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ド田舎無職の俺の近所に異世界の国が引っ越してきた件  作者: 藤原湖南
第7章「『田園調布の魔女』メリア・スプリンガルド」
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7-1


午前7時少し前。けたたましいヘリの音で私は目を覚ました。


窓の外から国道の方を見ると酷い渋滞だ。マスコミ関係者だけでなく、昨晩の「会見」を見た野次馬がイルシアのある大府集落に殺到しているのだ。

勿論、大府集落入口から先は自衛隊が厳戒態勢を敷いていて、一般人は決して入ることなどできない。確か、結界も再度張られたはずだ。それでも、この早朝にもかかわらずイルシアを一目見ようとする人々が集まり始めていた。


スマホのLINE通知も酷いことになっている。市役所からの通知だけでなく、もう何年も連絡を取り合っていない学生時代の友人やコンサル時代の同僚から「あれは本当なのか」と問い合わせが殺到していた。

当然言えることなど何もない。私は溜め息とともにそれらを無視し、母のいる寝室へと向かった。


母は珍しく目を覚ましていた。いつものように無表情で、焦点の合わない目で天井を見ている。世界が昨日ひっくり返ってしまったことなど、全く知らないのだろう。


「母さん、起こすわよ」


身体を支えて促すと、ゆっくりと彼女は上半身を起こす。そしてよろよろと歩き始めた。

私は彼女が倒れないように支えながら、一緒になって階段を降りていく。日本も秩父市も大変なことになっているというのに、私の日常だけは続いていく。そう思うと涙がこぼれそうになった。


テレビをつけるとどこの番組もイルシアについての特番が組まれていた。まだ断片的な情報しか発表されていないせいか、情報統制を続ける政府に苛立ち交じりの批判をするコメンテーターばかりだ。

秩父市の無策を指摘する声もあった。昨晩の記者会見は惨めなものだった。阪上市長は、イルシアのことをほとんど何も知らない。ゲリラ的に行われた「御柱」——ジュリの動画配信についても、「調査中です」と繰り返すだけだった。まあ、あの市長の好きなようにさせたら大変なことになるのでこれはこれでいいのだけど。


朝食の準備をしながら、私はLINEに来ている大河内議員の通知を読む。今日の各自の立ち回りについて、スケジュールも含めて事細かく書いてあった。私は2回目の住民説明会を仕切ることになるらしい。

正直に言って気が重い。支援金の交付で彼らが納得するとは思えなかった。イルシアの存在が明らかにされたことで、彼らの日常は決定的に壊されてしまった。いつかはこの日が来ると覚悟はしていたとはいえ、それをどうフォローするのかという答えはまだ見つかっていない。


そして、私が頼れる人間は今ほとんどいない。トモは横浜で入院中のノアさんの付き添いをしている。綿貫議員はペルジュードとかいう人たちからどうイルシアを防衛するのかで手一杯なのだという。大河内議員も中央政府との折衝で身動きが取れない。

秩父市役所の同僚たちはいい人たちばかりだけど、この難局を乗り切れる人たちにはどうにも見えなかった。結局、私がやるしかないのだ。


問題はそれだけじゃない。……母のことだ。

さっき来た連絡によると、この大混乱のなかでデイサービスは休みにせざるを得なくなったらしい。つまり、母をケアしながら私は住民説明会に対応しなければいけないのだ。

母は活発に動き回るような人ではない。ただ無気力に、虚空を眺めているだけだ。それでも、誰かが付き添ってあげないといけない。そして母を託せるような人など、近所付き合いのない私には思いつかなかった。


「母さん、ご飯だよ」


いつも通り、野菜粥の朝食を母の前に置く。勿論、彼女は自分で食べることなどできない。ある程度冷ました後、匙を口に持って行くよりほかないのだ。

TVの特番は、ジュリの動画を映し出していた。これが本物なのかどうか、ああでもないこうでもないと議論している。画面は空を飛んでいる彼女を映した別の映像に切り替わった。「これが異世界の魔法というやつなのでしょうか」と司会者が深刻そうな顔をして喋っている。


その時、家のインターフォンが来客を告げた。……誰だろう。

確認するとそこにいたのは……


「市川君?」


ペコリと彼は頭を下げる。


「朝早くすみません。少しお時間よろしいですか」


玄関へと向かうと、市川君が深々と礼をした。


「大河内さんから、これを預かってまして」


「……これって」


市川君が持っていたのは、A4で10枚ほどはあろうかという紙の束だ。ホッチキスで止めてあるそれをパラパラとめくると、住民説明会の想定問答集であることがすぐに分かった。


「大河内さん……わざわざこれを作ったの??」


「政策秘書の人と一緒にってことらしいですけど。本当、凄いですよね……大河内さんも綿貫さんも。政治家ってあんな人ばかりなんですかね」


「どうだろう……でもとにかくありがとう。大河内さんには感謝してもしきれないわ」


「それと、大河内さんから伝言があって。『お母様の御様子、どうでしょうか』と」


思わず動きが止まった。やはり、あの人は私の事情を調べ上げていたのか。


「……どういう意味?」


「いや、もし山下さんのお母様の具合が悪ければ、今日は僕らの方で引き取ろうって話になって。多分、山下さんにとってもその方がいいんじゃないかって」


「僕ら……まさか、イルシアに??」


コクン、と市川君が頷いた。


「魔力を使える人は今限られてますけど、こちらで面倒を見たりするぐらいなら多分できるはずです。イルシアの皆も、今身動きがとりにくいですから……何かすることがあるというのは、気晴らしにもなるんじゃないかと」


私は一瞬躊躇した。それをありがたいと思ってしまった自分に、嫌悪感を覚えてしまったのだ。

私は、母は自分にとっての邪魔者じゃないと思おうとしている。しかし現実には、彼女の存在は足かせになっていた。


数秒迷った後、私は「ありがとう」と口を開いた。市川君がペコリと頭を下げる。


「すみません。今、お母様は中に?」


「ええ。でも、君が連れて行くんでしょうけど……車も何もないんじゃない?」


「あ、それは大丈夫です。僕も魔法使えるようになったんで」


「……えっ」


どういうことなのだろう。こっちの人間でも魔法が使えるなんて、想像もしてなかった。

市川君は「あ、びっくりしましたよね」と照れ笑いを浮かべる。


「僕、ジュリと一緒になることになったんです。それで、彼女の力も既にある程度使えるようになってて。本格的には夕方らしいんですけど」


流石にこの言葉にはびっくりした。一緒になるって……結婚??こんな急に??


「ちょ、ちょっと待って??あなたまだ18でしょ??」


「ええ。でも、イルシアを――ジュリを何とかできるとすれば、僕しかいないみたいなんです。やるしかないかなって」


「でも、ここにいるお祖母さんや東京にいるご両親は??」


「お祖母ちゃんはどうか分かりませんけど……両親は割と放任なんで。流石に心配したのか昨晩は電話してきましたけど」


「あなたが、イルシアと関わりを持ってることは?」


「まだ言ってません。それこそ、心配させるだけですし」


ちょっと凄い子だな、と私は率直に思った。それがいいのかどうかは分からない。ただ、最初に会った時の印象とは随分変わったのは間違いなかった。

こんなに肚の据わった子だなんて思いもしなかった。ジュリに惚れているのかもしれないけど、それにしても自分の人生のうち最も重要な選択——結婚をこんなに簡単に決めてしまうなんて。


私は思わず「はは」と笑ってしまった。私より10は年下だというのに、彼の方がずっと考えて行動している。弱音を吐きそうになっている自分が、何だか馬鹿らしくなった。


「ちょっと待ってて。まだ朝ご飯の途中なの。君も少し家の中で待つ?」


「はい、ではお言葉に甘えて」


市川君をリビングに通し、私は朝食の続きをすることにした。粥はすっかり冷めていて、食べさせるにはいい塩梅になっている。

母は相変わらず、ただ焦点の合わない目で外を眺めているだけだ。匙を持って行くと口だけは動く。


市川君はというと、テレビを真剣な表情で見ていた。あのジュリの動画は、彼が部分的に撮影していたらしい。綿貫議員の協力も得ていたらしいけど、スマホで撮ったにしては確かによくできていた。

彼はふうと息をつくと、視線を私たちの方に向ける。微かに訝し気な表情になったのを、私は見逃さなかった。


「どうかしたの?」


「いえ……お母様、どこが悪いんだろうって」


「若年性認知症よ。それは見ればわか……」


「何か違う気がするんです。僕にはよく分からないんですけど」


「あなたに何が分かるの?」と口に出かかって止めた。この子は、もはや普通の高校生ではない。魔法を使えるのが本当なら、何か私に見えない何かが見えているのかもしれない。


「……どういうこと?」


「何か、違和感があるんです。ジュリか、イルシアの誰か……シェイダさんとかなら、分かるかもしれません」


「違和感?」


コクンと彼は首を縦に振った。


「少し、イルシアで調べさせてください。お願いします」




母の本当の病名が分かるのは、それから数時間後のことだった。




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