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『うわあ……!!!』
助手席の窓から顔を出し、ノアが目を輝かせている。右手に見えるのは奥秩父の渓谷だ。ただの峡谷なのだが、ノアにとっては物珍しいらしい。
「あまり顔を出すなよ、危ないぞ」
『あ、ごめんなさい。つい興奮しちゃって』
「渓谷ぐらい、そっちの世界にもあるだろ」
『メジアにはあまりないわ。どちらかと言えば、乾燥した土地だし。イルシアの南の方にはドルジリア山脈があるけど、魔獣が多いし蛮族ばかりだから近寄れないのよ』
「魔獣、ねえ」
俺はハンドルを切り、国道140号線を東に向かう。長瀞の辺りから、向かい側車線には渋滞の列ができ始めた。8月上旬の日曜日だから、この辺りの飲食店や観光施設は書き入れ時だろう。
ノアは『すごい量の『クルマ』ね……』と唖然としている。ただでさえ、彼女にとって鉄の塊が魔法の力なしに走っていくのはあり得ないことなのだ。それが長蛇の列を作っているとなると、なおのこと信じがたい風景なのだろう。
俺たちは朝早く起き、一路川越に向かっていた。目的は食糧の調達交渉だ。野菜にはメドが立ったらしいが、肉類や魚介類についてはまだだという。
綿貫が食糧調達を主にやっているのだが、「君も手伝え」ということで駆り出されたのだった。交渉事は心筋梗塞で倒れて以来3年ぶりだが、どこまでやれるのか正直自信はない。しかも本当のことはぼかさないといけないのが難しい所だ。
調達しなければいけない量も半端ではない。その量、最低で750kg。当然、普通にスーパーに行って何とかできる額ではない。卸売市場に直接掛け合う必要がある。今日は休日らしいが、市場の事務所は開いているとのことだった。そこに交渉に向かうというわけだ。
長瀞を抜け、寄居から花園ICへと向かう。関越に乗ってスピードを上げると、ノアが『これ、こんな速いのね……』と感嘆した。
「こいつは旧式だし所詮フィットだからそんなに時速出せないけどな。昨日綿貫が乗って来ていたレクサスだと時速200kmは出るぞ」
『『にひゃくきろめーとる』ってどのぐらい凄いのか分からないけど』
「ざっくりこの倍だな」
ノアの目が驚きで見開かれた。
『クァオ!!?そ、そんなに??』
「ああ。魔法とかで空を飛ぶ時、スピードってどのぐらい出るんだ」
『……全速力で、これより少し遅いぐらいかしら。『御柱様』や母様なら、もっと速く飛べるけど』
「そっちの方がむしろ驚きだな……人間が時速100kmで飛ぶとか、考えられん。というか、やっぱりノアも空飛べるんだな」
『勿論。ただ、この世界だとそんな長くは無理。魔素が少ないからか、お腹も随分減っちゃうのよね』
ノアが女性にしては随分と食べるのには、そういう理由があったのか。とすると、今予定している調達量では足りないかもしれない。これはちょっとまずいことになった。
「魔素というのは、君たちが生きるのに必要なものなのか」
『ええ。ある程度は食べ物の中にも含まれているけど、この世界だと決定的に足りない。すぐに死ぬとかそういうことはないと思うけど、長い目で見たらちょっと自信がないわ』
「でも、あの御柱様とやらは市川から魔力を分けてもらえるらしいじゃないか」
『御柱様は別。あとアムルもかな。効率よく魔素を得られる手段があればいいんだけど……』
効率よく魔素とやらを得られる手段、か。この世界の元素だと何に相当するのだろうか。
ノアは嫌がるかもしれないが、イルシアの人間を何人か医療機関で検査してもらった方がいいかもしれない。勿論、イルシアの存在を秘匿できる限りにおいてだが。
そんなことをぼんやり考えているうちに、少々小腹がすいてきた。まだ昼飯には少し早いが、トイレ休憩も兼ねて高坂SAで軽く休むことにする。
幸い、トイレのやり方はイルシアもそう変わらないらしい。流石に水洗ではないらしく、ノアも最初は『どうしたらいいのよ!?』と叫んでいたが。
『ず、随分人が多いのね……』
車を降りるなり、ノアが辺りを見渡して呟いた。危険防止のため、彼女の手を握ってトイレへと向かう。傍から見たらアラサーの男が欧州系の美少女を連れ回すという、かなり目立つ構図だ。
実際じろじろ見られている気がする。ノアがむっとした様子になった。
『そんなに見てどういうつもりかしら』
「君の見た目は目立つ。最近はそうでもないが、この国の人々はほぼ同じ人種だからな。まして、君はかなりかわい……いや、美しい。嫌でも目を引くさ」
『そうならいいのだけど』
納得していない様子で彼女は女子トイレへと向かった。俺も軽く用を済ませ、待ち合わせのベンチ前でスマホを手にした。ニュースサイトにもXにも、今の所イルシアの話らしきものはない。まだ、周囲には発覚していないようだ。俺は心から安堵した。
代わりに世を騒がせているのは、裏磐梯のキャンプ場から男女5人が失踪したという事件だった。残されていたのは車とバーベキューセットだけという、奇怪な事件だ。
血痕が見つかったとのことで、何かしらの事件に巻き込まれたのは確かなようだが。熊か何かが襲ったにしては妙だし、殺人事件にしても意味が分からない。キャンプ場に無差別殺人鬼でも現れたとでもいうのだろうか。
『どうしたの、難しい顔をして』
いつの間にかノアが戻って来ていた。俺は「いや、何でもない」と苦笑する。
「物騒な世の中になったなと思っただけだよ。少し、腹も空いてるだろ。飯の前に、軽く何か食べていこうか」
時刻は10時過ぎだ。ここから目的地の埼玉川越総合地方卸売市場までは、1時間弱はかかる。着いてから交渉に入る時間も考慮すると、昼飯はしばらく食べられそうもない。
俺はノアの手を引き、SAの建物内に入る。夏休みということもあるが、結構な混み具合だ。50km以上の渋滞中の下り車線だとこの比ではないのだろうな。
ノアは少し興奮した様子で辺りを見渡している。彼女はこの世界に来てまだ3日目だ。こういう人ごみに連れてくるのは、少し早かっただろうか。
「おい、もうちょっと落ち着いた方がいいんじゃないか」
『何で?トモには迷惑かけてないでしょ』
「いや、そうなんだが……」
ノアに目を止めるのは男ばかりじゃない。むしろ若い女の子が「きゃー、かわいい!!」と彼女を見てくることの方が多い。中にはスマホを向ける奴もいたくらいだ。
そのたびに俺は「ちょっとやめてくれませんか」と間に入る。ただ、このままだと未成年者を連れ回す怪しい男として警察から職質を受けかねないな。
とりあえず名物らしいダブルクリームパンとイチゴのソフトクリームを買って車内へと戻る。ノアは「ブイエユ!」とソフトクリームの味に満足そうだ。
『この甘いの美味しい!冷たくてとてもいいわ。というか、どうやって作ってるのかしら……』
「牛乳を加工してクリーム状にし、それを冷やしてイチゴ果汁と混ぜた上で絞り出しているんだ。このパンもなかなかいけるな」
パンは生クリームとカスタードクリームの二層構造だ。こういう糖分たっぷりでカロリーの高いものは、頭を使う前にはとてもいい。
それにしても……ノアがここまで人目を引くとは思わなかった。イルシアが世間にバレないよう色々動いてはいるが、ノアが誰かから話しかけられたら――そして「念話」を使って反応してしまったら、そこから騒ぎになることは十分あり得る。
これから秩父以外の場所に出る機会も増えるだろうが、その時にノアをどうするかは考えないといけない。家で留守番というのもかわいそうだが、変装ぐらいさせた方がいいだろうか。
*
結論から先に言えば、この時既に手遅れだったのだ。
もっとも、イルシアを狙う連中の中に「元日本人」がいるなんてことは、この時の俺には知る由もなかったのだが。




