4-11
「残り1分!!」
深夜のジムに声が響く。僕はサンドバッグを叩く手に、さらに力を込めた。
サンドバッグ打ちは、ただ闇雲に打てばいいというものじゃない。身体を置く位置、パンチの角度、そして脳内で再現した相手のパンチの軌道を全て考慮に入れた上でやらないと練習にはならない。
サウナスーツの下の汗がさらに噴き出すのが分かった。減量はいよいよ仕上げの段階に来ている。試合前2週間でリミットまでの残り体重は3キロ。計量直前に水を抜くことを考えれば上々といえた。
サンドバッグが激しく揺れる。360度、その周囲をステップを使って動き回りながらジャブとフック、アッパーにストレートを叩き込んでいく。
「ビー」とブザーが鳴ると僕は大きく深呼吸をした。息の乱れはほとんどない。小橋会長が手を叩きながら近づいてくる。
「瞬、いいキレだ。今日はそろそろ上がろう」
「最後にクールダウンのシャドー、やらせてもらえますか。そのあとストレッチして今日は終えます」
「全く……『爆弾』ジャレン・ジャクソン相手だから気を張ってるのは分かるが、オーバーワークだけは禁物だぞ?慎重なお前のことだから、そんなに心配はしてないが……。時差ボケ対策の深夜トレーニングも、ほどほどにな」
「ありがとうございます。分かってます」
試合はラスベガスで行われる。アメリカでの試合はもう4試合目になるが、いまだに慣れない。少しでもアジャストできるように、色々な工夫はしている。時差ボケ対策の深夜トレーニングはその1つだ。早いうちにアメリカ時間に身体を慣らしておくのが狙いだ。
今日で2日目になるが、昼夜逆転の生活は流石に堪える。まだマスコミ対応もしなければならない時期だ。僕はもう一度深く息をついた。
その時、「ピンポン」と来客を示すチャイムが鳴った。スタッフ一同、顔を見合わせる。こんな時間に来客か?
「誰かウーバーか何か頼んだのか?」
「いえ、そんなことは……悪戯か何かでしょう」
メディカルスタッフの一宮さんがインターフォンを確認しに行った。彼とは僕がジムに入った10年前からの付き合いだ。現役時代は東大医学部卒ボクサーとして知られていた。今では医師免許を生かして、僕ら小橋ジムのボクサーのサポートを行っている。
その一宮さんの表情が、インターフォンを見た瞬間に固まった。
「……ちょっと待ってくれよ」
「どうかしました?」
「一輝だ。一輝が来ている」
「何ですって??」
僕と会長もインターフォンへと向かう。そんな馬鹿な!?
インターフォンのディスプレイには、短髪に鋭い目つきの男がいた。額にわずかに残る傷跡も込みで、確かに兄さんのように見える。
「馬鹿な……一輝とは5年前から連絡が付かなかったのに」
会長が啞然とした様子で言う。兄さんは自衛隊に入る前に、このジムにいたことがあった。兄さんがボクシングを選ばないと告げた時、会長は僕以上に残念がっていたのを思い出す。
兄さんは僕より遙かに強くて、才能があった。僕と違ってアマチュアには進まなかったけど、小橋ジムの誰よりも強かった。当時世界挑戦を前にした一宮さんすら子供扱いにしていたのを思い出す。勿論、僕が勝ったことはない。
会長の視線が僕に向いた。その額には冷や汗が流れている。
「瞬、お前のところに連絡は??」
「……ないです。本当に」
そう、兄さんとは全く連絡を取ってなかった。兄さんが自衛隊を辞める時、あの人は「兄弟の縁を切る」と僕に言っていた。僕のためにならないからだ、というのが言い分だった。
兄さんは僕と違って、ボクシングという競技自体にそれほど関心のない人だった。強さは求めていたけど、その強さを誰かのために生かしたいという人だった。だから、自衛隊を辞めて傭兵になりたいと聞いたときも、それほど驚かなかった。ボクシングでは、直接人は救えないのだ。
そして、僕との縁を切る意味もよく分かっていた。人殺しが身内にいる世界王者なんて、いてはならないからだ。だからこそ、僕は別れを受け入れた……そのはずだった。
「出るか?一輝のふりをした、偽者かもしれない」
会長の言葉に、僕は躊躇った。兄さんは意志の強い人だった。何かあったからといって、その言葉を曲げるような人じゃない。「2度と会わない」と言ったら、必ずそうする。それが猪狩一輝という人間だ。
だから、ここにいるのは兄さんでない可能性が高い。というより、兄さんであるはずがない。
ただ、モニター越しに見えるのは間違いなく兄さんの顔だった。特殊メイクか何かなのだろうか?いや、そんなことまでして深夜に僕らのところに来る人間がいるだろうか。
人の恨みを買った覚えはない。嫉妬ならいくらでもされているだろうけど、襲撃するにしてもこんな正面から来るだろうか。
数秒考えた結果、僕は「通話」のボタンを押した。
「もしもし」
「私だ。猪狩一輝だ」
ドクン、と心臓の音が聞こえた。一人称に「私」を使うのが、兄さんの癖だった。特に、震災で僕ら兄弟が全てを失ってからは。
「兄さん」が話を続ける。
「声が違うのはすまない、一度上げてはくれないだろうか。ここまで誰か来る形でもいい」
……確かに声が違う。僕の記憶の中にある兄さんの声は、もう少し高かった。僕は警戒レベルを高め、返事を返す。
「本当に、兄さんなのか」
「瞬か。……すまない、迷惑をかけるつもりはない。すぐに終わる話だ。
多分、メディカルの一宮さんがいるはずだ。正味な話、彼だけでもいい。診てもらいたい人物がいる」
一宮さんの方を見ると、驚きで目を見開いている。
「噓だろ……!?どうして俺の名を」
この自称「猪狩一輝」は、確かに一宮さんを知っているようだった。一宮さんはそこまで一般には知られてない。ボクシングに余程詳しい人でなければ、彼の名前は出てこないはずだ。
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。まさか……
モニターの向こうの人物は話を続ける。
「信じてもらえなければ鍵を『消す』しかない。だが、荒っぽい真似はしたくない。頼むから開けてくれ、人一人の命がかかってるんだっ」
張り詰めたような声色だ。この人物が本当に兄さんなのかどうかは分からない。ただ、何か切羽詰まった状況にあるのは分かる。そういう状況にある人を見捨てるなど、僕にはできない。
「会長、開けましょう」
「は??正気か??」
「この人が兄さんかは分かりません。ただ、噓を言っているようには見えない」
会長はしばらく無言で僕を見て、大きな溜息をついた
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
マスクをつけ、一宮さんを連れてエレベーターで下へと降りる。試合前に体調を崩すことだけは、絶対に避けなければならない。ジム以外でのマスクの着用は、絶対だ。
通用口へと向かうと、果たして「猪狩一輝」はそこにいた。記憶にあるより、ほんの少しだけだが「兄さん」は大きく見える。
「瞬、久しぶりだな。それに、一宮さんも」
「……本当に、兄さんなのか?」
「兄さん」は小さく頷いた。「兄さん」の後ろに、誰か倒れている人がいる。女の人だ。その傍らで、若い男が何かを必死で呼びかけている。
「人の命がかかってるって、あの女の人?」
「ああ。一宮さん、よろしくお願いします」
「兄さん」が深々と頭を下げる。一宮さんは「ちょっと諸々持ってくる」と一度エレベーターの方に戻っていった。
「彼らは?」
「私の部下だ。詳しくは詮索しないでくれ」
「ウクライナから日本に来たわけじゃないのか?」
『違うっ!!』と脳内に直接声が響いた。「兄さん」は「ラヴァリッ!!」と一喝する。……今のは、一体。
「すまない、部下が失礼した。とにかく、迷惑をかけるつもりは本当にないんだ。彼女を助けてくれれば、ひとまずはそれでいい」
「助けるって……病気なのか」
「ああ。放っておけば、致命的なことになる。彼女だけじゃなく、その周りも」
「……まさか、コロナ?」
「兄さん」は首を振った。
「いや、もっとタチの悪い病気だ。コロナとは比較にならないほど、酷い事態を起こしかねないヤツだ。ただ、『今はまだ』人に伝染るような状態じゃない。そこは安心して欲しい」
恐る恐る女性へと近付く。茶色の髪をボブカットにした、なかなかかわいらしい女性だ。年齢は20ぐらいだろうか。どことなくだが、東欧系にいるような顔立ちに見える。
意識レベルは多分低い。この熱帯夜ということもあるのだろうが、酷い汗だ。傍らの男性が、僕の方を見た。
『あんたが、隊長の弟か』
また言葉が脳内に流れ込んできた。この男の喋っている言葉は、全く理解できないはずなのに。
「兄さん」が険しい表情で男を見た。何か知らない言語で彼に告げると、しょげた様子でうなだれる。何かしかったのだろうと、僕は察した。
「今のは?」
「忘れろ、気のせいだ」
いや、気のせいなんかじゃない。確かに、僕はこの男が何を話しているのかを「理解できた」。これは一体、何なんだ。
一宮さんがバッグを抱えてやってきた。女性の傍らにしゃがみ、脈を取る。たちまち表情が厳しいものに変わった。
「まずいな」
「そんなにですか」
「熱が高すぎる。ちょっとここじゃ対応できないから、ビルの中に入れよう。咳とかは?」
「兄さん」は「ないです」と短く答えた。頷くと、一宮さんは体温計と血圧計がセットになった器具を女性の手首に取り付け、パルスオキシメーターを中指に付けた。
しばらくして一宮さんは僕の方を見た。
「急ぎ救急車を。すぐにでも処置しないとまずい」
その時、「兄さん」は「それだけはやめてください」と頭を下げた。
「普通の病院には入院できない人間なんです。理由は言えません。ただ、それだけはどうか」
「いや、一刻一秒を争う容態だぞ??熱は40度後半、高熱に伴う意識障害とショック症状まで起こり始めてる。急ぎ点滴を……」
「応急措置ができるぐらいの薬や器具は持っているんじゃないですか?減量失敗に伴う熱中症や脱水症状対策を、あなたなら常に用意しているはず」
「……そうだ。だが、はっきり言ってその場凌ぎだぞ。高熱の原因がどこにあるかは知らないが、絶対に入院させてるべきだ。然るべき医療を受けさせないとこの子は死ぬぞ??」
「分かってます。ただ、秘密厳守で入院ができる病院はご存じなのでは?」
「兄さん」はじっと一宮さんを見た。その通りだった。大手ジムなら、有力選手の怪我の治療をマスコミなどから悟らせないようにするため、口の堅い医者を何人か押さえている。小橋ジムもその例外ではない。そのことを、「兄さん」は知っているのだ。
「……本当に、お前は一輝なんだな」
「だからそう言ってます。彼女を、助けてやってください。どうか」
深々と頭を下げる「兄さん」に、一宮さんは「分かったよ」と告げた。そして、点滴用の簡易ポールを組み立て始める。
「助けられる保証はない。ただ、ひとまず熱中症に準じた対策をとる。瞬、会長に言ってありったけの氷を準備させてくれ。電解質と栄養素の補給、それと念のために強心剤も少し打っておく。バイタルからして、心臓の機能も危うい」
「分かりましたっ」
僕はエレベーターへと向かう。振り向くと、「兄さん」は女性の手を握って何か言っていた。日本語でも英語でもない、何かの言語で。
*
「では、これにて失礼します」
プレシアという女性の処置が一通り終わり、「兄さん」は部下の男と一緒にジムを後にすることになった。何でも、別の場所にいる部下に報告しに行かねばならないらしい。
「一輝、お前これまで……」
会長の言葉に、「兄さん」は「それは無用です」と制した。
「私が何をしていたか、何をしようとしているのかは訊かないでください。あなたや瞬に迷惑をかけたくはない。
勿論、警察にも他言無用です。……心配しないでください。すぐに、用は済ませますから」
「あの娘はどうするつもりだ」
「入院先が決まったらメールか何かで教えてください。回復することを祈るだけです」
プレシアという女性の熱はひとまず38度ぐらいまでは下がった。予断は許さないらしいが、「熱と脱水症状だけは何とかなりそうだ」と一宮さんは言っていた。
「意識が戻ったらこれを渡してほしい」と、「兄さん」はメモらしきものを僕に渡した。チラリとみたが、全く理解できない文字が並んでいる。僕は言語学には全く疎いが、これが英語でもロシア語でもないことだけは分かった。アラビア文字に近いと言えば近い。
「兄さん」が会長の方を向く。
「それと、2~3泊できるホテルかマンションを紹介してもらえますか。海外のスパーパートナーが宿泊するための、ごく安いやつで構いません」
「……構わないが。まさか、犯罪絡みじゃないよな」
会長は兄さんが自衛隊を辞めた後にヤクザのボディーガードのようなことをしていたのを知っている。勿論、傭兵としてウクライナに渡ったこともだ。
今目の前にいる「兄さん」がもし本物だとしても、そういった闇の世界に関わっていない保証は確かになかった。
「兄さん」は「それはないです」と首を振った。
「全てが終わったら、速やかに消えます。そして、今度こそ2度と会うことはないでしょう。あなたや瞬が、醜聞に巻き込まれることもない」
「……だといいが」
会長の表情は不安そうだ。僕もまた、この「兄さん」の言うことを信じきれないでいる。
あのラヴァリという男といい、見知らぬ言語といい、何かがおかしい。直感だけど、何かがとても不自然な気がした。
タクシーがやってきた。「兄さん」はそれに乗り込む。
「では、また。瞬、ジャレン・ジャクソン戦頑張れよ」
「兄さん」たちを乗せた車は、横浜の深夜の街へと消えていった。
第4章 完




