序章1
「……マジか」
俺は、目の前にある光景が信じられないでいた。日課である家庭菜園への水やりをしに来たら、誰かが倒れている。
倒れている人物の近くに駆け寄ると、その驚きはさらに増した。
倒れているのは、かなりの美少女だ。それも、ステレオタイプな魔法少女のコスプレをした少女だ。
「……意味が分からん」
思わず俺は口走った。ここは秩父市の奥、長野県の県境がほど近い限界集落だ。若者は俺含めて数人しかいない。こんな少女なんて、まずいるはずがないのだ。
若い子たちが寄るような観光地もない。某私鉄がテーマパークを作ろうと画策したことはあったが、10年ぐらい前に採算が取れないという当たり前の理由で立ち消えになり、それっきりだ。
何より、今の時間は朝の7時ちょっと過ぎだ。こんな女の子が出歩いているような時間じゃない。
改めてみると、倒れている少女の顔立ちはモデルかと思うほど相当整っている。肌の色は白く、スラブ系の子のように見えた。
秘境探索で山に迷い込んだ観光客かと一瞬考えたが、それにしてもあまりに不自然だ。コスプレなんてする理由がどこにもない。
少女は僅かに動き、菜園のトマトに手を伸ばそうとしていた。死んでいたわけではないことにほっとしつつも、俺は咄嗟に口を開いた。
「おい、そこで何しているんだ」
少女が顔を上げる。疲労の色が相当色濃い。さらに、右膝の辺りが擦り剝いて血だらけになっているのにも気付く。これは只事ではない、と俺は直感した。
何か言葉を口にしようと、彼女の口が動く。すると、彼女の意思が「直接」頭に入ってきたのが分かった。
『何か……食べ物を……お願い』
その言葉を口にするだけで力尽きたのか、彼女はそのまま地面に突っ伏す。
「おいっ!!?」
抱き上げると、酷い熱だ。救急車を呼ぶかと一瞬考えたが、市民病院からここまで来てもらうだけで1時間はかかりそうだった。
ならば、一度家で休ませた方がいい。警察や病院は、それからだ。
俺は彼女をお姫様抱っこの要領で親父の形見でもある型落ちのフィットへと運ぶ。エンジンを切ってそれほど経ってないというのに、車内は既に相当な暑さだ。急いでカーエアコンを付け、イグニッションボタンを押す。
ブロロロロ……
低いエンジン音が響いた。ここから家までは5分もかからない。俺は彼女を後部座席に横たえ、急いでハンドルを切った。
*
俺の家は、築50年はしようかというボロ家だ。うちの爺さんが建てたもので、親父が相続した。2年前に親父が死んでからは、俺一人で住んでいる。
一人で住むにはあまりにでかい家だ。最低限のリノベはしたものの、正直持てあましている。それに、誰か客が来るわけでもない。地元の人間関係は高校に行ってからはほぼ切れた。大学や社会人になってからできた友人とも、2年前に俺が病気で会社を辞めてからはほとんど連絡を取っていない。
2階はほぼ物置状態で、1階のリビングと寝室、それと念のため残していた客間しか使っていない。売り払ってしまいたかったが、こんな資産価値のない空き家など誰も買うはずがないと気付きやめた。
古民家カフェでもやろうかと思ったこともあったが、こんな限界集落では集客のメドなど立つはずもない。結局、会社を辞めてからズルズルとここで暮らしている。
だから、そんな我が家に誰かが来るなんてことはこれまでほぼなかった。町内会長の大熊が事務連絡にたまに来るぐらいだ。
それがまさか、女性を連れ込むことになろうとは。それも、コスプレをした謎の「魔法少女」と来ている。全く現実感がない。
勿論手を出すわけはない。ある程度彼女の体力が回復したら、警察に通報するつもりだ。ヤバい事件に絡んでいる可能性は否定できない。一無職の俺にどうこうできる問題とは到底思えなかった。
とりあえずクーラーをつけ、随分使っていなかった煎餅布団を敷く。軽く埃の匂いがしたが、この際仕方がない。自分のベッドに寝かせるほど、俺はデリカシーのない人間ではないのだ。
問題は服だ。こんな不衛生な服のまま寝せても熟睡はできないだろう。ただ、自分の服を着せてもサイズは全く合いそうにない。
幸い、ここから40分ほど車で走れば24時間営業のディスカウントストア「ドン・ジョヴァンニ」がある。そこなら彼女のサイズに合う服と下着は見つかるだろう。勿論、下着は彼女が起きてからの交換になるが。
「魔法少女」を寝かせ、俺は押入れの奥から救急箱を取り出した。親父を看取った時の水差しはまだ残っていた。これを使ってロキソニン、それと商社時代に使っていたビタミン剤を飲ませれば体力回復と解熱には役立つだろうか。
ロキソニンとビタミン剤の錠剤を彼女の口に入れる。よく洗った水差しを使い、意識のない彼女にゆっくりと注ぐと「コクン、コクン」と飲んでいくのが分かった。どうやらそこまで危機的な状況ではないようだ。
怪我をしていた右膝は消毒の上でキズパワーパッドを貼った。そこまで重傷ではないので、これでいいだろう。まずは十分な量の睡眠、そして栄養だ。俺は彼女の着替えを買いに、一度家を離れることにした。
*
「ありあとっしたー」
やる気のなさそうな若い店員の声を後ろに、俺は着替えをビニールバッグに詰める。あの子の身長は多分150もないだろう。見た目からして精々中学生ぐらいか。
ひとまず、子供服と子供用のショーツ、スポブラを買ってみた。女性の下着を買うことなど一生ないと思っていたが、まさかこんなことになるとは。
勿論、買ったのはワンセットだけだ。彼女が動けるようになったら、まずは警察。俺との関係は、多分それっきりだろう。
フィットに乗り込み、エンジンをかける。時刻はまだ9時過ぎだというのに異常に暑い。埼玉の夏は日本有数の暑さなのは分かっているが、今年は特に酷い。
げんなりしつつ、俺はハンドルを握った。ふと、彼女と出会った時のことが思い返される。
「……そういや、何で言葉が分かったんだ?」
そう、彼女の言葉は俺が知っているどの言語でもなかった。英語ならすぐ分かるし、中国語もそこそこは使える。フランス語やスペイン語は齧った程度だが、それでも喋っている言葉の種類ぐらいは判別できるはずだ。
だが、彼女の言葉は完全に未知のものだった。そして不可解なのは……そうであるにも拘わらず、彼女が何を言っているか「直接脳内に届いた」ことだった。
「……テレパシーか何かか?んな馬鹿な」
俺は頭に浮かんだ仮説を苦笑しながら即座に打ち消した。まさか、本物の魔法少女だというのだろうか。あり得ない。
だが、彼女が普通の少女でないのではという予感はしていた。根拠はない。ただ、直感がそう告げていた。
だとしたら、警察に早めに連絡すべきなのだろうか。とりあえず、彼女が何者か分かってからの方がいい気がしてきた。
家に着くと、彼女は客間ですうすうと寝息を立てていた。俺は「すまん」と軽く告げ、黒のケープを脱がす。
微かだが、むわっと体臭がした。身体を洗ってないのだろうか。起きたら風呂を沸かしてあげた方がいいかもしれない。下着は質素で、胸の辺りはさらしで巻かれている。へその下の辺りに、刺青のようなものがちらりと見えた。
意識のない彼女に「ドン・ジョヴァンニ」で買った子供用のパジャマを着せる。大分汚れていたあの服よりは、こちらの方が寝心地がいいだろう。
額に手を当てると、熱は少し下がっていた。この分なら大丈夫か。彼女の服を洗濯機に放り込んだ俺は、キッチンに向かっておかゆを作ることにする。
彼女は相当にお腹がすいていたようだった。おかゆだけでなく、腹持ちのいいものも必要かもしれない。少し考え、バナナを入れた野菜のスムージーと焼うどんも作ることにした。
食事が出来上がった頃には正午手前になろうとしていた。がさり、と客間から音がする。起きたのだろうか。
自分の分の飯はテーブルに置き、お盆に彼女の分を乗せて部屋に向かう。ふすまを開けて電気を付けると、彼女が怒ったような表情で俺を見た。
『あたしの裸、見たでしょ!??』
「……裸?」
下着までは脱がせていない。ただ、下着を見られただけでも年頃の少女にとってはなかなか恥ずかしいものなんだろう。俺は頭を掻いて、軽く頭を下げる。
「ああ……随分服が汚れてたからな。それに膝に怪我もしてたから、簡単な処置もしておいた。あ、流石に下着までは変えてないから安心してくれ」
少女は少し黙り込り、意を決したように口を開く。
『魔紋は、見た?』
俺は首を捻る。聞いたことのない単語だ。あの刺青のことかと思ったが見間違えかもしれない。
「『まもん』?何だそれは」
彼女は安堵したかのように大きな息をつく。
『ならいいの。あなたが助けてくれたの?ありがとう』
まだ声は弱々しいが、少しは元気になったようだ。俺もほっと一息入れる。
「いや、当たり前のことをしたまでだ。というか、半日も寝ていたんで心配してたんだ」
『……半日?』
彼女は目を見開くと、身体を起こしてよろよろとカーテンを開ける。愕然とした様子で、彼女が呟いた。
『誰か、助けを呼ばなきゃ……』
「助け?病人でもいるのか?」
フルフルと少女が首を振る。
『病人は……多分いない。でもここの領主の人に会わなきゃいけないの。イルシアの庇護を求めなきゃ』
領主??一体何時代の話をしているんだ??いよいよこの少女の正体が怪しくなってきた。少なくとも、マトモな子ではない。そもそも「イルシア」とは何だ?
ただ、正気でないとも思えない。少なくとも、受け答えは子供とは思えないほどしっかりしている。ひとまずこのまま会話を続けることにした。
「庇護?イルシア?何だそれは。領主って市長のことか?」
『領主はいないの?市長でもいいわ、お願い』
俺は腕を組んだ。随分と必死な様子だ。まるで何かから逃げてきているような、そんな感じだ。
ただ、ただの無職の俺にできることなんて何もない。これはどうにも困ったことになった。
「いや、お願いされてもな……俺にそんなコネはないし。というか、君はどこから来たんだ?イルシアなんて国は聞いたことがないぞ。君の言葉は英語でもフランス語でもスペイン語でもない。何故か君の話していることは分かるが」
『メジア大陸最古の国よ。メジアぐらいは知っているでしょ?』
「いや、さっぱり分からん」
話が全く嚙み合わない。メジア?何だそれは。どこか知らない世界のことを話されているような……
いや、本当に異世界の話をされているのか??
自分自身正気とも思えないが、一応訊くだけ訊くか。
「というか、まさか……異世界ってやつなのか」
『……異世界?』
俺は唾を飲み込む。このリアクション、どうも本物だ。
自分自身、突拍子もない考えだと思う。だが、そうすれば一通り辻褄が合う。彼女の言葉が分かるのは、多分魔法か何かを使っているからなのだ。
少し間を置いて、俺は頷く。
「多分、君の国は俺たちの世界にはない。どういうわけか知らないが、君は別の世界に来たってことらしいな」
『じゃあ……ここはどこなの??』
「ここは日本だ。埼玉県秩父市大府大字5011。俺――町田智弘の家だ」
少女は膝から崩れ落ちた。どうも、彼女も異世界に来たと知らなかったらしい。
『そんな……どうしろっていうのよ……』
俺はいたたまれない気分になって、ふうと息をつく。とりあえず、これは警察に言える案件ではない。もっとずっと上の人間に話すべき案件な気がしてきた。
「ぐう」と彼女の腹から音が聞こえた。やはり相当に空腹なのだろう。とりあえず、今後の方針は後だ。まずは腹を満たして、元気になってもらってからだ。
「……腹減ってるんだろ。飯を作ってきた。とりあえず、食べよう」
そこまで言って、まだ彼女の名前を聞いていないことに気付いた。俺は名乗ったのだから、彼女の名前ぐらいは訊いてもいいだろう。
「えっと、君の名は……」
彼女は涙を裾で拭い、震えた声で俺に告げた。
『ノア。ノア・アルシエル』
*
これが俺とノアとの長い付き合いの始まりになると、この時の俺は知る由もなかった。




