第四幕「三元の極」
灰雪が舞い、空が音を手放していた。
その静寂の中で――
ローラントが、ゆっくりと柄に手をかける。
金属のわずかな擦過音。
その一瞬で、マリアは悟った。
この男が、かつて世界最強の騎士と謳われた理由を。
「……それが、“神秘を断つ剣”なのね」
彼女の声に、老人は頷く。
「ああ。名残惜しいが――あの犬っころは、ここで殺す」
灰獣が遠くで唸る。
雪原に響くその音に、ローラントの目が細められた。
「地に脚がついておるうちはまだよかった。だが翼を得たとなれば話は別じゃ。儂のつまらぬ願望で、あれをこのまま生かしておくわけにはいかん」
その声音に滲むのは、哀惜だった。
思い浮かべているのは――この島の民、イプセンの先住たち。
マリアはその横顔を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……よかったわ。それなら――勝てるでしょうね」
ローラントが眉をひそめる。
その表情を見届けて、マリアは微かに笑った。
「でも、もう少しだけ待って。勝つんじゃなくて、飼いたいんでしょ?」
「……お嬢さん、何をする気じゃ」
「まだ一つだけ、手があるの」
風が舞う。
魔女の衣が翻り、灰雪を裂いた。
「失敗したら――その後は、任せるわ」
そう言い残し、マリアは再び前へと歩み出る。
灰獣の咆哮が夜を裂き、地を震わせた。
片腕をもがれた純白の石像鬼は、なおも灰獣を押さえつけようと暴れていた。
だが、いまの灰獣にとって、それは与えられた玩具にすぎない。
地を裂く咆哮。
灰獣は翼を大きく打ち、白い石像鬼を嘲るように蹴り上げる。
――瞬間、石像鬼が霧のように消えた。
マリアが造形を解いたのだ。
地に還した。
玩具を奪われた灰獣が、六つの瞳を光らせる。
夜を裂くような咆哮。
その視線が、真っ直ぐにマリアを捉えた。
「これで最後よ……次にあなたが目覚めるときは――首輪がかけられているでしょうね」
魔女が訪れた夜に笑う。
灰雪が舞う。
灰獣が吠え、地を蹴った。
巨体が一直線に、彼女へと迫る。
マリアは一歩も退かない。
(できる限り、負荷のない状態で……これを使うのに“地”は要らない)
左の掌に、風の奔流が渦を巻く。
右の掌に、小さな火の球が揺らめく。
(火は風を纏って――“雷”を起こす。理は十分)
思い起こすのは、あの峡谷で見た雷鳴。
天と地を裂いた、あの閃光。
「今はまだ、“模倣”で十分――いい加減、私に使われなさい」
両手を合わせ、強く握る。
瞳を閉じ、祈るように息を整える。
そして、目を開く。
両手をゆっくりと離す。
静寂が訪れる。
風も雪も、息を潜めた。
その間に――紫電の意志が奔った。
空気が焼け、灰雪が弾ける。
「――偽りの雷霆」
夜が裂けた。
轟音が島を揺らし、黒塔の影が一瞬、昼よりも白く染まった。
その光の中心で、ひとりの魔女が“理”を握っていた。
マリアの両の掌のあいだを、紫の閃光が奔る。
雷鳴はなく、ただ空気だけが悲鳴をあげた。
右手を握る――
瞬間、紫電が一本の稲妻のように凝縮し、形を持った。
マリアはその光を掴み、灰獣へと突き出す。
「――行きなさい!」
言葉よりも速く、雷が走る。
夜を貫き、獣の巨体を貫いた。
灰獣の全身が紫電を帯び、光り、震える。
その六つの瞳が一瞬、焦点を失い――
マリアへ向かっていた脚が、ぴたりと止まった。
マリアは確信した。
雷を使役できた――それは、“理”を再現し、“意志”として握った証。
しかし、まだ歓喜に浸る暇はなかった。
「ローラント! 今のうちに!」
叫ぶ声が雪原を裂く。
だが、老人は既に動いていた。
「お嬢さん――お見事!」
雪煙を蹴り、ローラントが飛び出す。
その手には、鉄で編まれた巨大な首輪。
彼は灰獣の足元に潜り込み、剣を抜く代わりに首輪を掲げた。
雷に痙攣する三つの首へ――素早く、正確に輪をかけていく。
鈍い音が響き、鎖が嵌まる。
その瞬間、灰獣の身体から生えていた石の腕と翼が砕け落ちた。
灰雪のなかで、灰色の破片が散り、崩れ落ちていく。
マリアの掌の雷光が徐々に弱まり、紫の残光だけが夜に溶けていった。
「……成功、したのね」
息を整えながら、マリアは呟いた。
ローラントは頷き、首輪の鎖を強く引き締める。
「首輪の封印が完成すれば、あの犬っころは暫く動けん……大したもんじゃ、お嬢さん」
灰獣が、低く唸る。
その六つの瞳に、もはや敵意はなかった。
ただ、紫電の残滓が静かに走っていた。
「これで……“飼う”ことができるみたいね」
首輪でつながれた灰獣を見つめ、マリアは呟いた。
雷を掴んだ右手は、再び強く握られていた。
その掌には、まだ紫の残光が脈打っていた。
* * *
灰獣が沈黙したとき、世界はもう闇に染まっていた。
吹雪も止み、灰雪だけがゆっくりと舞う。
大監獄にふさわしい、重い夜。
「お嬢さん――先に帰ってなさい。儂はこのまま、仕事に戻る」
ローラントが黒塔を見上げながら言った。
塔の裾では、鎖に繋がれた灰獣が眠るように沈黙している。
「大変ね。こんな日でも“看守”の役目を果たさないといけないなんて」
「ファッファッファ、儂の終生の趣味みたいなもんじゃよ。それに……これからは、あの犬っころの世話もあるしのぉ」
「かえって仕事が増えたんじゃない?」
「そうじゃな――このままただ老いぼれるわけにもいかん。まずは、躾をしっかりせんとな」
わずかに笑みを浮かべ、ローラントは灰獣を一瞥する。
鉄鎖が静かに鳴った。
「そうじゃ、お嬢さん。儂の跡目を継ぐ気はあるか? お嬢さんにその気があるなら、クライセンの連中は儂が黙らせるが」
「ごめんなさい――寒いのは苦手なの」
マリアはそう言いながら、後方に目を向ける。
イプセンの先住民の集落がある方角へ。
「確かにこの土地は、ゆっくり魔法を研究するにはいいかもしれないけどね」
「そうじゃな。若い者に、過ぎた遺物を背負わせるのは間違いじゃ。……忘れておくれ」
マリアは一度、鎖に繋がれた灰獣を見やる。
その額には淡く紫の光が宿っていた。
「じゃあ、私は先に休ませてもらうわ。明日の朝、あなたが戻った頃には――この地からも旅立つ」
ローラントは静かに頷いた。
「うむ」
短い返事。
それだけで、互いにもう言葉は要らなかった。
灰雪が舞い、夜風が二人のあいだをすり抜けていく。
遠く、黒塔の鐘が一度だけ鳴った。
* * *
それから、数週間が過ぎた。
リベルタの空は、秋らしく高く澄んでいた。
街の尖塔の上、雲ひとつない青の中を、一本の箒がゆるやかに弧を描いた。
「すごいなあ……ほんとうに空を飛んでるなんて! わ、わあっ!」
妹クローチェが歓声を上げる。
その声に応えるように、マリア・クルスは笑いながら空中で一回転した。
灰島で見た夜の影は、もうどこにもない。
やがて箒がふわりと降下し、マリアは石畳に軽やかに降り立つ。
「……誤算だったわ。この南風で、クローチェと一緒に“空の旅”ができると思ってたのに」
「しょうがないでしょ? 私は“星”だから。他の魔法は拒まれちゃうの」
マリアはくすっと笑う。
限定魔法――“星”。
赤髪の姉弟子。
目の前の愛しい妹。
そして――ヴィクトリアで別れた弟子。
彼らがそれぞれに抱く、特別な世界の理。
「……そうね。私の“理”とは、異なる世界だものね」
マリアは空を見上げた。
その先に、遠い北の島の灰雲が浮かんでいるような気がした。
クローチェは姉の横顔を見ながら、話題を変える。
「でも、これでお姉ちゃんも“魔導師”になるんだね! すごいなあ、家族に魔導師がいるなんて」
マリアは首を傾げ、微笑む。
「ううん、それはまだ」
クローチェの目が丸くなる。
「えっ、でも雷が使えるようになったから『三元の極』に認められるんじゃ……?」
マリアは微笑みながら、妹の赤い髪をそっと撫でた。
「あの雷は“借り物”よ。ダビデの真似事じゃ、格好悪いでしょ? ――私だけの雷を宿したとき、それが私が『三元の極』に至る瞬間よ」
クローチェは唇を尖らせる。
「もうお姉ちゃんったら、頑固なんだから……」
それでも、その瞳は優しかった。
姉の頑固さを、誇りに思うように。
マリアは少しだけ笑って、空を見上げる。
青空の片隅で、微かに紫の光が瞬いた。
「ふふ、頑固でもいいわ」
風が吹く。
「だって、この意志の先に――私の“極”があるのだから」
秋の陽が、姉妹の髪をやさしく照らした。
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本編第五章開始は11/15(土)20時頃の予定です!
引き続き宜しくお願いします!




