6-4
ボクは人生のほとんどを、この「繭の間」で過ごした。ボクにとっての世界は、この小さな部屋がほぼ全てだった。
10歳になるまでの記憶はない。ずっとこの容器の中で寝ていたからだ。
世界についてのあれこれや魔法の使い方などは、ボクが寝ている間に機械が教えてくれた、らしい。だから目覚めた時には一通り不自由ない程度の知識は持ち合わせていた。
ただ、10歳になって初めて身体を持った時はかなり苦労した。ほんの少し歩くだけでもよろけて、すぐに転んでしまったのをよく覚えている。
身体を持つようになっても、ボクに自由なんてなかった。王宮の中ぐらいは歩けるようになったけど、それも母様かアムルの付き添いが必要だった。
それに、そもそも身体を持って動くこと自体がほとんど許されなかった。ボクはこの容器の中でずっと眠り続けることを強いられていた。『貴女は未完成だから、完成されるまではそこにいなさい』と、母様が感情のない声で言っていたのを思い出す。
だから継承の儀を1年先にひかえたあの日——母様が死んだ日に最初に持った感情は、悲しみではなく喜びだった。
やっと自由になれる。その時のボクは、そう思っていたのだ。
*
ふっと意識が戻る。目の前には、アサトとゴイルがいた。
アサトがここに来るかもしれないことは、薄々分かってた。だけど、ボクの「正体」なんて知られたくもなかった。もし知ったなら……彼はボクから離れてしまうだろう。そういう確信があったからだ。
『……アサト、来ちゃったんだね』
ボクは思念を彼に送った。ボクの「中身」は、ヒトとはあまりにかけ離れている。それはクト神様が、魔力を最も効率よく持てるようボクら「御柱」を造り出したからだ。
そして御柱は代々器となる身体を入れ替えて、数百年もの間イルシアを統治してきた。知識も人格も、継承の儀で受け継ぎながら。それは神の代行者であり、絶対的な王でもあり――そしてその実は、ただの化け物だ。
アサトは汗を流しながら立ち尽くしていた。少し目を伏せた後、彼はボクの「正体」の方を見据える。
「それが、君なのか」
すぐに読心魔法で、彼がゴイルから一通りの話を聞いたことを察した。
『……醜いだろ?でも、これがボクなんだ。本来であれば、決していてはいけない、自然の摂理に反した種族――それが、ボクなんだ。
それに、今でも一日の多くの時間をこうして過ごさないと生きていけない。それから離れるには継承の儀を受けなきゃいけないけど……ボクはボクでなくなる』
アサトは唇を噛んで俯いた。彼はボクから離れてしまうのだろう。
……それでいい。彼が生きていくためには、ボクなんか忘れた方がいい。
彼なら、ボクを自由にしてくれるだろうと思っていた。それは彼の魔力がボクと相性がいいからという理由だけじゃない。彼がどう考えても厄介者でしかないボクを護ってくれようとしたからだった。
ただ、それにはあまりにこの世界は厳しすぎた。魔法を少し使うだけでも、恐ろしく消耗してしまう。それはまだ「未完成」なボクにとっては、特にそうだ。アサトを以てしても、ボクに魔力を与え続けることなんてできない。もしそうしようとしたら、彼は多分死んでしまう。
だから、ボクにできることは彼をボクから遠ざけることだ。アサトにはここに来てほしくはなかったけど、多分こうなるだろうと思っていた。
そして、彼が去った時にボクはゴイルに「繭の間」を破壊するよう伝えるつもりだった。もし彼がやらないなら、ボク自身がそうするつもりだった。
そう。ボクは、継承の儀を受けてジュリ・オ・イルシアとしての自我を失ってまで生きたいだなんて思ってなかった。
*
ゴイルから、昔話は聞いていた。継承の儀を受けた母様が、別人のように変わり果ててしまったことを。元々の母様は、とても感情豊かな人だったらしい。それが、継承の儀を受けた途端まるで機械のような人物になってしまったという。
絶対に間違えない、絶対に正しい神のような為政者――そこに人としての温かみはなかった。少なくとも、ボクは母様からそんなものを感じたことはない。母様は尊敬はしてたけど、ああなりたいなんて全く、微塵も思ったことはなかった。
だから、ボクはゴイルのことを凄い人だと思っている。全くの別人に成り果ててしまった母様に仕えて、数十年間も彼は宰相として役割を果たし続けてきた。それが本来の「母様」に対する愛故かは分からないけど、ボクには決してできそうもないことだ。
そして、そんな想いを他の誰かにさせたくはなかった。アムルもその一人だ。彼女は幼い頃に母様に拾われ、「御柱付き」になるように育てられたのだと聞いている。彼女はボクにとって本当にいい友達だし、向こうもそう思ってるはずだ。だからこそ、その関係を壊したくはなかった。
イルシアのためを思うなら、継承の儀は受けた方がいいに決まってる。だけど、ボクの人生は、ボクの手で歩みたかった。それに、理由はよく分からないけどこの継承の儀は受けてはならない気がしたのだ。
御柱には、ある程度の未来予知能力が備わっている。いつもはっきり見えているわけじゃないけど、多分……取り返しのつかないことが起きてしまう予感があった。
だったら、ここで命を絶った方がいい。死ぬなら、御柱としてではなく、「ジュリ・オ・イルシア」として死にたい。ボクはそう思っていた。
*
どのぐらいの時間、沈黙が流れただろう。アサトが顔を上げた。
「それでも、ジュリはジュリだっ!君がどんな存在なのか、僕には分からないけど……僕にとってのジュリは、5日間一緒に過ごした大切な友達なんだっ!!君をここで喪うわけにはいかないっ!!」
『でもボクはっ……このままだと生きられないんだ!!生きようとするなら、君を殺すか……全くの別人にならなきゃいけない。そんなの、どっちも嫌なんだよ!!』
アサトは目に涙を浮かべながら、一歩も引かない。そのことに、ボクは少し驚いていた。……未来予知で見た姿じゃない。
「……知ってるよ。でも、選べる選択肢は別にある。そうですよね、ゴイルさん」
ゴイルが重々しい表情で頷いた
『その通りだ。だが、これはお主にもう一つの『覚悟』を強いることになる。それは、儂が遂に持ち得なかった覚悟だ』
『えっ』
別の選択肢?覚悟?
すぐに思いついたのは魔紋だ。それを使ってボクとアサトの魂と命を繋ぐのだろうか。
ただ、あれを刻むのには時間がかかる。定着には確か1年とかそのぐらいの時間が必要なはずだ。ボクにはそんな時間なんて、多分ない。
とすれば、ゴイルが言っているのは何なのだろう。彼はアサトを見て、静かに告げた。
『お主には、ヒトを辞めてもらう』
「……えっ」
『……は??』
ゴイルの言葉に、2人して絶句した。ヒトを辞める??それって、どういう……
「……どういうことなんですか」
躊躇いがちに、ゴイルが話し始めた。
『発想は、魔紋によく似ているが……より手早く、より確実で、そしてより危険な手段だ。我がドゥナダン族に伝わる秘中の秘の禁術、それこそが『同化』だ』
「同化?僕とジュリが、一つになるんですか??」
『違う。これを遂行することで、お主と御柱様は『2つの別々の身体と精神を持った同一個体』になるのだ。そして、魔紋を通した交合同様、魔力は2人の間で融通される。無論、命もだ。違うのは、互いの知識や記憶まで共有してしまうことだな。
かつて、300年前の戦乱の世にこれを使った勇者がドゥナダンを隆盛に導いたことがあった。実行された事例がないわけではない』
「でも、ほとんど実行はされなかった」
『……然り。失敗の確率が高いのだ。同化する側とされる側、共に魔力が相当程度高くなければ、即座にどちらとも消え失せてしまう。儂も先代様にそれを持ちかけながら、ついぞ実行できなんだ。儂では失敗が目に見えてたからだ。
だが、お主なら……儂よりは遥かに可能性がある。どういう理由か知らないが、この世界には恐らく極めて稀な——メジアにおいても稀な水準の魔力をお主は持っておる。お主なら、耐えられるかもしれぬ』
『ダメだっ!!!』とボクは声をあげた。そんな一か八かの賭けみたいなことに、アサトは巻き込めない!!
それに……「同一個体」になるということは、アサトはボクのように「化け物が器に入っている」生き物になるということだ。そんなことなんて断じてさせられない。
アサトはしばらく考えている様子だった。そして、ボクを無視して「分かりました」と答える。
『アサト!??』
アサトは穏やかに笑っている。
「ジュリ、どのみちこのままなら、僕らに待ち受けているのは破滅だ。君が魔力欠乏症になり、『死病』が発症するなら猶更だと思う。
そして、僕は君を喪いたくないし、僕も死ぬつもりはない。最善の結果が出る可能性がある選択なら、それに賭けようと思うんだ」
『……でもっ!!』
「僕はこれまで、ずっと石橋を叩いて叩いて渡らないような人生を送ってきた。絶対に問題なくなるまで、徹底して準備を積み重ね、リスクは負わない。そんな感じで18年やってきた。
それを続けても、多分そこそこの人生は送れたと思う。でも、もうそんなことを言っていられる状況じゃない。そして、いい加減勝負に出なきゃいけないんだ。それが今なんだよ」
アサトはゴイルの方を向いた。
「どうやればいいのか、教えてくれますか」
『今日すぐに、とは言わぬ。『同化の法』には然るべき準備が必要だ。1、2日時間をくれぬか』
「分かりました。では、今日は」
『お主は普段通りに過ごせ。ただ、御柱様は魔法をお控えになった方がよいですな。使うとしても、最小限に留めるべきです』
ボクは『分かった』と答えた。「ヴィー」という音がする。ボクの魔力充填が終わったのだ。カプセルの穴が開き、「器」に入る準備が整えられた。
「同化の法」が上手く行くのかは分からない。ボクの未来予知には、成功のイメージも失敗のイメージも見えなかった。
ただ、アサトの決意は凄く堅いのだろう。ボクもそれに応じよう、そう思った。
*
この時のボクは、「同化の法」の先に待ち受けている2つの想定外の出来事を知らない。




