3-5
家の前をトラックか何かが通り過ぎていく音がした。イルシアへの食糧搬送のトラックだろうか。
ひとまず、これでジュリたちが飢える心配は目先ではなくなった。ただ、それでも心配事は消えない。むしろ増えるばかりだ。そのせいで、僕はジュリと別れてから勉強がほとんど進んでいなかった。
「……さらなる追っ手、か」
僕は沈む気持ちを抑えられず呟いた。ジュリをはじめとしたイルシアの人たちを狙って、新たに誰かがここに差し向けられたらしい。
その正体はよく分からない。ただ、あのジュリの焦りようからして、とても良くないことが起きようとしている予感はした。
町田さんはペルジュードとかいう追っ手の部隊を捕まえるために東京へと向かったという。警察が全面的に協力してくれるというけど、大丈夫なのだろうか。
そこに持ってきて新たな誰かがここを狙うなら、これ以上イルシアの存在を隠し通すことなんてできないだろう。そうなった時、ジュリは、そして僕たちはどうなってしまうのか。
こんな時に「考えても仕方ないや」と楽観的に考えられたならどんなに楽だっただろう。ただ、生憎僕の性格は逆だった。不安が次から次へと出てくるから、それを徹底して潰しに行く。それは勉強の面では利点だったけど、こういう局面では自分を追い詰めるだけだった。本当に自分が嫌になる。
その時、エンジン音が家の前で止まった。来客だろうか。
下に降りると同時に、呼び鈴が鳴った。引き戸を開けると、そこには綿貫さんと、彼におぶわれているジュリがいた。顔は赤く、凄い量の汗が流れているのが僕にも分かった。
「市川君か、上がらせてもらっていいか?」
「な、何があったんです?」
「この子の様子がおかしい。頼れるのは君ぐらいしかいない」
祖母が「何だい何だい」と出てきた。綿貫さんは「少し失礼します」と二階へと上がっていく。
「あの男の人の背中にいたのは、ジュリちゃんじゃないかい?」
「ばあちゃんは一階にいて。用があったら呼ぶから」
先に上がっていた綿貫さんに僕の部屋を教えると、「お邪魔するよ」と入っていった。そしてベッドにジュリを寝かせる。
彼女の息は荒く、意識がもうろうとしているのがすぐに分かった。触ってみると、凄い熱だ。
「一体何があったんですか!?」
「搬送は予定通り進めていたはずだった。そして、最後の仕上げにトラックドライバーの認識をこの子——『御柱様』に頼んで『書き換える』手はずだった。
だが、一通り終わったらこの有様だ。ゴイルに聞いたら魔力不足で一刻の猶予もならないという。すぐに何とかしなければいけないと聞かされたんで、彼らの許可を得てここに運んできたというわけだ」
……午前に彼女は、僕に魔力を供給して欲しいと頼んでいた。それはつまり、そうしないとマズいと悟っていたからだったんだ。
どうする。……そんなの、決まってるじゃないか。
「……綿貫さん、少し、目をつぶっていてくれますか」
「何をするんだ?」
「彼女に、魔力を供給します。ただ、それを見られたくないんで」
「……分かった。終わったら声をかけてくれ」
僕は意を決してジュリを見る。高熱で何かよく分からない言葉をうわ言のように呟いている。「念話」を使っていないから、多分これは彼女がいるイルシアの言葉なんだろう。
顔を近づけると、彼女の熱を感じた。とんでもない高熱だ。解熱剤を本当は飲ませた方がいいのだろうけど、まずは魔力を与えないと。
唇を重ねる。でも多分これじゃダメだ。前に血を与えたように、体液――唾液を与えないといけない。午前中に彼女にそうされたように、舌を口の中に差し入れ、絡める。
「んくっ……!?」
「じゅっ……るるっ……ぷはっ!!」
唇を離すと、強烈な脱力感と快感がいっぺんに襲ってきた。思わず、その場で尻もちをつく。その衝撃で思わず達しそうになったけど、綿貫さんの存在を意識して何とか耐えられた。
「はあっ、はあっ……」
僕はぐったりとベッドに寄り掛かる。今度は激しい疲労感が押し寄せてきた。こんなのを毎回やってたら、正直しんどいどころじゃない。
気力を振り絞ってベッドに寝かせられたジュリを見ると、激しい息遣いが徐々に収まってきたようだった。
「わ、綿貫さん……いいですよ」
「終わったのか」
「え、ええ。多分、これでよかった、はずです」
「……それならいいんだが。君の方が大変そうじゃないのか」
「ぼ、僕はいいんです。そ、それにしても……こんなに消耗するなんて」
綿貫さんは寝ているジュリをのぞき込んで「参ったな」と呟いた。
「この世界で魔法を使うことがイルシアの人たちにとって負担になるらしいとは聞いてたが、ここまでとはな。というか、この子だけ消耗が激しすぎる」
「ジュリは本当に何でもできるみたいですから……午前中に一緒にいた時に、ちょっと無理をさせてしまったのかもしれないです。それもあったのかも」
綿貫さんは目を閉じて少しだけ黙った。そして「少しだけ話、いいか」と切り出す。
「何ですか」
「気が付いたことがある。イルシアの人々の消耗度合いだ。食糧を搬送していて気付いたんだが、あまり飢えていない人間と、限界近くまで疲弊した人間とで大きな差があった。貧富の差なのかと思ったが、どうもそうじゃないらしい。
魔法を使える人間ほど、概して消耗が激しい。僕たちが会ったイルシアの中核部分にいるゴイルらは見た目そうでもなかったが、彼らは『エリクシア』という魔力を補充する薬を飲んでいたらしい。魔力を多く使わねばいけない立場だから、優先的に使っていたそうだ」
「……ジュリは、魔力が膨大だからその分……」
「この子には『エリクシア』は意味がないんだそうだ。あまりに魔力が特殊で、かつ膨大だからとゴイルは言っていた。定期的に誰かから供給してもらわないといけない。彼女が君に接近したのは、そういうこともあるんだろう」
呼吸が穏やかになり、すうすうと寝入ったジュリを見た。彼女にそういう打算は感じなかったけど……本当の所、どうなんだろう。
「というか、その『エリクシア』という薬って、有限なんですよね」
「と聞いてる。食糧だけでなく、こっちのストックも問題ということが分かってきた。ただ、食糧の量さえ確保できれば、そこから魔力は得られるとも言ってたけどな」
綿貫さんの表情が冴えない。何か、別に深刻なことがあったと僕は察した。
「……本当にそうなんですか?」
「……何が言いたいんだ」
「食糧が山ほどあれば解決するような、単純な問題じゃないという感じがしました」
「なかなか鋭いな」と綿貫さんが乾いた作り笑いを浮かべた。
「そう、その通りだ。それで僕も今悩んでいるところだ。
魔力供給のやり方を君は見せたがらなかったが、おおよそ見当はつく。君の体液を彼女に飲ませた。違うかな」
「……えっ」
「その反応、図星だな。血か、唾液か……多分後者だ。だが、その結果君は酷く疲れてしまっている。やはり、与える立場の人間に、相当なリスクを背負わせるやり方というわけか」
「どうして、そこまで分かるんですか」
綿貫さんが力なく笑った。
「僕自身も、魔力供給を頼まれたからだよ。君も会ったことがある、あのアムルってメイドだ。……そして、命を落とすかもしれないと脅された」
「えっ」
「笑うかもしれないが、セックスをしろと暗に言われたよ。男なら誰でも抱きたくなるような、あの女にだ。だが、ちっとも嬉しいとは思わなかった。まるで餌を前にした、肉食獣の前に立つ思いだったな」
「悩んでいるって、まさか」
綿貫さんの目が、険しい物へと変わった。
「この世界にやってくる第二の来訪者対策として、僕はある人物の所に向かわねばならない。恐らく、元々この世界にいた、異世界出身の誰かだ。正体は分からないが、魔法を使える可能性の高い人物だ。
だが、僕一人では危ないかもしれない。そこで、魔法を使える『ボディガード』を頼んだ。そこに立候補したのがアムルだ。そしてその条件が『彼女の番になること』」
「悩んでいるというのは、そういうことですか」
「彼女を連れて行かないという選択肢はない。ただ、問題はその後だよ。僕は死ぬわけにはいかない。だからどう彼女をやり過ごすのか悩んでいる。
いっそ、試しに彼女を抱いてみるのもいいかと思っていた。だが、魔力供給の現状を知って考えが変わったよ。僕にはできない」
綿貫さんは無言で僕をじっと見た。何か、恐ろしいことを言いそうな気がした。
「……何が言いたいんですか」
「君も、僕と似た立場だということさ。君の魔力量とやらが人並外れているらしいというのは聞いている。そんな君ですら、キス一回でそんなに疲労困憊になっている。
もっと強力な魔法を彼女が使わねばならなくなったら、キスだけでは済まないだろう。そうなったら、君の命がどうなるかなんて保証できない。
それは町田も同じことだ。いや、イルシアに住む人々が魔法を使おうとしようとする限り、このリスクは付いて回る」
綿貫さんが、ベッドで寝ているジュリを見やった。
「つまり、極論すれば……彼女たちが生きようとするなら、誰かが犠牲にならねばならない、ということだ。そして、それは際限なく膨らみかねない」
「そ、そんなっ……」
綿貫さんは軽く首を振って「ただの推測ならいいんだけどな」と呟く。
「確かに、イルシアの人たちが使う『魔法』には無限の可能性がある。僕も目の前で彼女がドライバーの認識を書き換えているのを見て、正直戦慄したよ。彼女らを手懐けることができれば、どれだけ日本の国益につながるか。
だが、その代償が国民の命だとすればどうなのか?……僕はイルシアをこのまま守っていくのが正解なのか、正直自信が持てなくなっている」
「でも、もしイルシアの存在がこのままバレたらっ……!!」
「それはそれで大問題になるだろうな。そして、その過程で何人か、いやもっと死ぬかもしれない。だから、今はこのまま走り続けるしかないんだ。
だが、いつかはこの『魔力供給』の問題にぶち当たる。それをどうやってクリアすべきなのか……正直、見当もつかない」
疲労からなのか、それとも恐怖からなのか、僕の身体は震え始めていた。そんなの、どうすりゃいいんだ。
そして、一昨日会った時には自信たっぷりに見えた綿貫さんが、酷く小さく見えた。彼もまた、本当に悩んでいるのだ。
「……綿貫さんは、これからどうするんですか」
「これから川越に帰る。明日も食料を届けないといけないからな。政府との調整は大河内さんに任せるとして、僕は僕でやることをやる。アムルのことは……走りながら考えるさ」
ふと、疑問が生じた。町田さんは大体ノアさんと一緒だけど、こんなことをしているのだろうか。
ノアさんは、ほぼ常時「念話」を使っているはずだ。疲れないはずはない。実際、町田さんからは彼女がよく食べるという話を苦笑交じりに聞かされていた。
食べ物で何とかまかなえているのかもしれない。ただ、それだけじゃない気がする。少なくとも、町田さんは僕とは違って魔力とか何とかを持っていない、普通の人のはずだ。
「……町田さんに相談してみてはどうでしょう」
「町田に、か?ただあいつは霞ヶ関にいる。向こうは向こうで大変なはずだ。……僕に助言できるような状況なんだろうか」
「それでも、ですよ。友達なんですよね?それに、町田さんも町田さんで綿貫さんに聞いてほしい話があるかもしれませんよ?」
「あいつがか。はっ」と綿貫さんが笑った。彼にしか分からない何かがあるんだろう。
「……だが、それもそうかもな。分かった、考えてみようか」
綿貫さんが腰を上げた。僕も立ち上がろうとすると「君は彼女の側にいてやってくれ」と告げられる。
「え」
「目が覚めた時、誰もいなかったら不安だろう。僕には君たちの関係はよく分からないが、少なくとも君が彼女に惚れているのは分かる。僕みたいな部外者が邪魔をするものじゃない」
綿貫さんはそのまま部屋を出ていく。部屋には、寝入っているジュリと、僕だけが残された。
ジュリは、どこまで知っていたのだろう。午前に聞いた、彼女の言葉が全くの嘘とは思えなかった。本心だと信じたかった。ただ、イルシアとの共存が思っていたよりずっと、ずっと難しいことも分かってきた。
……ただの高校生に過ぎない僕にできることは、何なのだろう。
眠っているジュリの手を握りながら泣いたけど、答えなんか出るはずもなかった。




