序章5
俺は応接間のような部屋に通された。電気は通っていないはずだが、薄っすらと光っているように見える。室温も外の酷暑からすれば過ごしやすい。魔法か何かを使っているのだろうか。
ゴイルがソファに座るよう促した。メイドが一礼して去ると、俺の隣にノアが座った。
『客人。名は確か……』
「町田です。町田智弘」
『マチダか。まず、ノア・アルシエルの命を救ってくれたこと、心より御礼申し上げる。彼女はイルシアになくてはならぬ人物だ。彼女がいなければ、儂らの転移はなされなかったからな』
深々と頭を下げられ、俺はやや当惑する。ノアはそこまでの重要人物だったのか。
「い、いえ。倒れている人間を見たら、助けるのが当然ですから」
『いや、無用な騒ぎを避けてくれたことも込みで御礼申し上げている。儂らが転移したこの場所は異世界と聞いた。異物を排除せんとするのは、人の心の道理だ。もしお主が領主にノアの処遇を丸投げしていたら、イルシアの安寧はまずあり得なかった。
そして、ここの魔素は極度に薄い。一騎当千の兵揃いのイルシア近衛騎士団と言えど、十全な働きはできないだろう。戦は極力避けたいのだ』
「魔素?」と口にすると、ノアが『魔法を使うのに必要な元素よ』と耳打ちした。そんなものがこの世にあるとは初耳だ。
ノアがゴイルの方を向く。
『ゴイル様、この者……マチダは我らがイルシアを守るに足る人物を知っていると言っております。話を聞いてはもらえぬでしょうか』
『ノア、お主ほどの魔女が心を許すというのは、余程『勘』が働いたのだろうな。それを疑いはせぬ。
しかし、さりとて確証までは持てぬ。マチダよ、お主の考えを明かすがいい』
メイドがポットとティーカップの乗った盆を持って入ってきた。無言でお茶を注ぐと、甘い花のような香りが部屋に漂う。最上級のダージリンでも、ここまで香りが強いものはない。
口にすると、実際にかなり甘い。緊張で心が落ち着かなかったが、少し一服できた。
俺はポケットのスマホを取り出す。2人が怪訝そうな顔になった。
『これは?』
「スマートフォンというものです。これ一つで色々なことができる」
YouTubeで奴の名前を検索すると、奴のオンラインチャンネルが見つかった。街頭演説の様子が入った動画をタップする。
『魔道具の一種か??この板の中で、誰かが映っているが……』
「過去の映像を録画したものを登録した動画を再生してます。これらは以前にあったことと考えて結構です。
この中央、人々に囲まれている眼鏡の男が私の友人『綿貫恭平』です。川越という比較的大きな街を地盤として活動している政治家です」
『……実に珍妙な……御柱様の部屋にも『千里眼』はあるが……いや、しかし……』
衝撃を受けているのかぶつぶつ呟いているゴイルの代わりに、ノアが俺を見上げて訊いた。動画は握手攻めに遭っている綿貫の姿を映し出している。
『確かに多くの人に慕われているようだけど……この人なら、あたしたちを守ってくれるわけ?』
「可能性はある。新人政治家だが、既に知名度は結構なものだと思う。メディア戦略に長けてる奴なんだ。
金は持ってるし、国の最上部の政治家ともコネはある。性格にちょっと難はあるが……」
『本当に信頼できるの?』
「……できる、とは言い切れない。出世欲の強い男だから、そのためなら君たちを平気で売るかもしれない。
だが、そこは俺が止める。何より、俺が奴に与えられるものの大きさを考えたら、奴は多分俺を裏切れない」
『……どういうこと?』
俺はもう一度茶に口を付けた。
「日本におけるイルシアの権益を、奴に独占させる。その代わり、その統制は俺がやる。絶対に、綿貫の好き勝手にはさせない」
ノアが唖然とした様子で俺を見た。ゴイルもようやく正気に戻ったのか『何を馬鹿なことを……』と微かな怒りをにじませながら口にした。
当然の反応だ。イルシアを好き勝手にさせるなんて、彼らが許すはずもない。
だが、俺には成算があった。「落ち着いて聞いてください」と説明を続ける。
「まず、前提としてこの国の行政は極めて高度で厳密であり、かつ精緻です。基本的に、あなたたちの存在を隠し通すことは極めて難しい。それがたった数日であっても、です。
そして、あなたたちの存在を知られたら最後、その情報は同時に全世界に伝達されるでしょう。全ての情報は、これを通して瞬時に拡散されるからです」
ポンとスマホを叩く。ゴイルが食い入るようにスマホを見た。
「そして、拡散されればあなたたちは未知の存在として珍しがられ、恐れられ、調べ尽くされるでしょう。あなたたちの持つ魔法の力を手に入れようと、海外からここに忍び込もうとする輩が出るかもしれない。いや、あるいは征服までしようとするかもしれない。
要は、下手に知られればその瞬間にあなたたちの平穏は破壊されるのです。それも、恐らくは半永久的に」
『ではどうすればいいのだ??お主とワタヌキとやらなら、それを守ることができるとでも??』
コクン、と俺は首を縦に振った。
「この場所は、基本的にほとんど人が寄り付かない場所です。月に2回ぐらいここの地権者が様子を見に来るらしいですが、結界が張られているうちは『外見上』普段通りの山に見えるから問題は少ないでしょう。問題は、いつまで結界の維持ができるかですが……」
ゴイルは少し考え、『もって3日だ』と答えた。そのぐらいあれば何とかなるかもしれない。
「結界を張っているのは」
『魔術師団だ。ただ、ここの魔素は極度に薄い。既に多くの団員が消耗しきっておる。補給なしでは、3日ももたぬ』
「逆に言えば、補給さえあればずっと結界は張れるということですか」
『然り。ただ、備蓄も数日分しかない。ここにいる約1000人の命は、このままだとすぐに尽きる。それを防ぐには、里に下りて協力を要請するか……極力避けたいが、略奪しかあるまい』
やはり。いよいよ綿貫の力が必要だ。
「……分かりました。それならば、綿貫を介して食料品と飲料を供給しましょう。奴なら、その程度のことはしてくれるはずです」
ノアが不安そうに俺を見た。
『でも、さっきすぐにあたしたちの存在はバレるって……』
「だから綿貫を使う。あの男は立身出世のためなら基本なんだってするんだ。それが合理的である限りにおいてはだけどな。
イルシア関連の権益を独占できるのであれば、奴は持てる全ての手段を使ってここの存在を隠し通そうとするはずだ。恐らくは、奴の上……民自党の有力者も動かすと思う。自衛隊を深夜にこちらにやって、補給を行わせるってこともできなくはない。
これは確信に近い推測なんだ。資源が乏しいこの日本にとって、イルシア――異世界の存在はかなりデカい。だから、国の上層部は情報を極力秘匿し、海外に情報が漏れないようにコントロールしようとするだろう。その限りにおいて、君たちの平穏は守られる。そのはずだ」
勿論、それでも彼らがモルモットのような扱いを受けることだけは避けさせなければいけない。それを防ぐには、イルシアと綿貫、ひいては日本国政府の間に誰かが立つ必要がある。
……それは多分、俺にしかできない役割だ。
プレッシャーを感じた俺は、それを紛らわせるために残りの茶を一気に飲み干す。
……病み上がりの俺にできることなのだろうか?
ゴイルがじっと俺の目を見てきた。まるで試すかのような目線だ。
『国を動かすということが、お主にできるのか?』
少しの間を置き、俺は強く頷く。
「……できなければあなたたちの存亡に関わります。やるしかありません。
具体的な交渉に入る前に、こちらからこの国と世界について簡単にご説明差し上げます。いいですか」
俺はスマホの電源が切れそうになるまで、ノアとゴイルに説明した。
*
これが、「イルシア皇国特使」としての、俺の初仕事になった。