第三幕「灰獣と魔女」
大監獄ゲヘナ。
その最下層――光も届かぬ奈落の底に、囚われた者は二人だけだった。
六角形の空間には、幾重にも封印の結界が重ねられている。
石床の中央には巨大な六芒星が刻まれ、その六つの頂点には、それぞれ黒鉄の門を備えた独立の牢が配置されていた。
この地に響くのは、壁の隙間から滴る水音だけ。
それが永遠にも似た沈黙に、かすかなリズムを与えていた。
――その静寂を、足音がひとつ破る。
剣聖ローラント・デア=クライセン。
手に灯した小さな魔光石が、階段を照らしながら彼の影を長く引き伸ばす。
ゆっくりと奈落の底を目指し、六芒星の中央へと降り立った。
最初の鉄門の前で足を止める。
分厚い扉の表面に刻まれた紋章は、今はかすれ、見えないほどに古い。
ローラントは短く息を吐き、低く呟いた。
「……何が可笑しい、ゲオルグ」
その名を呼んだ途端、扉の向こうで笑い声が響いた。
金属を擦るような、乾いた笑い。
「あれを飼うつもりか? やめておけ、あれは模造品で失敗作だ」
「それともなんだ、いよいよ寂しくなったのか? まるで人みたいだな……“剣聖”よ」
ローラントの眼がわずかに細まる。
「貴様には関係のない話だ。ここで悠久のときを過ごすがいい」
柄を握る指に、わずかに力がこもる。
この男の声は、いつでも心の奥に波を立てる――
それを悟られぬよう、静かに息を吐いた。
しばしの沈黙ののち、鉄門の向こうから笑いが漏れる。
低く、鉄を溶かすような声。
「……この檻の中でも世界には触れられる。暇はしない――もちろん、貴様が無様に足掻く姿もな」
笑いが途切れ、再び静寂が満ちる。
ローラントは目を閉じ、わずかに息を吐いた。
「……ほざけ」
それだけを残し、踵を返す。
背後で、鉄と笑いがゆっくりと溶け合った。
六芒星の対角。
二つ目の鉄門の前に立つ。
そこからは、何の音も気配もなかった。
風すら動かない。
静寂が圧力のように押し寄せる。
「……首を縦に振る気はないか、オケアノス」
反応はない。
ただ、空気がかすかに震え、深海の底のような低い唸りが、石床の下から響いた気がした。
ローラントはしばらくその場に立ち尽くし、やがて踵を返す。
――ここは大監獄。
最下層に封じられているのは、ただ二人。
封印指定第五位『闇の帝王』ゲオルグ・グヴァルグラード。
そして第十位『巨人帝』オケアノス。
世界に仇なした者たちの墓場。
その底にいまもなお、呼吸がある。
灰雪の降らぬ地下で、
世界の残響だけが、静かに息をしていた。
* * *
朝の霧が薄く流れていく。
灰色の空の下、木の枝に積もった雪がぱらりと落ちた。
「儂があの犬っころに首輪をかける。お嬢さんには――あれの動きを止めてもらいたい」
家具ひとつない小屋の床に、ローラントは鉄の輪を放った。
鈍い音が響き、埃がわずかに舞う。
「……これで大丈夫なの?」
「小人の特製じゃ。質は保証しておる」
マリア・クルスは首輪を手に取り、まじまじと見つめた。
異様に冷たい感触。
魔力ではなく、何か別の“理”で鍛えられているのを感じる。
「灰獣について――あなたが知ってることを教えて」
「そうさな。再生のほかは……ああ、あれは“火と氷を喰らうもの”じゃな」
「“火と氷を喰らうもの”……?」
「あの犬っころには、その類の魔法は効かぬらしい。それと――あの三つ首で一度飲み込んだ魔法は、首を落とすまで使える」
マリアの脳裏に、あの灼熱の光景が蘇る。
自分の“火”を模倣し、吐き返してきたあの怪物。
「……じゃあ、あの火球も」
「ああ。お嬢さんの石の化け物が吐いた“火”を、あの犬っころが真似たのは――そのせいじゃ。ファッファッファ、詳しい理屈は儂に聞くなよ? 儂は魔法を知らん」
マリアは息を吐き、首輪をそっと床に置いた。
眉を寄せ、思索が走る。
「動きを止める……力ずくでいくしかないわね。 試したことはないけど、石像鬼を“複数”出せれば――」
「ほう、そんな芸当ができるのか」
尋ねられて、マリアは拳を握る。
心の中で思考が巡る。
(あれを止めるには、あのときみたいに余力を残しちゃダメ。でも、それを複数……?)
不安を振り払うように、首を横に振った。
「まだ、ね。……できる“かもしれない”ってだけ」
ローラントは短く頷き、背を向けた。
「なら、試してみる価値はある。あれは夕暮れ時に現れる――再び行くぞ。あの塔の麓へ」
マリアは目を閉じ、深く息を吸い込む。
灰雪の匂い。
冷たく、それでいて焦げたような臭気。
「……ええ、やってみせるわ」
* * *
黒塔の目と鼻の先。
マリアとローラントは、すでに二手に分かれていた。
灰獣の顕現を控え、マリアは静かに目を閉じる。
吐く息が白く溶け、灰交じりの雪に馴染んでいく。
(火を喰らう……『神の火』は効かない?)
(いいえ、仮に効いたとしても――あれは全てを焼き尽くすだけ)
(風も鉄も、私には高位の魔法はない。やっぱり……)
唇がわずかに震える。
それは恐怖ではなく、冷徹な自己認識だった。
「“神の火”に胡坐をかきすぎたかしら……こんな天敵がいたなんて」
風が途切れた。
次の瞬間――空気が、震えた。
地が鳴り、灰雪が舞う。
塔の裾野の闇が膨らみ、輪郭を持つ。
六つの瞳が順に灯る。
それはまるで、黄昏に浮かぶ六つの星のようだった。
再び、灰獣が顕現する。
大気がうねり、地の底から低い咆哮が響いた。
「まずは――一体目!」
マリアは指先を走らせ、魔力を組み上げる。
灰雪を巻き込みながら、白い光が足元から立ち昇った。
石と魔素が結び合い、輪郭を持つ。
大地を守る守護像――“石像鬼”。
今までよりも澄んだ純白。
灰雪が降りしきる、夕と夜の間――淀む紺の空にその輪郭が浮かび上がった。
土人形や石巨兵よりも強力な、地の魔法。
単純な押し合いなら、むしろ石巨兵の方が適している。
だが、いまのマリアにはそれを選べない“棘”が刺さっていた。
――過去の戦いの記憶。焼け落ちた屋敷、燃える人影。
力任せの石巨兵を、彼女は無意識に拒絶していた。
だからこそ、彼女が選ぶのは石像鬼――
この魔法が、失われた魔法となったのには理由がある。
一つは、“制約”。
押し返す、抑える――単純な動作なら、術者の指示ひとつで動く。
だが薙ぎ払い、掴み上げ、叩き潰すには、術者の思考と魔力が完全に同調しなければならない。
一つは、“拡張”。
術者自身の魔術を流し込み“拡張”することができる。
マリアが石像鬼で放った灼熱の魔弾がそれだ。
ただの造形魔法の類にはないこの柔軟さこそが真価――
そして、それは一体に心血を注ぐことでこそ、本来発揮される。
つまり、マリアはこの戦場で二つの間違いを犯そうとしているのだ。
一つは、石像鬼を“力押し”の盾として使おうとしていること。
そしてもう一つは、一体に注ぐべき理と魔力を、複数に分けようとしていること。
そのいずれもが、この術の本質に最も遠い行為――
マリアが事前に抱いていた不安が、現実となり、牙を剥く。
息を整え、両手を組む。
魔力が空気を振るわせ、足元の雪を弾いた。
「――二体目!」
再び、地がうねる。
だが今度は光がわずかに鈍かった。
形を成すまでの時間も遅い。
そして、浮かび上がった石像鬼の体色は――先ほどの白とは違っていた。
澄んだ輝きを失い、どこか濁ってくすんでいる。
まるで、灰雪そのものを固めたような鈍い色。
マリアの額に汗が滲む。
二体の石像鬼が並び立つ。
しかしその背後では、灰獣の黒い瞳がわずかに光を宿していた。
灰獣の三つ首が、真白の石像鬼へと襲いかかる。
石の守護者は大きく翼を羽ばたかせ、夕空を切って避けた。
空を掠める三つ首。
その隙を縫うように、灰を混じらせた二体目が突撃する。
だが――触れた瞬間だった。
灰獣の一首がその腕を噛み砕き、もう一首が胴を押さえつける。
硬い破砕音が響く。
灰色の破片が雪のように散った。
「そんな――!」
(二体目とはいえ、昨日のよりも魔力は濃い……なのに!)
呼吸が荒くなる。
胸の奥で焦りが弾ける。
「純度の問題……? いや、違う……」
マリアの脳裏に、ローラントの言葉が蘇る。
――『あの三つ首で飲み込んだ魔法は使える』
「……造形は出来なくても、“適応”はできるってこと……?」
気づいた瞬間、全身の血が冷えた。
まるで、自分の魔法そのものが“学習”されていく感覚。
灰獣の六つの瞳が、まるで試すように――彼女を見つめ返していた。
「犬っころの力を見誤ったのは……儂か」
低く呟いた次の瞬間、潜んでいたローラントが雪煙を蹴って飛び出した。
「ローラント――!」
マリアの制止が追いつく前に、老人の身体が闇を裂く。
「仕切り直しだ、お嬢さん……一度、首を落とす!」
老齢とは思えぬ速度。
灰獣の懐へと滑り込み、剣が閃く。
一拍遅れて――轟音。
金属が石を噛むような、重く激しい硬質音が灰の雪原に響いた。
「っ……!」
マリアの瞳が見開かれる。
ローラントの手にあった剣が、根元から折れていた。
灰獣の首元――そこは石像のように硬化していた。
まるで、先ほど噛み砕いた石像鬼の“構造”そのものを取り込んだかのように。
黒いひびが走り、その下で鈍い銀光が瞬く。
灰獣が、喉の奥で低く唸った。
三つ首が、嗤うように天へ吠えた。
その咆哮は空気を裂き、灰雪を吹き飛ばす。
「――一旦引いて!」
マリアの叫び。
純白の石像鬼が反応し、ローラントの退路を作るように前へと躍り出る。
マリアが左手を振る。
それに合わせ、石像鬼も左の拳を振り抜く。
地を砕く一撃。
その一瞬の隙を突いて、ローラントが後方へ跳ぶ。
だが――灰獣の進化は、止まらなかった。
前脚の付け根から、灰色の腕が生え出す。
その手が、石像鬼の左腕を掴み取った。
「そんな、造形まで……」
次の瞬間、右の首がその腕に噛みつく。
硬質な咀嚼音。
石像鬼の喉から、金属を擦るような悲鳴が上がる。
灰獣の背で、何かが蠢く。
肉と灰が捩じれ、そこから――翼が生えた。
それは、石像鬼によく似た形だった。
三つの首、四つの脚、二つの腕、そして一対の翼。
異形の悪魔が、夕闇の空を睨む。
「……これは、もはや殺すしかないやもしれぬな」
ローラントが低く呟く。
折られた剣とは別に、腰の裏から新たな柄へと手を伸ばす。
その眼は、すでに覚悟を宿していた。
* * *
灰獣が背にする黒塔――大監獄ゲヘナ。
その最下層で、男は笑っていた。
鉄の檻の奥、闇に溶けた声が響く。
「……確かに、模造品であり――失敗作ではある」
その声音は、愉悦とも侮蔑ともつかぬ。
薄く嗤いながら、続ける。
「だが、あれは灰汁を集めて造られた“幻獣”だ。――この世に満ちる魔の残滓、理の澱。その灰汁を凝らし、煮詰め、形を与えた“悪”そのものだ」
かすかな鎖の軋み。
ローラントの名を呼ぶたび、檻の奥の“何か”が蠢く気配がした。
「あの時――この“私”ですら諦めたというのに」
笑いが止む。
静寂のなかで、鋭い声が刺す。
「魔力を持たぬ、人ならざる者の分際で……支配できると思うな」
低く囁くように、鉄が軋んだ。
それはまるで、底なしの奈落が微笑んだかのようだった。
鉄の檻の奥――闇に沈む瞳が、ふと細まる。
「……だが、あの魔女は筋がいい」
低く、陶酔を帯びた声。
笑いとは違う。観察者が理想の形を見つけたときの声だった。
「石像鬼を、現世に甦らせた――実に、素晴らしい」
薄闇のなかで、鎖が微かに鳴る。
その音はまるで、歓喜の鼓動のように。
「それに……あの若さで、すでに“境界”に手をかけているとはな」
「称賛に値する――私の手元に置きたいほどだ」
一拍の沈黙。
そして、囁くように続ける。
「――あとは、“意志”を示せるかどうかだ」
声はまるで、運命を裁定する神託のように静かに響いた。
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