011_1
朝が、来てしまった。
天宮エレナは、朝日から隠れるように、顔を手で覆った。
逃れられるわけはない、それは分かっている。
分かっている、はずだ。
枕元のタブレットPCを手に取る。
もう何度確認したか、分からない。この報告書。
死亡者2名。重軽傷者3名。
あとは送信ボタンを押すだけ。なのに。
エレナ「……」
どうしても、押すことが出来ない。
鈴木教官の死から考えると、もう丸一日経ってしまっているというのに。
……おそらく、この事件は大きな問題とされる。
おばあ……いや、理事長の反対勢力にとって、この事件は理事長を攻撃する格好の口実だ。
この学院は一枚岩にはほど遠い。虎視眈々と理事長の権力を狙う勢力が存在している。
しかも、この隔離教室の成立の経緯には、理事長の独断に近い判断がある。
理事長が今の地位を失うことにでもなれば、ここの生徒がどんな扱いをされてもおかしくない。
……自分は、間違ったのだろうか。
鈴木教官の死を知って、学院へ報告することをためらい……やめた。
自分の力で解決……犯人を見つけ出してとりおさえた上で、報告するのが最善だと思った。
出来ると思っていた。
その結果、犯人は死亡。生徒の一人は重傷を負った。
犯人……かぐらを殺めてしまったしおんの心痛も計り知れない。
……私は、かぐらを取り押さえるどころか、軽くあしらわれただけだった。
エレナ「思い上がりも、はなはだしいな……」
どうしてこんな自分が、生徒達を導けると思ったのだろう。思ってしまったのだろう。
短く、アラーム音が鳴った。
朝6:20。朝課題まで、もう間もない。
……そういえば、最近は日課のランニングをしていないな……
ふと思い出した。
忙しさにかまけて、続けることが出来なかった。
足に巻かれた包帯に触れる。
……再開出来るのは、いつになるだろう。
エレナはベッドの脇に立てかけられている松葉杖を手に取った。
そして松葉杖を頼りにして、立ち上がった。
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エレナ「……これだけ……か」
朝課題に出席していたのは、たった4人だった。
エレナ「いや、仕方ない。昨日、あれだけのことがあったんだ……」
ユウ、あかり、サキ、レイン……
自分は、来てくれた4人に全力を尽くすだけだ。
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朝7:00、朝食。
カツサンドをはじめとする、惣菜パンが並んでいる。
カオルめ、また献立を無視したな。
前回の補給から、エレナが事細かに献立を作るようにしている。
しっかりと食料在庫を見極め、計画的に計画を立てているというのに。
厨房に行って、注意してやらないことには、気が済まない。
エレナ「カオル、あのな、何度も言うが……」
彼は手の平を見せて、私の小言を止めた。
カオル「今日はさ、元気が出るものが良いって、思ったんだ」
真剣な表情に、私はなにも言えなくなった。
カオルはたまに、顔に似合わず、こういう粋な行動を取る。
エレナ「……今日だけだぞ」
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朝8:00、ホームルーム。
さすがに4人というわけではなかったが、空席が目立つ。
私は教壇から、まばらに着席する生徒たちを見回した。
視線が止まる。
かぐらの席。
そこには当然、誰も座っていない。
あかり「おはようございます。さ、みんな……今日も、やろ?
ひとつ!」
気をつかったのか、あかりが立ち上がって、異能力五訓の斉唱の音頭を取った。
生徒たち「力を誇るな、制御を誇れ」
……私は、出来ていただろうか?
あかり「ひとつ!」
生徒たち「担え。異能は責任なり」
口先だけで、なにもしなかったのではないか?
あかり「ひとつ!」
生徒たち「悪を知り、正義を……」
エレナ「やめてくれ!」
思わず、声が出てしまった。
怪訝そうな視線が自分に集まるのが分かる。
私は、やっとの思いで言葉をひねり出した。
エレナ「……今日は……今日はもう、よそう……」
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朝8:15、一般教養(座学)。
数学。二次関数の説明動画が、上滑りするように流れている。
静かだ。
いつもこんなに、静かだっただろうか?
これなら、自分の学習のための教科書を持って来れば良かったかも知れない。
……いや、もし教科書を持ってきていても、開くことはなかっただろう。
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昼12:00、昼食。
予定の献立では、おにぎりだったが、カオルはチャーハンに変更したようだ。
しかもオマケにするにはあまりに主張の強い、薄切りの牛ステーキ肉が載っている。
カオルはクラス全体を元気づけようとしてくれている。
しかし食堂は静かで、食器と皿が触れる音だけが響いていた。
カオルはムキになったように、チャーハンを作り続けた。
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昼13:00、異能力倫理(座学)。
ふと、今回の事件を題材に、ディスカッション形式の授業をしてはどうか、ということを思いついて、すぐに打ち消した。
昨日の今日でそれは、あまりにデリカシーに欠ける行為だ。
思いついただけで、自分が浅ましい配慮の足りない人間に感じられて、気が咎めた。
動画では、異能力を悪用する犯罪組織への注意喚起が流れていた。
異能力を目当てに、青少年を勧誘する黒い影がイラストで描かれていた。
現実もこのくらい、分かりやすければ良かったのに。
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昼14:00、異能力訓練。
普段はひっきりなしに相談を受け、大忙しの授業だが、今日ばかりは違った。
みな、黙々と自分の課題に向き合っている。
一人、いつもと違う行動をする生徒がいた。
久遠ユウだ。
赤黒い短刀を握り、思い詰めた表情で素振りをしていた。
あの短刀は、トーマが異能力で作ったものだろう。
本来ならば異能力を伸ばす時間だが、彼の場合は大目に見るべきだろう。
彼の異能力は、訓練の仕方が皆目見当がつかないし、それに……
あんなに必死になって剣を振るう彼を、止める気にはなれなかった。
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夕方16:00、見回り。
存在を知ってから、数日。見回り時に必ず確認しているところがある。
エレナ「今日も、増えているだろうか……」
校舎2階の廊下の天井。それに、女子寮の廊下、突き当たりの壁の上部。校舎外壁の1階と2階の窓の間。
不気味な崩れた文字は毎日のように、どこかの文字が増えていた。
いずれも、人がその身ひとつでは届かぬ高所に書かれている。
その文言は不気味だが容量を得ない。
いたずらにしても、意図が分からない。
校舎2階の文言はこうだ。
「お」「ま」「え」「だ」「け」「い」「ら」「な」「い」「あ」「ま」
次に女子寮廊下。
「か」「み」「の」「て」「は」「む」
最後に、校舎外壁。
「あ」「し」「た」「が」「み」「え」
一度、休日にでもしっかりと見張ってみるか。または、監視カメラを設置して……
いや、もうそんな日も必要もなくなったかもしれないな……
エレナ「う……」
女子寮廊下の壁を見て、私は少なからずおどろいた。
これまで一日1文字か2文字しか増えていなかった文字が急に今日。
「か」「み」「の」「て」「は」「む」「の」「う」「を」「き」「ら」「う」
神の手は無能を嫌う。
相変わらず意味は分からないが、文章は完成した。
なにより、文字が今日だけで、6文字も増えていることに、なにかの意図を感じざるを得なかった。
無能とは、だれを指すのか……
いや、特定のだれかとは限らない。もっと象徴的ななにかを指すのかも……
しかし、直感的に結びついてしまう。
今、もっとも無能な者といえば……
足早に、次の確認箇所、校舎外壁を見に行く。
その場所も、文字が増えていた。
「あ」「し」「た」「が」「み」「え」「ぬ」「め」「は」「つ」「ぶ」「せ」
明日が見えぬ目は潰せ。
なんだ、なにが起こっている?
明日が見えぬ目……。
そんなはずはない。そんなはずはないが、ひとつ、心当たりがある。
予知能力の異能一族に生まれながら、予知とは無関係の、加速の異能を持つことになった……
自分。
呼吸が整わない。
違う。違うはず、と自分に言い聞かせるが、嫌な予感が黒い染みになって胸の奥に広がる。
急いで最後の場所、校舎の2階に向かう。
エレナ「あ……」
慣れぬ松葉杖が階段に引っかかり、エレナは体勢を崩した。
階段の手すりにしがみつく。
無理に体重をかけた、左腕が痛む。片方の松葉杖が階段の下まで落ちていったが、構っていられない。
手すりにすがりつくようにして、エレナは階段をのぼった。
天井の文字には、他の2カ所よりも多くの字が追加されていた。
「お」「ま」「え」「だ」「け」「い」「ら」「な」「い」「あ」「ま」「み」「や」「え」「れ」「な」「お」「ま」「え」「の」「こ」「と」「だ」
お前だけ要らない 天宮エレナ お前のことだ。
エレナ「う……」
胃の中のものがせり上がってくるのを感じる。
抗いがたい吐き気をこらえて、エレナはトイレに駆け込んだ。
そして便器に、大量の吐瀉物をぶちまけた。




