第二幕「剣聖と魔女」
灰を含んだ雪が、音もなく舞った。
片手に小さな火球を灯し、冷気を追い払いながら――
マリア・クルスは、島の中心にそびえ立つ黒塔を睨む。
「……これだけ離れてても分かるくらい、おぞましい魔力の数々。これが――」
「『大監獄ゲヘナ』、魔道士たちの地獄」
白い息を吐き、彼女は斜めにかけた角状の鞄に手を入れる。
それは、ヴィクトリアで出会った金髪の青年から譲り受けたものだった。
「ということは……ここは“イプセン”なのね」
取り出した地図を見つめる。
先ほどまでいたリベルタの遥か北――クライセン王国領イプセン自治区。
目の前の海を裂くように、塔の根元から黒い瘴気が噴き上がっている。
その圧に、思わず眉をひそめた。
「あの白眉……何の目的でこんなところまで飛ばしたのよ?」
風が唸りを上げ、雪が吹き荒れる。
塔の方角から、はっきりと感じ取れる。
異音、振動、そして――
巨大な魔素が押し固められたような、言いようのない不快感。
「何これ……? こんなの、自然にいていいものじゃない! この島に何が起きてるの?」
地を踏む足に力がこもる。
その瞬間――
「ファッファッファ。ここに来るには薄着すぎねえか? 観光客……ってわけじゃないよな」
声をかけられ、マリアは思わず身を引いた。
視線の先にいたのは、黒い外套を纏った老人。
――さっきまで、何の気配も感じなかった。
目の前の塔のせいか。
それとも、この男そのものが“理の外”にいるのか。
「ヨハネスの野郎、腕利きの魔法使いを寄越すって言ってたが……まさかこんな可愛らしいお嬢さんとはな。ファッファッファ、もう少しめかしこんで来るべきだったかのお」
聞いたことがある。
この地獄のような大監獄には、看守が――ただ一人しかいない。
だが、その看守こそが魔法使いの天敵。
仮に監獄を抜け出せたとしても、その先に待つのはもう一つの地獄。
すべての神秘を断つ剣を携えた、かつて“世界最強”と呼ばれた老騎士。
マリアは息を呑み、目の前の老人を見据える。
「あなたは……ローラント・デア=クライセン」
「いかにも。こんな初々しい子にも名を覚えられてるとは……儂も捨てたもんじゃねえな。ファッファッファ」
老人ローラントは、顔を綻ばせて笑った。
「騎士は私の専門外だけど――あなただけは“別枠”よ」
嘘か真かは定かではない。
かの幻獣の一柱『銀狼』に傷をつけた者がいる。
その者は、魔力を持たぬただの人だったという。
「お嬢さん、名は?」
「マリア・クルスよ」
名を明かしても、老人の様子は変わらない。
『魔女の女王』――自分たちの世界ではそれなりに名の知れた呼び名のはずなのに。
「ほう、マリアとな。いい名だ。……あれは今から五十……いや、六十年前か? 儂の初恋の娘と同じ名だ」
「――はあ?」
「ファッファッファ。お嬢さんよ、早速見にいくとするかい?」
灰雪の向こう、塔の裾野で再び轟音が響いた。
* * *
二人は塔の近くの木々に潜んでいた。
黒い霧が地を這い、塔の周囲を覆っている。
塔そのものは意外なほど小柄だが、漏れ出す魔力は全身を突き刺すように濃い。
「あなた、本当にこの大監獄の看守を一人で?」
「ああ、そうじゃな」
「信じられない……数日いたら気が狂うわ」
「ファッファッファ、魔法使いたちはみなそう言う」
風が止む。
雪の帳が揺れた。
「――来たか」
ローラントの低い声に、マリアも気づく。
霧の向こう――塔と同じほどの巨体が蠢いていた。
三つの首。
灰色の皮膚。
そして、内側から滲み出る黒い光。
「何なの、あれ……?」
「あれは『灰獣』――数年前、突如この地に現れた化け物なんじゃ」
灰獣の咆哮が響く。
空気が裂け、雪が弾け飛ぶ。
「なるほど……あれを狩るのは一苦労しそうね」
「狩る? 何を言うんじゃ。儂はあれを“飼いたい”んじゃよ。狩るだけなら儂一人で十分じゃ」
ローラントの言葉に、マリアは思わず目を丸くした。
「か、飼うって……?」
三つ首の影がこちらを向いた瞬間、地が揺れた。
「あーあ、バレちゃったのう」
「だって! あなたが“飼う”なんて馬鹿なこと言うから!」
「まあ、物のついでじゃ。お嬢さん、ちょいとやってみ」
ローラントは木々の隙間からひょいと顔を出す。
灰獣が低く唸り、六つの瞳を光らせた。
「ほら、犬っころ。そこのお嬢さんが、ちょいと遊んでやるってよ」
刹那――風が鳴った。
マリアのすぐ前、茂みに並んでいた木々が、一瞬で斜めに滑り落ちる。
切断面から灰雪が舞い上がり、視界が白く弾けた。
その音に反応するように、灰獣の六つの瞳が一斉にこちらを向く。
低い唸りが地を這い、空気が震える。
マリアは思わず身構えた。
「……ちょっと、今何を――」
「ファッファッファ。これで目も合ったな?」
剣の鞘と柄がぶつかり、乾いた音が響く。
木々の切れ口は、元からそうだったかと言わんばかりに滑らかだった。
ローラントは右手を柄から離し、長く伸びた顎ひげを梳きながら、何事もなかったかのように笑う。
「――なるほど、随分と甘く見てくれるのね。……いいわ、やってあげる」
マリアは右手を掲げ、魔力を集めた。
(切り落とすってことは……硬度はそこまででもない)
「私個人の因縁はないけど――恨むなら、そこの老人を恨みなさい!」
灰獣の足元から、巨大な鉄槍が突き上がる。
轟音。
肉を貫く音。
だが灰獣は、根元から槍をへし折った。
穴の空いた前脚から緑の体液が滴り落ちる。
「力は十分……怯みもしない、ってわけね」
マリアは次の魔法を紡ぐ。
地が裂け、岩が盛り上がる。
「――現れなさい、石像鬼!」
翼を持つ巨像が出現し、灰獣へ突進した。
マリアは箒に跨り、上空へ舞い上がる。
「抑えなさい!」
石像鬼と灰獣が組み合う。
地面が陥没し、灰が舞った。
「ほう……中々やるなお嬢さん」
下で腕を組むローラントの声。
だが、じりじりと石像鬼が押し返され始めた。
「……力勝負じゃ分が悪いってこと」
三つ首の両脇の首が、石像鬼の腕に食らいつく。
「石像鬼も時間の問題ね……なら!」
マリアの掌に火球が灯る。
同時に、石像鬼の喉が光った。
「――その距離じゃ、避けられないでしょ!」
灼熱の魔弾が放たれ、世界が赤に染まる。
灰交じりの雪が蒸発し、視界を覆う煙が立ち込めた。
「話が違うなんて言わないでよ。そもそもこいつを“飼う”なんて発想が間違ってるわ――狩るしかないのよ」
煙の先の影を睨みながら、マリアはローラントに声を投げた。
――だが、煙が晴れたとき、そこにあったのは。
石像鬼の頭が地に転がる。
灰獣の口元に、マリア自身の魔法陣が輝いていた。
「えっ……」
自分の“火”が、破られ、模倣されている。
「今日はここまでじゃな」
マリアと灰獣のあいだに、いつの間にかローラントが立っていた。
剣を鞘に納める。
一拍遅れて、中央の首が音もなく落ちた。
主を失った魔法陣は、熱弾とともに掻き消える。
灰の雪が静かに降りしきった。
顔を一つ失った灰獣が咆哮をあげる。
三つ首が揃っていたときより、音が一つ抜けて、より気味の悪い響きとなる。
「何が……いや、何なのあの“怪物”は……」
マリアは空で凍りついていた。
灰獣に力負けしたことも、火を真似られたことも、すべて吹き飛ぶ。
――老人の剣が、その首を容易く落とした。
そのことの方が、よほど理解できなかった。
「お嬢さん、冷静になりな。よーく観察しなさい」
ローラントの声に、マリアは下を見た。
観察。何を。
――自分が穴をあけた灰獣の前脚に、傷跡がない。
塞がっている。
斬られた中央の首が、緑の溶液を垂らしながら蠢き始めた。
「あっ……」
肉が盛り上がり、骨が軋む。生臭い熱気が風に乗る。
中央の顔が、再生していく。
灰獣が空に吠えた。
「よく見れたな、お嬢さん。――ほれ、じゃあ帰るぞ」
ローラントは一度だけ灰獣を見やり、背を向けた。
剣の鞘に柄が触れ、乾いた音が響く。
地面が裂け、灰雪が舞い上がる。
ローラントはとぼとぼと歩き出し、マリアも我に返って、その背を追った。
* * *
老人はゆっくりと、確実に歩を進めていた。
マリアは手を口に当て、難しい顔のままその背を追う。
「神秘を断つ剣……まるで魔導器みたいね」
口にした瞬間、マリアの中でひとつの仮説が形を取った。
ローラントの実兄が治める、西方三大国家の一つ――クライセン王国。
古来より神性の薄かったその国は、他国の加護を恐れて軍事力を鍛え続けてきた。
その果てに生まれたのが“魔導器”。
触媒魔法とは異なり、魔力そのものを動力源とした高出力の武装。
先ほど灰獣の首を落としたあの剣は、その類に違いない。
それが彼女の推測であり、同時に願いでもあった。
しかし――。
「ああ、これかい?」
ローラントが振り返り、軽く剣を掲げた。
「これはのう、そこの集落でもらったもんじゃよ」
「は……?」
視線の先に、小さな集落が見えた。
木と石で組まれた家々から、煙が細く立ちのぼっている。
「うむ。今日は、儂とお嬢さんと、あの犬っころの顔合わせみたいなもんじゃ。ろくな準備なんか、しちゃおらん」
「そうであってほしかった、みたいな顔をしておるな」
ローラントが笑い、顎ひげを撫でる。
「お嬢さん、初見であの犬っころとあれだけやりあえる者など、そうはおらんぞ。もっと自分を誇るべきじゃ」
雪の上に、二筋の足跡が刻まれていく。
* * *
「あっ、領主様だ!」
「おかえりなさい、領主様!」
「そちらはお客様ですか!」
「良い酒があるんだ、今晩はぜひうちで!」
集落に入ると、次々と声がかかる。
子どもから老人までが笑顔で手を振り、ローラントの帰還を喜んだ。
マリアはただ、その光景に目を丸くする。
「あなた……慕われているのね」
「まあの」
ローラントは得意げに顎ひげを撫で、集落の奥の小さな家の前で足を止めた。
「これが儂の城じゃ。入りなさい」
マリアは扉を開ける。
中はひどく簡素だった。
家具も少なく、炉も火もない。
吹き込む風が床の灰雪をさらい、部屋には冷たさしか残っていなかった。
「……生活感がないわね。廃墟みたい」
「ファッファッファ、飯はもっぱら分けてもらっとる。自炊なんぞ、生まれてこの方したことはない」
マリアは思わず肩をすくめた。
「ここはイプセンの先住民の集落じゃ。今なおこの島で暮らす、儂以外の民たちよ」
ローラントは椅子に腰を下ろし、静かに語り出す。
「昔、このあたりの小島には『銀狼』が棲みついとった。他の国の民が決して触れられぬ領域じゃった」
「それが数百年前――ローレシアが中心になり、悪しき魔法使いを閉じ込める牢を建てた。それが『大監獄ゲヘナ』」
やはり、あの全身を突き刺すような魔力は中から発せられていた。
マリアは黙って頷いていた。
「それから数十年後、ローレシアでクーデターが起きて大きな戦になった」
「ローレシア戦争のことね」
「ああ。よく知っておるな。その首謀者は今もなお、あの牢獄の最下層におる」
老人は顎ひげを撫でる。
「……が、好き勝手やったローレシアにも罰が当たった。銀狼はローレシアに移り住んだのじゃ」
「それも聞いたことがあるわ」
「うむ。そのとき儂も少しばかりやりあったが――しんどかった。二度と触れたくはないわい」
マリアは息を呑む。
“幻獣の一柱”を過去形で語る老人を、どう受け止めていいのか分からなかった。
「脱線したな。イプセンの民は余所者を嫌う――そりゃそうじゃろう、好き勝手に土地を使われて、余計なもんまで建てられたんじゃ。当たり前のことよ。だからローレシアが滅び、クライセンが統治に入ったときも反発が強かった」
ふとローラントが顔をあげる。
「ここまで来るのに二十年じゃ。ようやく儂は民に受け入れられ、今ではお嬢さんのような客人が来ても、誰一人、排除しようとはせん」
マリアは黙って聞いていた。
その背に、長い時間を生きてきた者の孤独が滲んでいる。
「……ふと思ったんじゃ」
ローラントはゆっくりと顎ひげを撫でた。
「いずれ近い未来、儂も死ぬ。そのとき、誰が彼らを守るのかとな」
ローラントは石を積み重ねただけの天井を見つめる。
「クライセンには儂の意志を継ぐ者はおらん。儂はこの地に追いやられた身、それを継ぎたい変わり者なぞいるはずもない」
「ローレシアの新たな姫君は善良じゃが、まだあの広い国で手一杯じゃ。ヴィクトリアは伝統と威信の国。新世界の開拓に失敗した今、再びよそに手を伸ばすことはせん。――つまり」
「おらぬのだよ、誰も」
窓の外で、雪がひゅうと鳴る。
「だから、儂は新たな担い手が欲しい。願わくば、圧倒的な力と正しき心を持つ者がよい。だが――より優先すべきは“力”じゃな」
ローラントの瞳がわずかに細くなる。
「儂には、あれが海のものか山のものかすら分からん。もしこの地で穏やかに死ねるなら、その前に葬るつもりではある。だが現状、あれは塔の周りから離れん――ならば、監獄の守り手として手懐けるほうが早い、そう思うたのじゃ」
マリアはしばし沈黙し、やがて小さく息を吐いた。
「……それで、“灰獣”ということね」
ローラントはにやりと笑う。
「察しが早いのう。お嬢さん、あれを手懐けられたら――儂の席を譲ってやってもええぞ」
「ふざけてる場合じゃないわよ」
「ファッファッファ。儂はいつでも真面目じゃ」
その笑い声が、冷たい部屋に反響する。
* * *
外では風が唸り、灰雪が横殴りに流れていた。
ローラントはふと立ち上がる。
「……そろそろ時間か」
「時間?」
「夜は囚人たちと過ごすのじゃよ」
「囚人……?」
「そうじゃ。塔の中には昔からの“客”が多くてな。夜は少しばかり相手をせねばならんのじゃ」
「……それは、ここに来てからずっと?」
「そうじゃな。雨の日も、風の日も。あいつら、退屈が嫌いでな。儂が顔を出さんと拗ねおる」
マリアは眉を寄せる。
この老騎士が何を“囚人”と呼ぶのか――それを問う気にはなれなかった。
「ここは好きに使いなさい。食い物は倉に少し。お嬢さんなら、夜のうちに見つけられるじゃろ」
「まるで、長居するのが前提みたいね」
「ファッファッファ。気に入ったら、そのまま住んでもええぞ」
扉を開けた瞬間、吹き込んだ風が灰雪を舞い上げた。
「……気をつけて」
「はっはっは。気をつけるのはお嬢さんのほうじゃろ」
そう言い残して、老人は闇の中へと消えた。
マリアは一人、静まり返った部屋に残される。
炉も灯りもないその空間で、かすかな灰の匂いだけが漂っていた。
窓の外――遠く黒塔の方角に、再び低い咆哮が響く。
その音は、風よりも重く、まるでこの島そのものが呻いているようだった。
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