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俺——大河内尊の朝は、朝5時から始まる。目覚ましなどかけずとも、ほぼその時間に目が覚める。体内時計は常に正確だ。
まずすべきなのは、米国や欧州発のニュースチェックだ。PCを開くと、ブルームバーグやロイター、そして国内の主要メディアのニュースをまとめたショートレターが何通も届いている。多くの場合は見出しだけ確認し、重要な物があれば都度対応する。
30分以上、ニュースチェックに時間をかけないのが俺の流儀だ。一通り目を通したら、すぐに朝食の準備に取り掛かる。食パンと自家製スムージーというのがルーティーンだ。
この日も俺はいつも通りに日課をこなした。気になるニュースは、今のところない。イルシアのことを誰かが勘付いた気配もなかった。そのことに少しだけ安堵する。
俺はスムージーをグラスに注ぎながら、今日これからどう立ち回るかを考えていた。事態は急速に動き始めている。新たな異世界からの来訪者、そして暴走し始めたペルジュードに、イルシアにおける一大伝染病への懸念。これをどう浅尾の「親父」に報告するか。そして、「親父」がこれらをどう判断するか。正直、現状では読みにくい。
綿貫が「田園調布の魔女」に接触したことも驚きだった。いや、厳密にはそこから生還したことが驚きなのだが。
彼が彼女に辿り着いたこと自体は驚きではない。日本政府の歴代のトップと、その候補生たちは皆「田園調布詣で」をやっている。彼の父、綿貫信平もその一人だ。綿貫は、大方父親が遺した何かから彼女の存在を知ったのだろう。
だが、全ての候補生が気に入られるわけではない。あの女は「暴君」だ。
彼女に政治的野心はないが、しかし身の危険には人一倍敏感でもある。綿貫信平がコロナに対する大幅な規制緩和を打ち出した際、あの女は彼を「殺した」と聞いている。自分の意見に同意しない人間は、そうやって何人も殺してきたらしい。
だから、俺はあの女を恐れていた。そして、綿貫にも彼女の存在を教えなかった。教えたら必ず向かうだろうし、そしてそこで彼が殺される可能性は高いと思えたからだ。
だから、彼から昨晩の報告を受けた時、困惑以上に安堵が勝った。綿貫が俺を100%信用していないことは分かっていた。というよりこの政治家という商売において、人を100%信頼するような奴は長生きできない。だから、俺は彼を咎めなかった。俺が彼の立場なら、やはり報告などしなかっただろう。
問題は、彼が報告した内容だ。「田園調布の魔女」——メリア・スプリンガルドが異世界に帰りたがっているというのは初耳だった。あるいは、とうに諦めていた想いが復活でもしたのかもしれない。
だが、日本政府には彼女を頼る人間が少なくない。コロナの流行が他国に比べてそこまで酷くならなかったことや、東日本大震災において福島第一原発の火災・爆発に伴う放射能汚染が東京などまで広がらなかったのには理由がある。彼女が自分の身を守るための「結界」を張っていたからだ。
彼女が異世界に帰るとなれば、パニックに陥る長老は少なくないだろう。浅尾の「親父」すらそうかもしれない。
そして、そのために彼女を動けるような状態にしてほしいというのはさらに厄介だった。あの女はイカれている。少なくとも、俺たちの命など虫けらのようにしか思っていない。
行動の過程で、気まぐれに人を殺し始める様なことがないとは言えなかった。いや、むしろあの女ならやりかねない。イルシアもペルジュードも大いに不穏分子だが、「自由に動けるようになったメリア・スプリンガルド」もまたそれに匹敵するほど危険な存在だ。公安の岩倉とも、もう一度ちゃんと話し合わないといけない。
物思いにふけっているうちに、あっという間に朝の食事は終わった。今日のスケジュールを脳内でもう一度反芻する。
まずは秩父に向かう。そろそろ、イルシアの存在を明かすための準備に入らねばならない。いつまでも存在を秘匿し続けることは不可能だ。極力ゆっくりと、世論に動揺を与えない形で情報を小出しにする必要があった。
そのためには秩父市との調整が不可欠だ。イルシアのある大府集落一帯を「緊急避難地域」に指定するには、ハードルが幾つもある。
綿貫の情報を信じるのであれば、あの辺りはいつ疫病の震源地になってもおかしくないらしい。問題は「まだ発生していない伝染病をどう説明するのか」だ。そもそも、向こうに物分かりのいい役人がいるのかどうか。
頼りになるかもしれないのは、山下睦月という女だ。彼女はなかなか悪くはない。田舎の市役所に置いておくには、あまりに勿体ない人材だ。ビジネスパーソンとしても、そして一人の女性としても。
俺はコーヒーメーカーに粉を入れながら苦笑した。単に利用してやるだけのつもりだったのだがな。
山下の人となりを、俺はまだ知らない。ただ、直感的に「この女はものにしたい」とは思った。女遊びはやめるように浅尾の「親父」に言われたのだが、どうにも本能には逆らえないらしい。
実際、「閣僚になってからのスキャンダルだけは回避しろ」と浅尾の「親父」に言われ、これまで付き合っていた女とは片っ端から後腐れないように手を切っている最中だ。「親父」はその上で、将来のファーストレディに相応しい女をあてがうとも言っていた。甚だ不本意ではあるが、「上」を目指すなら仕方ないと割り切っていた。
そんな最中に現れたのが山下睦月だ。自分でも理性の弱さが嫌になるが、この直感には何かがあると思っていた。今までの経験上、この手の直感が外れたことはあまりない。
すぐに口説き落とせるとは思っていない。彼女が抱えている家庭の問題は、大方介護関連だろう。この手の面倒事は、金で解決できるものではない。
ただ、山下睦月という人間をもう少し知っておきたいという想いがあるのは確かだ。俺がこの案件に足をどっぷり踏み入れてしまった理由の一つは、確かにそこにある。
できあがったコーヒーをマグカップに注いだその時、不意にスマホが震えた。……電話?こんな早朝に?
ディスプレーには「岩倉」という名があった。嫌な予感がする。
「もしもし」
「尊、私だ。少し、時間いいか」
岩倉克実とは高校時代からの付き合いだ。彼は警察官僚の道を選び、俺は親の後を継いで総務官僚から政治家になった。道は違えたが、信頼できる数少ない友人の一人ではある。
「ああ。緊急事態か」
「ペルジュードに動きがあった。少なくとも、アジトはほぼ分かった」
「……本当か?」
「ああ。東池袋、木村会系列のフロント企業が保有するマンションだ。今日の深夜、タクシーがそこで停まるのをうちの連中が見た。確信は持てないが、時間帯的にかなり不自然だから可能性は高い」
俺は内心ほっとした。懸案事項があまりに増えていただけに、一つでも解決に向かってくれるならそれに越したことはない。
「大分前進したな。後は囲い込んで逃げ場をなくした上で確保か?」
「そうもいかない。イルシアのノアって子の情報からして、下手に動くと犠牲者が大勢出る。部屋を特定したうえで、SWATを動かすしかないがそれには準備が要る。
『異世界』からのもう一人の来訪者に協力を貰えないか検討中だ。町田君が言うには、彼は連中の所に行ってたらしい」
「……本当に信頼できるのか、そいつは」
「町田君が言うには、嘘はついてないらしい。とりあえず、そこはこれから交渉だな」
岩倉が一拍置いた。
「……問題はここからだ。ペルジュードの協力者は、木村会だけじゃないかもしれない」
「どういうことだ?」
「昨日の昼、木村会の若頭、高島が首都高でドライバーを射殺した上で自殺したって話は知ってるな。あれは多分、ペルジュードの連中が『魔法』でやったと思ってる。つまり、木村会がいつまでも彼らを匿っているとは考えにくい」
俺は少しだけ考えた。……まさか。
「昨日深夜にタクシーで移動した理由は、もう一人の協力者に会うためか」
「私はそう踏んでいる。タクシーを特定したいところだが、会社までしか分からない。多分、少し時間がかかる」
「そうなると、監視体制を強めて連中がその『もう一人の協力者』の所に行くのを見定める形か」
「ああ。とりあえず絶対に避けなきゃいけないのは、連中の暴発だ。あのノアって子の言う通りなら、もし事を構えるとなると死者は数人どころじゃ済まない」
気持ちを落ち着けるために、俺はコーヒーを口にした。目覚めが良くなるように濃い目に作ったその苦みで、何とか感情を抑えることができた。
「……そこまでか」
「リーダーのべルディアって男は、向こうの世界でたった一人で数百人を殺したらしい。日本で同じことをされたら……」
間違いなく、世論はパニックになるだろう。そして、イルシアの存在をひた隠しにしてきた民自党の支持率はさらに落ちる。次の衆院選では大敗必至だろう。政権を失う可能性も相当高い。
そして、イルシアに関わっている俺の政治生命も終わりだ。そうならないようにするためには、今日中に浅尾の「親父」と話を付け、かつイルシアの存在を明らかにする道筋を付けないといけない。
イルシアの存在が明らかになれば、ペルジュードの連中も迂闊には動けなくなる。綿貫や町田には悪いが、そろそろ頃合いだ。ゆっくり情報を小出しにする余裕は、もはやなくなった。
「……分かった。至急手を打つ」
俺は電話を切り、もう一度コーヒーを口にした。長い一日になりそうだ。




