を伸ばす。

醤油の香ばしさを纏った小松菜と、黄金色の玉ねぎ、そして人参の断片を、一度に口へと運んだ。


「……あ」


思わず、声が漏れた。

まずやってきたのは、醤油の焼けた香ばしさと、ベーコンの暴力的なまでの旨味だ。噛みしめるたびに、小松菜のシャキシャキとした瑞々しい食感が弾け、その奥から玉ねぎの濃密な甘みが追いかけてくる。人参は少しだけ歯応えを残し、噛む楽しさを教えてくれる。


特定のレシピには存在しない、湊だけの直感が作り上げた味。

それは、どこか粗削りで、洗練さとは程遠いものだった。けれど、都会の喧騒の中で削り取られてきた湊の身体が、枯渇した大地が雨を吸い込むように、その栄養を、その熱を、一滴残らず吸収していくのが分かった。


「美味しい。……本当に、美味しいな」


誰に聞かせるわけでもないその言葉は、湊の胸の奥底へと沈んでいった。

高級なレストランの贅を尽くした料理でも、完璧に計算されたプロの味でもない。けれど、冷蔵庫の隅で忘れ去られようとしていた断片たちが、湊の手によって再び命を吹き込まれ、今こうして湊自身の血となり肉となろうとしている。

その事実が、何よりも湊を救っていた。


一週間の仕事の中で、湊は常に「完成された成果」を求められてきた。

名前のついた役職、名前のついたタスク、名前のついた責任。

それらを完璧にこなすことだけが、社会という巨大な回路の中で生き残る唯一の方法だと思い込んでいた。けれど、今夜このキッチンで、名前のない食材を使い、名前のない味付けをし、名前のない一皿を食べたことで、湊はふと気づかされた。

自分自身もまた、名前や肩書きを剥ぎ取れば、ただの「断片」の集まりに過ぎないのではないか。

けれど、その断片一つひとつには、確かな生の色があり、熱がある。


名前なんて付かなくても、何者かに定義されなくても、自分を養い、明日を始めるための力は、自分自身の内側に、そしてこの静かな台所に、最初から備わっていたのだ。


湊は、無心に箸を動かした。

ご飯の白と、野菜の緑、人参の橙。それらが混ざり合い、湊の空腹を、そして心の空白を、温かく満たしていく。

噛みしめるたびに、肩の力が抜けていくのが分かった。ディスプレイを見つめすぎて強張っていた目元も、不自然に力が入っていた指先も、温かな食事の魔法によってゆっくりと解きほぐされていく。


最後の一口を飲み込み、茶碗を置いた。

最後の一片まで食べ尽くされた藍色の皿の上には、醤油の琥珀色の跡だけが残っている。

それは、湊が一週間という長い旅を終え、ようやく「自分の居場所」に帰還したことを証明する、誇らしい証のように見えた。


ご馳走様でした、と手を合わせ、湊は立ち上がった。

シンクへ皿を運び、蛇口をひねる。


「シャーッ」


水が勢いよく流れ落ち、皿に残った脂を洗い流していく。

スポンジを滑らせると、泡が汚れを包み込み、ステンレスのシンクへと消えていった。

洗ったばかりの皿を水切りカゴに置く。カチン、という小さな音が、一日の終わりを告げる儀式の終止符のように響いた。


湊は、ふと思いついて、再びあの白い箱――冷蔵庫の扉を開けた。


そこには、もう何もない。

しなびた小松菜も、三センチの人参も、端切れのベーコンも、すべてが湊の中に取り込まれた。

青白いLEDの光が照らし出すのは、磨き上げられたような清潔なプラスチックの棚だけだ。

つい数十分前までは、この「空っぽ」という景色が、自分の欠乏を象徴しているようで恐ろしかった。


けれど、今は違う。

この何もなくなった冷蔵庫は、明日という新しいページを書き始めるための、真っ白なキャンバスに見えた。

何を買い足してもいい。どんな一週間を始めてもいい。

空っぽであるということは、次に来る豊かさを受け入れるための「準備」が整ったということなのだ。


湊は、冷蔵庫のドアを静かに閉めた。

モーターの唸り音が止まり、部屋に深い静寂が戻る。


窓の外を見ると、都会の明かりは少しだけ落ち着き、夜の闇がその深さを増していた。

けれど、湊の胸の内にあった、あの刺すような寒さはもう消えていた。


「明日は、何を買いに行こうか」


独り言は、さっきよりもずっと前向きな響きを持って、部屋の空気に溶けていった。


明日の朝になれば、また「湊」という名前を背負い、組織の歯車としての日々が始まるだろう。けれど、たとえどんなに削り取られ、消費される一日だったとしても、このキッチンに帰ってくれば、自分を立て直すことができる。名前のない自分を慈しむための火を、いつでも灯すことができる。


湊はリビングの電気を消し、寝室へと向かった。

枕元から聞こえる深夜の雨音さえも、今は心地よい子守唄のように感じられる。

湯気のむこうに見つけた、自分だけの小さな聖域。

そこにある「心の居場所」を、湊は一生忘れないだろう。


深い眠りの淵へ落ちる寸前、湊の脳裏には、明日買うべき瑞々しい野菜たちの色が、鮮やかな絵画のように浮かんでいた。

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