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ド田舎無職の俺の近所に異世界の国が引っ越してきた件  作者: 藤原湖南
第2章「秩父市総合調整課職員 山下睦月」
21/202

2-1


休日の朝ほど憂鬱なものはない。母と一日向き合わなければいけないからだ。


私が朝起きてまずやることは、母を起こすことだ。そして、彼女を支えながらテーブルまで連れて行き、柔らかく作った朝食を食べさせる。

その間、彼女は言葉を発しない。ただ無感情に咀嚼し、遠い眼でどこかを見ているだけだ。その視界には、私すら映っていない。

それが終わると彼女はソファーへと向かいたがる。そこに連れて行くと、何をするでもなくただ延々と窓の外を見ているのだ。そして、時間になると食事をさせ、風呂に入れさせ、そして寝かしつける。これが私と、母の休日だ。


一般的な介護からすれば、楽なように見えるかもしれない。実際、ケアマネージャーの方から聞いた母は「手のかからない人」なのだそうだ。

だが、その手のかからなさが、私にとっては耐え難い苦痛と悲しみを与えるのだ。


3年前に、彼女が「壊れた」当初は違った。久々に会った母は人が変わったかのように怒りっぽくなり、暴力を振るうようになっていた。

最初は精神的に不安定になっているだけなのだろうと思った。だが、戻るたびに彼女はどんどん短気になっていた。物を投げつけたりするのは当たり前で、包丁を持って私を刺そうとすることすらあった。


変わり果てててしまった母に、私は愕然とした。こんな母は、母じゃない。

ただ、今から思えばまだ感情を出してくれるだけよかった。時々、不意に元の母に戻ることもあった。いつかは落ち着いてくれるだろうと、甘く考えていたのだ。


そんな私の見通しは、1年半前に砕かれた。


近所の人が「お母さんの姿が見えない」と私に連絡を入れたのだった。アメリカへの短期出張から帰ってきたばかりの私は、胸騒ぎがして慌てて秩父に戻った。そこで私が見たのは……瘦せこけた、「母の抜け殻」だった。


私が見た時、母は殆ど餓死寸前だった。病院に入院させて一命は取り留めたが、そこで医者が告げた母の病名は、耳を疑うものだった。



若年性アルツハイマー——56歳にして、母はこの不治の病に冒されたのだった。



母が短気になったのは、その初期症状だったのだろう。その時に私が気付いていれば、もう少し手の施しようがあったのかもしれない。

ただ、私は母がこの年で認知症になるなど思いもしなかった。慣れない独り暮らしで、心が少し病んでいるだけだと思い込んでいた。でも、実際は違った。

そして、気が付いた時には――私の知る母は「死んで」しまったのだ。今ここにいるのは、母の形をした、何かだ。


そして、私は外資系コンサルとして生きる夢を捨てて、この町で母と暮らすことを選んだ。


適当な老人介護施設に入れてしまえば、どれだけ楽だっただろう。それだけの金は、何とか捻出できなくもなかった。

だけど、それはできなかった。母をこういうようにしたのは、私だ。父が亡くなり寂しそうにしている母に気付かず、自分の夢ばかり追った私が……母を「壊した」のだ。


そして今。私はこうやって母「だった」人と一緒に生きている。見捨てることもできず、さりとて愛することもできない。そんな存在と、母が死ぬまで生活しなければいけない。

これは贖罪なのだ。自分勝手に生きようとしていた私は、その罰を償わねばならない。母の救いの声を聞かず、「壊して」しまったのは私なのだから。


それでも、母をデイサービスに預け、仕事をしているうちは現実を少しは忘れられた。やりがいはほとんどない、退屈な仕事ではあるけど、やらないよりはマシだった。

ただ、休日になると一日を母と過ごすことになる。そこにいるのは、無表情に、ただぽかんと口を開けたまま外を見続ける母の抜け殻でしかない。

そして私は嫌でも、その姿を――自分の犯した罪の結果を目の当たりにしないといけない。それがたまらなく辛いのだ。



そして、今日もそんな一日が始まろうとしていた。だが、気分は少しだけ違う。


昨日、私の前に現れたあの異世界——イルシアという国。正直に言って信じがたかったけど、しかしそれは間違いなく現実だった。

そして、あの城を見た瞬間、本当に久し振りに心に高揚感が戻ってきた気がしたのだ。


私をあんな一件に巻き込んだトモに対する怒りがないわけじゃない。ほとんど否応なく、私の事情など一切お構いなしに、秩父市どころか日本中を引っ繰り返しかねない一大事に私を巻き込もうとしているのだ。昔の私なら、即座に平手打ちをかまして席を立っていただろう。

ただ、私はそうしなかった。それどころか、今日も私は彼の家に向かう約束をしている。大河内議員なる人と、話し合いをするためだ。


私の中に、トモへの未練があったのだろうか。ないとは言わない。

今から思えば、気が強いばかりの私に正面から向き合ってくれたのは彼だけだった。そして、昨日彼に再会した時、どこかに喜びの感情はあった。それは「私と同じで落ちぶれてしまったトモ」に出会ったことに対する、歪んだ喜びだったのかもしれないけど。


でも、やはりそれ以上に、母のことを忘れられる言い訳ができたからな気がする。


家を放っておいても、母はほとんど動きはしない。ただずっと外を見ているだけだ。

これまで、休日で家を離れるのは買い物の時だけだった。母を放置して誰かと遊んだりすることなど、自分には許されないと思っていた。

ただ、このイルシアの一件に関わっている限りにおいて――私は母を放っておく「理由」を得られる。長く家は離れられないけど、それでもこの灰色の生活から抜け出せるきっかけになるかもしれない。


私は溜め息をついた。それは、ただ現実から逃げようとしているだけじゃないのか。激しい自己嫌悪が、私を襲う。本当に、どこまで私は救えないんだ。


その時、スマホが震えた。……知らない番号だ。


「もしもし、山下ですが」


「初めまして、大河内尊といいます。突然のお電話、大変申し訳ありません」


低く、渋い声が聞こえてきた。思わず身構える。


「……どこで、この電話番号を」


「ああ、失礼。綿貫君から聞きましてね。驚かせてしまったなら申し訳ありません。

本日は午後3時よりよろしくお願いします。貴女が秩父市側の窓口になると聞いてます」


「は、はあ」


なぜわざわざ電話を?そんな疑問を抱く。大河内議員は話を続けた。


「一度、その前にお会いできないかと思いまして。無理にとは申しません」


「どうして、私に?」


「自分のカウンターパートのことは早めに知っておきたいということですよ。貴女が本件に対して抱いている、率直な感想を聞きたい。

町田氏は恐らく、イルシアという『国』に入れ込んでいる。綿貫君もそうです。ただ、貴女は少し違う。最も利害関係が薄い立場にあるのが、貴女と踏みました。ニュートラルな意見を聞いておきたいのです」


「それなら電話でもいいのでは?」


「生憎これから別の予定がありましてね。ゆっくり話せるだけの時間がない。午後1時ぐらいに、秩父市内で落ち合うことは可能ですか」


言っていることの筋は通っている。ただ、どこか引っかかる。

私は数秒考えた。まだベッドの中にいる母のことを思う。……少し早く出ても、母は大丈夫だろう。大河内議員という男が何を考えているのか、本当に秩父市のためになる人物なのか、見極めるのも悪くはないか。


私は「分かりました」と告げる。大河内議員は静かに「ありがとうございます」と礼を言った。


「何分、秘匿性が高い案件です。個室で食事でもと言いたいところですが、初対面の男と一対一というのは貴女も困るでしょう。どこか、人気の少ない喫茶店などあればいいのですが」


「……それなら、秩父市役所近くに古い純喫茶があります。そこじゃダメですか」


「そこで結構です。お会いできるのを楽しみにしております」


通話はそこで切れた。これは、どういうことなのだろうか。




私がその真意を知るのは、もう少し先のことになる。




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