14-10
「入場前に改めて確認を」
警察の輸送車両の中、岩倉さんが静かに告げる。
「マル被を確認したら即座に私に連絡を。確保に向けドーム内の覆面警察官を配置します。ただ、あくまで我々警察は補助です。マル被を沈黙させ得るのは、基本的にはあなたたち2人しかいない。そういう前提で動きます」
町田さんが小さく「了解しました」と頷く。
「相手が攻撃を仕掛けてきた場合は交戦を許可します。無論、観客に被害が及ばぬよう、細心の注意を払ってください。不意打ちなり何なりで最小限の労力で沈黙させるのが理想ではありますが……」
僕は右手の薄手のグローブを見やった。これはあのハンスという人の持ち物であるらしい。至近距離でこのグローブの掌の部分を嗅がせると、瞬時に意識を失うと聞いた。非揮発性の超強力な睡眠薬が仕込まれているという。
「僕はこれを、使うわけですね」
「そういうことです」
僕は町田さんやハンスさんのように魔法に習熟しているわけではない。使えるのは拳を飛ばす魔法と、肉体強化の初歩ぐらいだ。近くに魔力の持ち主がいても、かなり近寄らないと感じ取れない。
だから、ハンスさんはこのグローブを僕に貸し与えた。彼自身はこれがなくても睡眠魔法で代用できるから特に問題ないらしい。町田さんもノアさんから得た知識である程度対応できるとのことだった。必然的に、このグローブを使うのは僕ということになる。
僕はもう一度ドーム内の見取り図を見た。エオラという人がどこにいるのかは不明だが、僕はひとまず「フェスタ15」の楽屋に向かう方針と聞かされていた。
エオラという女性は恐らく、彼女たちを利用して集団催眠をかけるというのが町田さんの読みだった。あるいは既に洗脳済みかもしれないが、その場合でもエオラがその場にいる可能性は高いのではないかとのことだった。
エオラらしき女性の似顔絵は既に貰っていた。絵だけ見るとかなりの美人のように見える。ヨーロッパ系白人なのだろうか。とにかく日本人の中ではこの容貌はかなり目立つだろう。
見つけたらどう動くかは決めていた。遠い間から一気に距離を詰め、口にグローブを押し当てる。ステップインの速さには自信がある。多少抵抗されても、女性相手に後れを取るつもりはなかった。
問題は、猪苗代湖にいたあの角の生えた男だ。遠くから見ただけだが、かなりの威圧感を感じた。正直、無傷で確保できる自信はない。
長年の経験で、雰囲気から相手の力量を察することはできる。あの男が戦っているのを見たわけではないが、兄さんの攻撃を避けられていた辺りただものではないのだろう。
もしエオラと一緒にいたらどうすべきか。町田さんを呼ぶことも想定しないといけないかもしれない。
ドームが目前に近づいて来た。すぐに町田さんが顔をしかめる。
「……いますね。魔力持ちは……4人」
「4人!?一体誰が……」
岩倉さんの言葉に、町田さんは目を閉じて集中する。
「……大物は1人だけです。正確な場所までは分からないですけど、確かにいます。それに比べ劣るのが2人、さらに小さいのが1人」
「大魔卿や王はいない、そう理解しても?」
「ええ。私は彼らに会ったわけじゃないですが、多分。とはいえ、想定より1人多いというのはやや引っかかります」
「対処できそうですか」
「……何とか。ただ、こちらから仕掛けないといけないかもしれません」
「分かりました。はっきりした場所が分かり次第報告を」
町田さんは頷く。僕はグローブをはめた右拳をじっと見た。
今まで、僕はあくまでボクシングという枠内でこの拳を振るってきた。誰かを傷付けるために振るったことは、一昨日の猪苗代湖の一件までなかった。
しかも、あの時の相手は理性のない怪物だった。今度は同じ人間を傷付けるために殴ることになる。
兄さんは、その辺りの躊躇がない人だった。誰かを守るために、他の誰かを傷付けることを厭わない人だと一昨日僕は思い知った。そして、そうしないとこの局面は乗り越えられない。
「ボクサー」としての猪狩瞬に疑いを持ったことはない。ただ、今求められているのは人を守る「防衛者」としての猪狩瞬だ。……僕にできるのか。
車が停まった。考えている暇はない。ここまで来たら、やるしかないのだ。
*
「フェスタ15」の楽屋は地下にある。僕は変装用の帽子を目深にかぶり、サングラスの位置を軽く調整した。幸い、僕に気付く人間は今のところいない。
試合は地上波放映がなくなってからもう随分経つ。バラエティー番組にも出ない僕の顔をすぐに分かる人間はそう多くはないと自負していた。
楽屋が視界に入って来た。その時、警察から貸し与えられたスマホが震える。……町田さんだ。
「もしもし」
「俺はコントロールルーム近くにいます。そこに、魔力持ちが2人——多分阪上がいます」
「了解です。突入しますか?」
「様子を見ながら。それより問題はそちらです。多分、一番大きい魔力持ちが楽屋にいます。もう一人もそこに」
「……エオラを護っているということですか」
「多分。あなたの存在にも気付いているかもしれない。一度撤収して合流しましょう。ハンスさんがいない以上、数的不利はできるだけ避け……」
そこまで町田さんが言った時、僕は電話を切った。向こうから女性が部屋を出てくるのが見えたからだ。咄嗟に物影に身を隠す。
肉体強化魔法を使えば、逃げること自体はそう難しくないかもしれない。ただ、向こうは僕と違い魔法には慣れている。僕が知らない手段で攻撃されたら……
その時、女性が「アルヴァ、ベルディア!?」と叫んだ。日本語じゃないから何を言っているのかは分からない。ただ、べルディアというのは……向こうの世界での兄さんの名だ。
僕は思わず廊下に出た。10数メートル先にいるのは、確かにあの似顔絵の女性だ。
この間合いを詰めるのに必要なのは、多分2、3秒。女性の顔はどういうわけか驚きで固まっている。突っ込むなら、今しかない。
その時、今度は直接頭に声が響いて来た。彼女が話しているのは日本語じゃないはずだけど、何を言いたいのかは理解できる。
これは、イルシアでも経験したことがある。……「念話」だ。
『あなた……何者なの』
僕は躊躇した。どう言うべきなのか分からなかったからだ。それに、彼女は確保されるべき人物——敵だ。呼びかけに応じる義理はない。
ただ、何故か僕は彼女を無視できなかった。口にしたのは、自分でも予想外の言葉だった。
「弟です。ムルディオス・べルディアと呼ばれた男の」
『弟……』
女性は動揺しているようだった。確か、エオラという人は向こうの世界における兄さんの部下だと聞いていた。どういう関係なのかまでは聞いていないけど、彼女とは何かあったのだろうか。
「……兄さんは一昨日、死にました。聞いてはいませんか」
『……分かってるわ。分かってるわよ』
女性は泣き出しそうになっている。その時、その後ろから大柄な赤褐色の肌の男が現れた。「邪魔だ」と言わんばかりに女性を押しのけ、こちらへと向かって来る。
……この男には見覚えがある。「大魔卿」という男の側にいた男だ。
僕はファイティングポーズを取る。逃げることは多分できない。……ここで何とかする。
一気に間合いが詰まった。……速いっ!!!
ブォン
力任せに薙ぐような右フック。しかし速いっ。そして、流れるように右ハイキックが飛んできた。受けることはできないと悟った僕は、咄嗟にバックステップで交わす。
そこにさらに男が距離を詰める。キックで流れた身体を着地と共に捻り、バックハンドブローを放ってきた。僕はそれを鼻先で交わすと、打ち下ろしの右を叩きこむ。鼻血が辺りに吹き飛んだ。
『……チッ』
……肉体強化魔法のお蔭でパンチ力は上がっている。しかしそこまで効いている様子もない。
僕の階級はフェザーだ。減量していない今の状態だとSライトはあるが、この男は低く見積もってもミドル、恐らくはライトヘビーくらいはあるだろう。階級にして3~5階級違う。フィジカルの差はいかんともしがたい。
『小癪な』
僕はその言葉を無視し、もう一度バックステップで距離を取った。男がニイと嗤う。
『名は』
「……猪狩瞬だ」
『イガリ……俺の名は李麒龍だ。久々に骨のある相手、愉しませてもらうぞ』
男も構える。……ボクシングの構えではない。空手、いや中国拳法のそれに近いか。
名前からして中国人のようだ。とてもそうは見えないが、王という男の一派ではあるらしい。
再び男が踏み込んできた。僕が目と肩でフェイントを軽く入れると、麒龍という男は反応したかのように右ストレートを放ってくる。注文通りと左フックのカウンターを合わせたが、あまり効いた様子もない。
『やるなぁっ!!』
笑みを浮かべながら麒龍は左アッパーを繋げる。これもスウェーで避ける。刹那、猛烈に嫌な予感が走った。カウンターを合わせる手を止め、サイドステップすると……
ザンッッッ
何かが斬れる音がした。それが左手から放たれたかまいたちのような何かだと、1、2秒遅れて気付いた。
「……飛び道具持ちか」
背中に冷たい汗が流れた。多分、白兵戦の技能だけならこちらが大分上だ。ただ、向こうには魔法がある。
警戒した僕はさらに後方に跳び、大きく距離を取った。
僕はこの相手に……勝てるのか?




