第一幕「雷神と魔女」
霊峰ジャバリ――魔法教会総本山が聳える“神の座”。
その中腹を裂く深い渓谷、デ・ラ・サエタ峡谷。
雷鳴と祈りの歌が絶えぬその地は、古より“神威の矢”が降りた聖域とされていた。
そして――雷鳴の只中を、ひとりの魔女が箒に跨り、駆け抜けていた。
稲光が背を追い、山肌を焦がす。
空気を裂く轟音が、途切れることなく続く。
「……くっ!」
風を纏う魔女は、箒の柄を足元の河川へ向け、急降下した。
赤みがかった桃色の三つ編み髪が空で暴れ、濃紺のローブの裾が炎のように翻る。
雷の矢が尾を引き、上空で岩壁が爆ぜた。
渓谷に反響する轟音とともに、火花が舞う。
砕かれた岩壁の礫が降り注ぐ。
魔力で制御された箒が、紙一重の軌道で閃光をかわしていく。
「しつこい男は……嫌われるわよ!」
魔女は右手を伸ばし、礫を一握り。
瞬く間にそれは鉄の槍へ変わり、上空へと放たれた。
稲光が鉄槍を狙い撃つ。
閃光と共に爆ぜ散る――だが、その一瞬で十分だった。
魔女は箒に身を伏せるように密着し、姿勢を低く取る。
次の瞬間、岩壁へ向けて急上昇した。
岩肌が目前に迫る。
剥がれ落ちそうな巨大な岩塊へ右手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、岩塊が淡い光に包まれた。
「――現れなさい、石像鬼!」
岩塊が形を変え、翼を生やした石の悪魔へと変貌する。
魔女は箒からその背に飛び移り、深緑の瞳で雷鳴轟く空を睨んだ。
魔女が左手を振る。
同じ動きで、石像鬼も巨大な左腕を振り下ろす。
鈍い音が、デ・ラ・サエタの空に響いた。
――だが、その腕は不自然な高さで止まる。
見えない“何か”に押さえつけられていた。
「これを止めるとか……どんな馬鹿力してるのよ!」
魔女は右手を構える。
掌に渦が巻き、圧縮された熱が球体を形づくった。
同時に、石像鬼の胸部が赤く脈打つ。
右腕から伝わった魔力が喉奥を駆け上がる。
抑え込まれた左腕を睨みつけ、石像鬼は口を大きく開いた。
「――これなら!」
轟音。
開かれた口から、魔女の掌で生まれた灼熱の魔弾が拡大し、紅蓮の奔流として放たれた。
「殺す気か、マリア!」
抑えられた左腕の方から、低い声が響く。
刹那、雷光が走った。
灼熱の魔弾が石像鬼の左腕ごと焼き尽くさんとする瞬間、石の悪魔の身体がひび割れ、空中で瓦解する。
「なっ――!」
マリアと呼ばれた魔女は、宙へと放り出された。
目前に、稲妻を纏った男が現れる。
「詰め、だな。――雷霆、起動」
男の右手。
その五指に稲光が集まり、空気が裂けるよりも速く雷撃が放たれる。
時が止まる。
マリアの瞳に、稲光の軌跡が焼きついた。
身体は空で硬直し、そのまま重力に引かれて落下していく。
男は落ちていく魔女を見つめ、ふと我に返る。
「いけねぇ、やりすぎたか? ……いや、大丈夫だな」
帯電した身体を宙に浮かべ、男は先に川岸へと向かった。
――意識が戻る。
魔女は、いま自分が落下していることをすぐに把握した。
「……私の負け、ね」
河川に向かって一直線に落ちながらも、その瞳は冷静だった。
落下の最中、上空を見上げる。
「南風、迎えに来て!」
直後、宙を漂っていた箒が軌道を変える。
主人の下へ――流星のように落ちていく。
マリアは手を伸ばし、箒を掴む。
そのままぶら下がるようにして、辛うじて着水を免れた。
* * *
デ・ラ・サエタ峡谷を流れる河川。
その川岸に、ひとりの魔女が降り立った。
マリア・クルス。
魔法教会に籍を置く『魔女の女王』は、都合のいい小岩を見つけると、その上に箒を丁寧に横たえた。
「協会にこき使われて鈍ってると思ってたが……むしろ磨かれて帰ってきたんじゃないか?」
声のする方へ、顔を上げる。
「馬鹿言わないで。あっちでは散々だったんだから――ダビデ」
ダビデ・デル=リオ。
リベルタ自由国家連邦に唯一存在する魔術師団――『リベルタ自由軍』の団長。
この国の“自由”の象徴であり、西方世界の魔法秩序を束ねる『円卓の魔法使い』にも列席する、いまやこの世界でも随一の魔導師だった。
「ハハッ! だろうな。でも――石像鬼の再現は、このリベルタでも随分と話題になったぞ。あれは、かなり手強かった」
「何言ってるのよ。魔力は抑えてたけど、普通の人間が力で捩じ伏せられるものじゃないわ」
「まあ、俺もムキになったからな」
ダビデが口元を緩める。
その視線はマリアの背後――箒へ。
「それと、その箒もか」
「ああ、これ? 今回の報酬よ」
マリアは誇らしげに微笑んだ。
「狐目ったら、私に地位やお金を渡そうとしてたから、一番良いものを選んであげたの」
「へえ。あの会長さんがお前にプレゼントか。随分と気に入られてるじゃないか」
「やめてよ、反吐が出る。それにあの狐目、まさかコレクションに手を出されるとは思ってなかったんでしょうね。泡を食った顔をしてたわ」
マリアが肩を竦める。
笑いながらも、目だけは鋭く光っていた。
「物に無頓着な俺でも知ってるぞ――『アネモイの四風』の一本。一級品の触媒じゃないか」
「あら、世に出るようになって少し博識になったんじゃない? ご明察よ」
驚いたように眉を上げるダビデ。
マリアはくすりと笑う。
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」
「ごめんなさい……」
マリアは少し視線を逸らした。
「少し前まで、何も知らない子と一緒にいたから」
「ああ――噂には聞いたな。弟子を取っていた、と」
マリアの瞳がわずかに陰る。
川面に映る稲光が、その表情を一瞬だけ照らした。
短い沈黙が落ちた。
風の音だけが、峡谷の奥で鳴っている。
「――あの子に、偉そうに指示を出したのに……」
マリアの声は、どこか遠くを見ていた。
「本筋の方は、何も掴めなかったわ」
ダビデは何も言わず、静かにその横顔を見つめていた。
「石像鬼も、南風も……おまけの方ばっかり豪華になって、本来の目的は何一つ果たせなかった」
マリアは苦笑し、足元の礫を軽く蹴る。
火花のように、砂粒が水面に散った。
「その鬱憤を晴らすために、真っ先に俺のところに来たのか」
ダビデの口元に笑みが浮かぶ。
「まあ、そんなところかしら」
マリアは肩をすくめ、息を吐いた。
「……雷も、全くイメージが掴めてないままだったし」
彼女は一度ダビデを見て、それから自分の右手を開く。
指先に、微かな静電気が弾けた。
「でも、ダメね」
小さく呟く。
「そもそも――『単極者』の雷は、私の“理”にはそぐわないのかもしれない」
単極者――理から外れし者たち。
本来、複合魔法は、対応する二つの元素魔法を習得した先に、その“芽”が生まれるとされている。
すなわち、理に従い、順序を踏んだ者のみが辿り着く領域。
だが、彼らはその理を越え、たったひとつの複合魔法のみを使役する。
それは体系の外側――“到達”ではなく、“逸脱”としての極。
マリアの目の前に立つ男、ダビデ・デル=リオもその一人だった。
彼は雷のみを使う。
火も風も、いかなる元素も彼を拒む。
だが、その雷は神威の如き力を持つ。
だからこそ――彼に与えられた渾名は『雷神』。
その名を、恐れと敬意をもって呼ぶ者たちは少なくなかった。
「俺は、お前らの言う“普通の魔法”ってのは分からないけどよ――」
ダビデは空を見上げ、掌を軽く開いた。
指先に、淡い稲光が走る。
「雷はイメージじゃねえ。意志の塊だ」
一瞬、峡谷の風が止む。
「……面白い見解ね」
マリアは小さく笑った。
けれど、その瞳には、どこか測りかねる光が宿っていた。
理では届かぬ“何か”を、ほんの僅かに見たような――。
* * *
マリア・クルス。
西方世界歴五九七年、春。
ヴィクトリア王国にて、五大貴族のひとつ――ウィンクラウン家を滅ぼした魔女。
ヴィクトリアにおいて“貴族殺し”は、国家を揺るがす大罪である。
本来であれば、彼女は“魔導士の烙印”を押され、大監獄へ収監されていたはずだった。
だが、運命は思わぬ方向へと転がる。
彼女が焼き払ったウィンクラウン家の令嬢――ウェンディ・ウィンクラウン。
その身から、“禁呪”の使用が確認されたのだ。
一転して、マリアは“罪人”ではなく“証人”として扱われる。
魔法協会により、禁呪使用の真相を追う調査班の一員として、彼女は再び“理の舞台”へと引き戻された。
――それから、季節が一つ過ぎる。
ウィンクラウン事件をきっかけに設立された調査班は、禁呪に関する明確な成果を得られぬまま、やがて解散した。
マリア個人としては、調査の合間に魔法協会の別案件をいくつもこなし、その才覚を改めて証明してみせた。
失われた魔術とされていた“石像鬼”の再現は特筆すべき成果であり――
彼女は協会から特別褒章を受ける。
それは、『魔女の女王』の名を、再び西方世界に轟かせた瞬間だった。
……だが、禁呪の問題は、彼女の心に抜けない棘として残った。
調査も、称号も、名声も――
それらは、あの日の痛みを癒すものにはならなかった。
傷を負ったマリアは、失意のまま、リベルタへと帰郷する。
* * *
ダビデとの“稽古”から、数日後――。
マリアはリベルタ最大の都市、アルマデナを訪れていた。
目的はただひとつ。
彼女の最愛の妹、クローチェに会うため。
魔法教会の尖塔群を背に、マリアは街の中央を歩く。
赤レンガ造りの街路を抜ける風が、懐かしい香りを運んできた。
「……いよいよ、ね」
小さく呟いたその声は、疲れているようで――どこか弾んでもいた。
見慣れた白い教会の尖塔が視界に入る。
あの鐘楼の音を、彼女は何度夢に見たことだろう。
「愛しのクローチェ! 久しぶりね、お姉ちゃんと会えなくて寂しかったでしょ? 私は寂しかったわ! さあ、お姉ちゃんと今から空の旅へ行きましょう!」
勢いよく扉を開け放ち、マリアはそのまま中へ駆け込んだ。
だが、祭壇の前には――最愛の妹と、予期せぬ人物が立っていた。
「お、お姉ちゃん……ひ、久しぶり」
マリアの妹であり、魔法教会の修道女でもあるクローチェ・クルスは、久々の再会に胸を高鳴らせながらも、苦笑いを浮かべるしかなかった。
その隣で、クローチェより二回りほど大きな老人が、ゆっくりと咳払いをする。
一瞬で表情を凍らせるマリア。
「これはこれは……大司教様。街まで下りてくるなんて、珍しいこともあるのですね」
『大司教』ヨハネス・グレゴリウス。
『七天』と呼ばれるこの西方世界に七名しかいない大魔導師の一角。
魔法教会を実質的に支配する男だった。
「随分と元気そうではないか、マリア・クルス。まるで罪を悔いてなどいない顔だな」
長く伸びた灰交じりの白眉の下から、鋭い眼光が突き刺さる。
「あら、クローチェごきげんよう。大司教様から教えを頂いているのかしら? ……それじゃあ、わたくしはここで失礼するわ」
普段のマリアからは想像もできぬほど、愛しい妹に対してよそよそしかった。
引きつった笑顔で無理やり取り繕いながら、マリアは後ずさる。
しかし、勢いよく開け放ったはずの聖堂の扉は、彼女の退路を断つように固く閉じられていた。
「貴様に用があって、わざわざここまでやって来たのだ。マリア・クルスよ」
「そうでしたか……ごめんなさい、大司教様。わたくしも、たったいま用事を思い出しまして――」
マリアは二人に背を向け、目の前の“大司教”から逃走するために扉へと身体を向けた。
だが、もはや遅かった。
「私からの“出所祝い”だ。彼の地で、頭を冷やしてこい」
マリアの足元に、魔法陣が展開する。
光が瞬時に視界を覆った。
「え、ちょ、待っ――!」
二人の方へ再度振り返るマリア。
光の中から、必死に手を伸ばす。
「せめてクローチェとハグぐらいは――ッ!」
「貴様には、教会のために一刻も早く“魔導師”になってもらわねばならん。貴様がそれに拘るというのなら――これは“最後の試練”だ。早く至るのだ、『三元の極』へ」
「なっ! 何をさせ――!」
次の瞬間――
聖堂から、マリアの姿は掻き消えた。
* * *
霧の中。
冷気が肌を刺す。
吐息が白く染まり、頬を撫でる風が痛いほど冷たい。
「くしゅん……ああもう、信じられない! 行き先も伝えずに――飛ばすなんて!」
鼻を指で擦り、マリアは両腕で自身を抱きながら辺りを見回す。
「それにしても寒いわね……どこよ、ここ?」
西方世界の果て、孤島イプセン。
そこには――
“人理を守る塔”と呼ばれる、巨大な監獄が聳え立っていた。
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