序章6
一通り説明を終え、家に帰ったのは日が沈んで大分経ってのことだった。3時間か4時間ほど、ノアとゴイルにこの国のことを説明していたことになる。
勿論、その程度の時間で説明しきれるはずもない。スマホの充電切れという形で、ひとまず終了になったという形だ。明日も恐らくはイルシア王城に向かうことになるのだろう。
ノアはというと、結局俺と一緒に家に戻ることになった。住み慣れた家の方がいいだろうとも思ったのだが、『この世界のことを少しでも知るには、あなたの家の方がいい』と押し切られたのだ。
ノアの見た目は小学校高学年か中学生ぐらいとはいえ、一応俺とタメの女性を泊まらせることに戸惑いはあった。しかもルックスとしてはかなりの美少女だ。手を出さない自信はあったが、世間体としては良くない。
実際最初は申し出を断ったのだが、ゴイルも『その方がよかろう』と言うので渋々それに従うことにした次第だ。こういった形で人生初の「同棲」をすることになるとは、実に奇妙な気分がする。
もっとも、ノアは相当疲労の色が濃かったのか家に帰るなり『しばらく寝るわ』と客間の布団に倒れ込んでしまった。「念話」を使い続けるのも大分負担らしい。
俺が彼女たちの言葉を覚えるか、あるいは逆に彼女が日本語を覚えるかした方がよさそうだった。物事が一段落ついてからになるだろうが。
彼女が寝ている間に、とりあえず晩飯でも作ることにした。精の付くものと言えば、やはりステーキだ。
チルド室から保存袋を2つ取り出す。中にはたっぷりのオリーブオイルと玉ねぎとニンニク、そして豪州産の牛肉が入っている。オリーブオイルを使った、簡易的な熟成法だ。保存袋に入れてからちょうど1週間、悪くない頃合いのはずだ。
肉を取り出すとキッチンペーパーで余分な油を取り、片面だけに塩コショウを振る。見た目上は変色もなく、いい感じに食べられそうだ。
肉を常温に戻している間に、米を洗って炊飯器にセットする。同時にスープとサラダを準備することにした。
スープはパックの野菜スープをベースに塩コショウ、それと少量のコンソメで味を調える。具はソーセージにジャガイモ、ニンジン、玉ねぎだ。簡易ポトフとでもいうべきだろうか。しっかり煮込まないが、それでも家で食う分には十分な味になる。
サラダは適当にレタスを千切り、刻んだ玉ねぎとプチトマトを添えた。これに健康維持のために飲んでいる野菜とバナナのスムージーを添えれば、栄養価としては問題ないはずだ。
スープを煮込んでいる間、干してあったノアの服を取り込んで風呂も洗う。下着は朝に「ドン・ジョヴァンニ」で買ってきたものしかないから、また明日にでも追加で買わなければいけない。その時は彼女も一緒に連れて来た方がいいのだろうか。
もっとも、30近い男と小学生に見える少女が連れ立って歩いているのはいかにも疑われそうだった。しかも買うのは下着と来ている。俺の顔を知る地元の知り合いに会わないことを願うしかないか。
そんなことをぼんやりと考えていると、炊飯器が「残り10分です」と告げた。そろそろ仕上げに入ることにするか。
フライパンにオリーブオイルを垂らし、そこに肉を投入する。強火で軽く焼き目を付け、引っ繰り返す。もう片方の面に塩を振りながら焼き目を付けたら、一度引き上げて2分ほど休ませる。これを3回ほど繰り返すと、いい感じの柔らかさになる。
仕上げにはやはり醤油だ。少量を垂らし、香ばしい匂いが立ち込めたら完成だ。昼飯から随分食べていないせいか、俺もかなり腹が減っている。
「ノア、飯ができたぞ」
客間に入り、電気を付ける。寝相が悪いのか、それともクーラーをつけていても寝苦しいのか、タオルケットは明後日の方向に飛ばされていた。
腹が出っぱなしになっているのに気付き、俺はひとまずタオルケットを彼女にかけることにした。目覚めた時に一部とはいえ裸になっているのを知られるのは、流石に都合が悪いだろう。
そもそも、最初に目覚めた時も「裸を見たか」と随分気にしていたほどだ。年齢相応の羞恥心があるなら、こうしておいた方がいい。
「むう……」
部屋の光に気付いたのか、ノアが薄く目を開ける。
「起きたか」
『ん……ん。おなか、すいた』
「そう言うだろうと思って飯作ったぞ。もう9時だし、そろそろ食べよう」
目をこすりながらノアがテーブルへと向かう。料理を見るなり「クァオ!!?」と声をあげた。
『え、これ全部あなたが作ったの??』
「まあな。とりあえず早く食おう。肉が冷めちまう」
彼女の椅子の所にはスプーンにフォーク、ナイフを置いておいた。異世界人と言えど、この辺りのカトラリーは共通しているらしい。
肉を切って口にすると「ブイエユ!!!ブイエユ・シュヴァ!!!」と感嘆の叫びをあげた。
「そんなに美味いか?」
『うん!!こんな柔らかくて美味しい肉は初めて……それに、ほのかな風味までついてる。高かったんじゃないの??』
「いや、むしろ安いぞ。安くて硬い輸入肉も、オリーブオイルでマリネして熟成させれば旨味が増えて柔らかくなる。保存も効くし、一石三鳥ってヤツだな」
『あなた、やっぱり料理人になった方がいいんじゃない??勿体ないわよ。……あ、このスープも美味しい』
あっという間に彼女の前の肉とスープ、それに米が消えていく。見かけによらず大食いなのだろうか。
思い起こせば昼も結構な量を食べていた。食費はできるだけ削る方向でやってきたが、これからはそうもいかなくなるかもしれないな。
一通り食べ終えると、ノアが『満足……』と幸せそうにお腹を撫でていた。なかなかかわいらしい表情に、こちらの顔も緩む。
『ごちそうさま。本当ありがとう。こんなに美味しいご飯、何年ぶりかしら……』
「イルシアにも美味いものはあるだろう」
ノアの表情が僅かに曇る。
『モリファスとの戦争が始まった3年ぐらい前から、備蓄は切り詰めてたから……皆、栄養を得るための『仙丹餅』ばかり食べてる。マズいわけじゃないけど、ちゃんとした食事らしい食事なんてほとんどできてないわ』
「……そうか……悪かった」
『いいの。それに、戦争が始まる前を考えても、こんな料理は食べたことがなかったわ。メジアじゃ大体食材を焼くか煮るかだけ。エビアはかなり文明が発達してるから、美味しい料理があるらしいって聞いたけど』
「エビア……大陸の名前か何かか」
『ええ。イルシアやモリファスがあるのがメジア。でもちゃんとした国はそう多くはなくて、北方のカルディナが割と大きいぐらい。
東方に『エネフの大穴』があって、さらに遥か東にエビアがある。海が荒れやすい北方航路を使わないと行けないけど、随分豊かな大陸って聞いた。母様はイルシアに残って、エビアに支援を頼みに行ってるはず』
「母親……『大魔導師』とか言われてる人か」
小さくノアが頷いた。
『あたしたちが戻るまでの間、母様がエビアの力を借りてモリファスに対抗してくれてるはずなの。もしメドが立ったら、母様もこちらに来る手はずになってるわ。
……ただ、それにどのぐらいの時間が必要なのかは分からない。数カ月先なのか、1年先なのか、それとももっとか……』
「……それまでは、耐え抜かないといけないわけだな」
『……うん。あるいは、『死病』対策がこっちの世界でできて、戻っても大丈夫になればいいんだけど……』
科学技術のレベルでは、多分こちらの世界の方が遥かに上なのは見当がついた。ただ、未知の病気への対抗策はそう簡単には見つかりそうもない。
モリファス帝国とやらに対抗する軍事力にしてもそうだ。武器のレベルはまず間違いなくこちらが上だ。ただ、魔法による攻撃にどう対抗するのかは見えてこない。どちらにせよ、もし仮に日本政府の協力が得られたとしても年単位でかかりそうだった。
「まずは、政府の協力を得ることだな」
俺は時計を見上げる。時刻は9時半を回ろうとしていた。
俺はスマホを手に取る。実は、ノアが寝入った頃に一度綿貫に電話をしていた。ただ奴は電話に出なかった。留守番電話にメッセージは入れたが、コールバックはない。
国会議員が多忙な職業であるのは知っている。それだけにある程度覚悟はしていたが、連絡がつかないとなると焦りが出てくる。夜遅いが、もう一度電話を掛けるべきだろうか。
その時、俺のスマホが震えた。急いで通話のアイコンをタップする。
「もしもし」
「町田か!!随分と久しいな、身体は治ったか!?」
思わずスマホを耳から遠ざける。相変わらず、無駄に大きい声だ。
この男こそが綿貫恭平——イルシアの将来を握る、鍵となる男だ。
序章 完