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「母さん、美味しい?」
コンソメと卵で味付けしたオートミールを、母の口に運ぶ。彼女は無表情で、スプーンを咥えた。反応は、当然のようにない。
母の認知症は、一人では食事がとれないほどに進行している。そのうち寝たきりになっても全くおかしくないだろうと、デイサービスの職員の人は言っていた。
アルツハイマーを治す薬は、あるにはある。ただその薬「レマネカブ」の適用対象は、症状が早期の人に現状限られている。母のように相当進行してしまった患者には処方されないのだ。
何より年間の自己負担は14万円と高価だ。前職時代の貯えがあるとはいえ、正直に言って厳しい。市役所勤めでは、貯金を切り崩しながら母をデイサービスに通わせるのが精一杯だった。
私は天井を見上げた。あのイルシアの人たちなら治せるのだろうか。トモと一緒にいるあの娘に訊けば分かるのだろうけど、不思議とそうする気は起きなかった。嫉妬?……いや、多分違う。
私は恐れているのだ。母がもし治ったなら、彼女は私にどんな言葉を投げかけるのだろう。その時の母の感情に、私は耐えられるのだろうか。
母は決して気性の激しい人ではなかった。ただ、ずっと貯め込んでいただけだったのかもしれない。一人でいることの孤独と、自分しか見えていなかった私への怒りを押し殺し続けていた結果がこうだったのかもしれない。
だとしたら、治ったとしてもそれはいい結果を生まないのではないか。剥き出しの怒りや悪意に耐えられるほど、私は強くない。それが肉親によるものなら、なおさらだ。
私は首を強く振る。……どこまでも自分本位な自分が嫌になる。結局、私は「母のいない人生」を望んでいるだけじゃないか。
時計を見ると、そろそろデイサービスのマイクロバスが迎えに来る頃合いだった。母をデイサービスに預け、仕事に打ち込んでいる間は嫌なことを忘れられる。これまでは、そう思っていた。
だが、今はそういう状況じゃない。イルシアを巡る一連の出来事は、正直に言って私の手に負えなくなりつつあった。
市の上層部は、イルシア周辺での水道使用量の急増に疑念を持ちつつある。その開通を主導した私に対する圧力は、いよいよ高まって来ていた。
そして、大府集落からの苦情だ。綿貫代議士による食糧供給で大型トラックが大府集落を通ったことは、少なからず彼らの動揺を誘ったらしい。
集落の人々は、かつて西部開発の「ファンタジーランド」開発計画に強固に反対していた。その再開が彼らの許可を得ず行われているのではと怒っている住民も何人かいるようだった。今日は、まずその対応をしなければいけない。どこまでイルシアの存在を隠せるものだろうか。
誰かに助けを求めたかった。しかし、そのあてはない。
トモは日本に来ているらしいイルシアへの追っ手対策で手一杯らしく、市役所には来れないという。綿貫代議士も、イルシアの人々が「魔力不足」に陥らないようにするために奔走しているらしい。
彼らが頑張っているのはよく分かる。必死にならないと日本がマズいことになるのも、多分確かなんだろう。
ただ、私にとって大事なのは、日本よりもこの町のことだ。地域の平穏のために何ができるのかを、私は考え続けなきゃいけない。それが市役所職員としての職務なのだ。
問題は、もう私一人では限界だということだった。
「……もう、無理だよ……」
思わず弱音がこぼれた。目に熱いものが溢れそうになる。
その時、電話が鳴った。……大河内代議士?こんな朝に、何の用だろう。
「……もしもし」
「大河内です。少し、時間頂けますか」
声に緊張感がある。何かあったのだとすぐに察し、目を拭った。
「はい。何か緊急の用件が」
「ええ。ごく近いうちに、イルシアの存在を明かそうと考えています。少なくとも、市関係者と周辺の住民には」
「どういうことなんですか」
イルシアの存在は、極力秘匿するという方向になっていたはずだ。少なくとも、トモと綿貫代議士はその考えだ。彼の言っていることとは、真っ向から食い違う。
大河内代議士は「手短に言います」と早口で告げた。
「あの一帯が、本当に疫病の震源地になりかねないからです」
「……え?」
トモは政府のトップの認識を書き換えることで、あの辺りで伝染病が発生したということにしようとしていた。そうすることで大府集落周辺は「災害対策基本法」の対象となり、周辺から隔離することができるようになる。
もちろん、それでもいつまでもイルシアを世間から隠してはおけないだろう。ただ十分な時間稼ぎにはなる。本当にできるのかどうかは分からないけど、理屈は理解できていた。
それが本当のことになりそうだなんて……一気に鼓動が速くなった。
大河内代議士は話を続ける。
「詳しい説明は後にしますが、要は彼らが住むにはこの世界は厳しすぎたということです。最悪の事態を回避できるよう綿貫君も動いていますが、もはやいつ時限爆弾が炸裂してもおかしくはない。
だから、そうなる前に政府と秩父市を動かさなないといけない。私も浅尾副総理に先ほどその旨を伝えたところです」
「え、疫病って……そんなに酷いものなんですか」
「私も詳しくは。ただ、イルシアの人々が異世界から転移してきた理由である『死病』が、彼らにも発症しかねない状況だとだけ言っておきます。幸い、まだ死病の発症者は『イルシアでは』確認されていません。だからこそ、その前に手を打たねばならない。
これから、私もそちらに向かいます。貴女一人ではどうにもならないでしょう?市長との直接交渉は、私がやります」
……事態が相当切迫しているのは、気持ち早口になっている大河内代議士の声色で分かった。トモたちは、このことを知っているのだろうか。
「トモ……町田さんたちには、連絡した方が」
「……やめておきましょう。彼らは、間違いなく反対するでしょうから。それに、もう手段を選んでいられる余裕はない」
「えっ」
「異世界からの来訪者たちの対応は、ひとまず彼らに任せましょう。公安を軸としたプロジェクトチームが、今日か明日にも召集されるはずです。彼らにはそこに入ってもらう。『魔法』への対応策は、あのノアって子しかできないことですから。
一方で、イルシア一帯の管理は私たちがやらねばならない。一地域住民に過ぎない彼には、もはや手に負えない状況なのです。ここから先は、我々『プロ』の仕事だ」
そうか。トモがいかに頭がキレると言っても、所詮行政や政治については素人だ。大河内代議士は、そこに口出しするなと言っているのだ。
「いつ、こちらに来られるのですか」
「今移動中です。多分、1時間もしないうちに市役所に着くでしょう」
よく聞くと、車のエンジン音がスマホ越しに聞こえる。私の心に、少しだけだが落ち着きが戻ってきた。
大河内代議士のことを完全に信頼しているわけじゃない。ただ、彼が味方になってくれるという事実は、折れそうになっていた私にとって心強いものだった。
「分かりました。よろしくお願いします」
スマホを切ったところで、家の前に車が停まるのが見えた。デイサービスのマイクロバスだ。
「母さん、来たよ」
母がゆっくりと立ち上がった。いつもは車が来ると少し面倒そうにするのに、そこに微かな違和感をおぼえた。きっと気のせいだろうと、その時の私は思ったのだ。
*
この時私が感じた違和感が表面化するのは、もう少し先のことだ。




