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幕間 ある伯爵令息の言い分

彼側の少し前、転機というかそんなお話になります。




それは本当に偶然だった。


今思い返せば必然だったのではとエリオットは思ってしまうが、ひとまずエリオット・ストレイスがアリス・ピリーを見かけたのは偶然だった。





「――ええ? 髪に口付け?」

「――そう!! それがとっても素敵なの!」



「?」


それは四年前の授業の合間の休み時間であった。


不意にすっと耳に入ってきた声に、エリオットは誘われるように何気なくそちらへと視線を向けた。刹那、名すら分からない令嬢のその瞳に、うっすら赤くなっている頬に目を奪われた。


本当に一瞬のことであった。



「ミッシェルだって婚約者の彼にそうしてもらうことはあるでしょう? 小さい頃に読んだ絵本が忘れられなくて…。今も本棚に置いて、たまに読み返しているの」

「まぁ…分からなくもないわね。だからこんなにもあなたの髪はきれいなのね、アリス」

「そう、ずっと手入れをしているの。ちょっと魔法にコツがあって―――」



窓から差し込む日の光でキラキラと煌めく絹糸のような前髪を揺らして笑う彼女に、エリオットはどうしてか目を逸らせなかった。かつて無いほどに鼓動がうるさくなっているのを感じて、己の変化に戸惑った。

そして彼女達が去った後も鼓動は落ち着かなくて、熱に浮かされたような気分のエリオットはぼうっと突っ立ったままになった。


学友が呼びに来るまでそのままだった。



思えば一目惚れだったのだと思う。



少し調べればすぐに彼女の名をアリス・ピリーだと知れた。髪の乙女として、校内でちょっとした人気になっていたのだ。

エリオットはそれまでの経験上、顔は良い方だと自負していたのでそれとなく彼女の周りを彷徨いて、何かのきっかけさえあれば声を掛ける状況に持っていけるだろうと安易に考えた。


けれど、そんなに簡単にことは進まなかった。



「この前の授業では―――」



廊下ですれ違っても、友人との会話に夢中。

食堂で近くの席に座っても。

図書で本を読む彼女を眺めていても。

何をしても、その瞳がエリオットへ向くことはなかった。逆にその友人には何度か訝しげな視線を向けられてしまった。


友人は気が付くのに目的の彼女は憧ればかりに夢中で、彷徨くエリオットには微塵にも気が付いてくれなかった。

それまで心の奥底で育っていた、所詮自惚れが木っ端微塵になった瞬間でもあった。





そうこうしてもだもだしている内に、彼女の視野に入ることすらできていないにも関わらず、次第に彼女に婚約者ができることを恐れるようになったエリオットは外堀から埋めることに方向転換する。



まずは、身辺を整理した。整理したといっても良からぬ相手と交友していたわけではない。簡単に言えば付き合う相手を選ぶようにしたといったところか。

それなりに顔が良かったエリオットに、家は次男だから当てにはしていないが遊ぶ分にはといった輩からの声掛けがなかったわけではない。一応体裁に響かない程度に線引きをして愛想良くはしていたが、これを機にそういう相手とは手を切った。当然、急かつ一方的なことに相手は怒ったが、エリオットの取り付く島もない態度を知るとあちらから捨てたのだという(てい)に好き勝手な噂をあれこれ触れ回って離れていった。エリオットは然程気にせず、むしろ好都合と放置した。


次に、身内に打診した。気になる侯爵令嬢がいるのだと、正直に。包み隠さずに。そして、婚約者になる為その父に己を売り込むのだと伝えると、まず兄が盛大に顔を顰めた。


曰く、当の本人と話をしてからでなくていいのかと。後々後悔することになりはしないかと。


兄の言に思うことがなかったわけではないが、でも校内でエリオットにこれっぽっちも気が付かなった彼女の姿が脳裏を過ぎりつい意地が勝った。そんなエリオットの様子に兄は大きくため息を吐くとそれ以上は何も言わなかったが、その目に呆れにも似た感情が見て取れた。けれどエリオットも後には引けないのだ。


それからは大変だった。

何が何でも彼女の隣を手に入れたいと切望した故の行動だったのだが、ピリー侯爵に己を売り込むのはやはり簡単ではなかったのだ。まず、それまで兄がいるのだからと高を括っていたのが仇になった。だからといってご縁がなかったですね、と簡単には引き下がれない程エリオットの中の気持ちは大きくなっていて、あのエバーグリーンの瞳に自分だけを映してほしくて堪らなくなっていた。これを愛執と言わずなんだというのか。エリオットはとっくに自分の中の感情を承知していた。


その気持ちを糧にしたおかげか、生来の性格のおかげか、ようやく顔合わせの許可が出たときには、しかしてエリオットは最高学年のしかも間もなく卒業という時期に差し掛かっていた。


落ち込まなかったといえば嘘になる。

学校内での婚約期間を過ごしたかったという願望がなかったとは言わない。

好きな相手と婚約して、あれこれ想像しないわけがない。



それらはエリオットの望みに(いびつ)に絡み、相変わらず小さい頃に読んだ絵本のように髪に口付けされることが憧れだと豪語して、憧れ(それ)ばかりにしか意識が向かない彼女の中を、自分のことでいっぱいにしたくて堪らなかった願望に拍車をかけていたのだと気が付いたのは、もっとずっと後になってからだ。






「はじめまして、エリオット・ストレイスです」

「アリス・ピリーです、はじめまして…ストレイス様」

「どうかエリオット、と…」


念願が叶った時、人はどうしようもなく顔が緩んでしまうのだとこの時身を持って知った。


だらしなくなりそうな口許を意識して胸に手を当て軽く頭を下げると、柔らかな声が自分の名を呼んで甘い痺れに背筋が震えた。ゆるりと姿勢を戻し、あれほど切望していたエバーグリーンの瞳によく見知った男の顔を認めて心が歓喜する。と同時にそこに困惑の色もあることに、身勝手にも落胆している自身に気が付いた。


気持ちの差など、とうに承知していたはずのことなのに。



顔合わせは順調で好感触だった。その後は何度かの逢瀬の(のち)、無事に婚約を結ぶことができた。それなのに、とても喜ばしいことにも関わらず、エリオットの脳裏にはあの困惑しかないエバーグリーンがいつまでもチラついていた。

果たしてそのせいなのかどうなのか、欲深い自分がうっそり囁いてきた欲望にエリオットの意識はあっさりと降伏する。



君の中が俺でいっぱいになればいい。そうすればいい。



それだけが頭の中を埋め尽くした。






婚約してから程なくして、彼女はなぜか元々きれいな髪の手入れに更に力を入れるようになった。

おそらく憧れへの為なのだろうとエリオットにはすぐに察しがついた。それが少し不服だったものの日に日にきらきらと光を帯びるようになる髪に、それが自分の気を引く為でもあるような気がして満更でもない気持ちになる。さらには、エリオットの前以外ではその艶めいた髪を結っているのだと知ったときには、さすがに表情筋を抑えるのは辛かった。


初めて迎えた彼女の誕生日パーティーでは、エリオットは彼女に花束を送った。

花言葉に愛にまつわるものをもつ花を数種類交えて贈ったけれど、彼女が気が付かなかったことはエリオットにとって少し残念ではあった。まあでもと、きれいな花束に頬を染めている姿がとても可愛かったのでそれでよしとした。

そういえば散髪をしたのも好評だったようだと思い出してひとり口許を緩ませていると、偶然それを目撃した兄が顔を顰めていた。失礼な。


それからエリオットは卒業してしまったので校内にいる不純な輩に釘を刺す意味を込めて、学校への送迎を始めた。アリスがエリオットの身体を気遣ってくれたのが嬉しく思った。




それから。


それから。


少しずつ、少しずつ。

ゆっくりと。



ピリー侯爵は若輩者(エリオット)の考えなどお見通しではあったが、アリスが拒んでいない様子に黙認してくれていた。きっと少しでもアリスがエリオットを拒絶するような仕草を見せれば容赦はないだろう。自分を売り込んでから数年経つが、あの人は最愛以外に容赦がないのはエリオットはすでに身に沁みてわかっていた。

愛娘の婿候補だからなのかもしれないがともエリオットはひっそり思ってはいるが、ひとまずそれは置いておいて、ピリー侯爵の元で学ぶことはとても新鮮で刺激的でもあった。自分の世界が広がっていくような感覚に高揚感を感じているとアリスには子どものようだと笑われたが、その笑顔に逆に目を奪われたのをよく覚えている。


順調だった。

時折、エリオットの中で狂おしい程せり上がる想いがあったが、彼女の中を同じように自分のことでいっぱいにしたいという願望に置き換えれば堪えられた。

そうして、アリスのエバーグリーンの瞳が少しずつ色を帯びていく様子にエリオットは仄かにほくそ笑んでいた。





その頃だった。



「まぁエリー!」



エリオットの前に、あの女が現れるようになったのは。



最初、ピリー侯爵の課題で人脈作りに顔を出した夜会で声を掛けられ驚いた。


「こんな所であなたと出逢えるなんて……、いやだわ、感じてしまうものがあるわね。ね、エリーもそう思うでしょう?」

「………………どうやら人違いをされているようです」


シナを作り媚びるような笑みを浮かべ視線を流してくる彼女を見て、エリオットは何も変わらないなとやや辟易気味に思った。


在学中によく勘違いの言動を繰り返し、女子生徒から遠巻きにされていた彼女をエリオットはよく覚えていた。まあ、卒業して半年も経っていないのもあるが、身辺整理をした後に、逆になぜか近寄ってきて頻繁に声を掛けてくるようになったので、そちらの印象が強くて覚えていただけでもある。

当時適当にいなして放置していただけのエリオットからすれば知人ですらない認識なのだが、彼女の中では何が一体どうなっているのか。そのエリー(呼び方)も何がどうなってそうなったのか、誰か説明してほしいとも思ったことを芋づる式で回顧した。


ひとまず、課題で訪れている社交場で騒ぎを起こすのは非常に得策ではない。


瞬時に脳内で判断を下したエリオットは、当たり障りのない朗らかな笑みを浮かべすぐさまその場を後にした。そのお陰で課題はあまり捗らず、侯爵には彼女の事も併せて包み隠さず報告したが、案の定というか小言という名のお言葉を幾つかいただく羽目になった。次いで()()()()()()()とも言われてしまった。エリオットとしては薄々予想していたことだから、驚きはしないが乗り気もしなかった。


「対処、ねぇ」



独りごちたそれは、誰に届くこともなく空気に消えていった。




それからの日々は、少しだけ忙しさを増したような気がした。

侯爵からの課題をこなし、地盤作りに奔走し、人脈作りに邁進する。

その合間、時折現れる彼女の対処と調査はエリオットに多大な負荷を残していった。


唯一、アリスとの時間だけがエリオットを癒やしてくれた。アリスのふとした仕種に可愛いと思い、知らないことを知ろうとする姿勢に感心し、こだわりの強さに頑固さを感じて思わず笑みを溢した。相変わらず少ししか、指先しか触れはしないけれど、交わす会話やその笑顔にエリオットはいつも心を奪われているよう気持ちを抱き、いつか彼女もそう思えばいいのにと願わずにはいられなかった。


ちょっとした壁はあるけれど、順調だった。



そう、思っていた。







「え、お茶会を減らす?」

「はい。父から聞きましたが、やはりエリオット様はお忙しいのでしょう?」


課題も多いそうですね、と気遣った柔らかい笑みに、エリオットはなぜか背筋がひんやりとするのを感じた。婚約してから半年過ぎた頃だろうか、彼女が馬車の中で告げたそれはエリオットにとってはまさに寝耳に水のことだった。

向かいに座るアリスのいつもの表情とは反対に、本能的な忌避感を覚えたエリオットが咄嗟に口を開くも、運悪く学校に着いたと知らせる御者の声に遮られてしまい、やむなく話はそれで仕舞いにせざるを得なかった。なぜと問い詰めたい気持ちがぐっと喉元にせり上がってきてはいたが、気遣ってくれた彼女の心を汲むことで己を納得させ、いつものように先に降りてエスコートに手を差し出す。すると、彼女はすぐには手を添えず、少しの間エリオットの手を眺めてから徐ろに腰を上げた。


そのなんでもないような間は、なぜかエリオットの心に小さな爪痕を残した。


「では、いってまいります」

「…いってらっしゃい」


遠ざかる背中に何かが喉に引っかかるような、そんな微細な何かが付き纏う。それに軽く眉を顰めたエリオットは思考を巡らせるも原因は判然としなかった。


それからだった。




「エリオット様、昨日は―――」



何かが。



「エリオット様は、今日のお茶は――」



何かが、少しずつ変わっていくような。


アリスの笑顔も、話し方も、どこもかしこもいつも通りなのに、何かがほんの少しだけ引っかかるような。軽く肌を爪のない指で引っかかれたような。そんな小さな、違和感とも呼べないようなものをふとした瞬間にエリオットは感じるようになった。


「今日も来ていただいてありがとうございます、エリオット様」

「……俺がしたくてしていることだよ、お礼は不要だと最初に言ったよね?」

「でも、感謝を伝えることは大切ですから。わたしはそう感じたら、そう言いますよ」

「そう…」


馬車で迎えに行けばそう微笑まれて二の句が継げないで黙ると、楽しそうにアリスが笑う。すると、その間をさあっと風が吹いて、アリスのきれいな髪が乱れた。舞い上がるその絹糸のようなそれに思わずピクリと指が反応して腕が上がりかけたが、気付かれないようエスコートに切り替えて手を差し出す。


「お手をどうぞ」

「……ありがとうございます」


エリオットが誤魔化しも兼ねて芝居がかってそう言えば、少し息を飲むような気配がしたと思ったけれどすぐ指先に体温が触れる。


「足元に気をつけて」

「はい」


にこりと微笑む彼女はやはりいつも通りにしかエリオットには見えなかった。


そんなやり取りをして、課題をこなして、そうして日々を過ごしていく内に、そんな些細なことにはすぐに慣れてしまい、気にしなくなっていくのはあっという間だった。



でもなぜか、それまで順調だとすら感じていたものがぱたりと止まってしまったような。アリスとエリオットの間の距離がぽっかりと開いたような、そんな手応えのないことも増えていった。




それから気がつけば、自分の誕生日パーティーが近付いていた。


「こちらが招待客のリストだ、今日中に確認をしておいてほしい」

「はい」


ストレイス家でエリオットは兄から手渡された紙面にさっそく目を落とす。親しい者、家の繋がり、と順々に確認していくと、ふと、用事が済んだはずの兄がまだその場に留まっていることに気が付いた。視線を上げると似ているとよく言われるその顔に微かに躊躇うような色を見せ、疑問符がエリオットの頭上に浮かんだ。


「兄上…?」

「………、その、アリス嬢とは」


言い淀む姿に珍しいこともあるものだと、次期伯爵として厳しい教育をこなしている兄を見ていたエリオットの目には新鮮に映った。けれども、躊躇いがちに口にされた己の婚約者の名に軽く目を瞬いた。


「アリスがどうかしましたか?」

「……」

「兄上?」


そう問いかけても、またもや口を噤んだ兄にエリオットの眉は訝しげに(ひそ)められる。思い当たる節がないエリオットが再度声を掛けてみるものの、視線は下へ向き眉間に皺を寄せ沈黙でもって返されるその姿にどうしようもなく不安が駆られた。


「……」

「……」

「…………」

「……」

「………………いや、すまなかった」


少ししてようやく口を開いたかと思ったらなんでもなかったと頭を振られたのに、盛大に顔を(しか)めたのは悪くないと思う。


「招待状を直接手渡す相手は、名の横に印を付けておくように」

「……はい」


文句のひとつでも。そうは思ったけれども兄はもうエリオットは見ておらず、先程の躊躇いは見間違いだったのではと思うほどきれいに切り替えた。こうなると追求は難しい。そう知っている長年の弟は渋々ではあったものの、了承の意を示しこの場はお開きとなった。

立ち去っていった兄を見送った後、消化できないもやもやを吐き出すかのように鼻をふんと鳴らしたエリオットは、気を取り直して紙面へと視線を戻す。ひとまずこれをチェックしてしまわなければと、彼なりに切り替えた。



これもきっとひとつのきっかけだったと知るのは、この、後。

それはいきなり眼前に突きつけられるのだ。





「ねぇえ? そろそろ(わたくし)とのこと、本腰をいれてくれもいいのでなくて?」


何度目かの邂逅。

思わず出そうになったため息を、エリオットは手持ちの飲料で勢いよく飲み干した。

簡単なあいさつすらもすっ飛ばし、唇に指を当て小首を傾げた彼女が口にしたのは果たしてこの国の言葉だろうかとエリオットはこの時本気で考えた。


「……何のお話か、皆目見当がつかないのですが?」


努めて平静を装って空のグラスをトレーに返し、新しいグラスを貰う。頭痛がしそうで笑みを(かたど)っていた口端がヒクリを跳ねた。


「そんな演技しなくていいのよ? 私は分かっているから」


甘ったるい声音と同時に一歩近付かれたことにより、より香ってきた香水にぞわりと鳥肌がたつのが分かった。しかし表面には欠片も出さず、軽く顎を引いてやんわりと咎める。


「演技とは? それに、以前にもお伝えしましたが俺には婚約者がおりますので、あまり接近するのは遠慮していただけると――」


ここには、旧知に声を掛けられ招待状を渡すこともありたまたま顔を出したに過ぎなかったはずだった。誰だ彼女に声を掛けたのは、と見も知らずの人物に内心で歯噛みするエリオットに構わず、はしゃいだように高くなる声に今度こそ隠すこと無く片眉が跳ねた。近くの人々が訝しげな視線を彼女へと送るのが視界の端に映る。何人かは足が遠退いていって、ぜひ俺も連れていってほしいとエリオットは投げ遣りに思った。しかしすぐに人目があるのだったと気を引き締めたときだった。


「まぁ! それよそれ! 婚約者なんて言うから誰かと思ったらあのアリス・ピリーだったなんて驚いたわ」

「!」

「あなた、学校ではいつもいつも彼女のこと見ていたわよね? あれって髪のことしか頭にない残念な女が物珍しかったからなのでしょう? ああ、それとも憐れみか何かだったりするのかしら?」


面白おかしくきゃらきゃらと笑う彼女とは反対に、エリオットは背筋が冷たくなるのが分かった。思わず身体が力み、鼓動が僅かに早まった。なぜアリスを知っているのかと一瞬不審に思ったが、婚約しているのだから少し調べればどこの誰かくらいは出てくるだろうと改める。ひとまず気を取り直す為にグラスの中身で唇を湿らせてから、変わらぬ口調を努めて口を開く。


「いえ、単純に俺が彼女が気になっただけで…、婚約に関してもピリー侯爵に正式な許可を得ているもので――」

「ふふ、もう! いいのよ、そんな演技は。私には全部分かっているのだから」

「は」


艶やかに唇を釣り上げ、その手に持っていたグラスの縁にべったりとその色を残して中身を飲み干していく。片手で羽虫を払うかのようにされ、まるでエリオットの気持ちを軽いものだと言われたような気がして腹の底がはっきりとかっとなった。

また、演技。

全く心の辺りのないエリオットの眉間に皺が刻まれた。


「話が見えませんが演技とは――」

「もう! 分かっていると言ったでしょう? 全く、私の気を引きたいからってやり過ぎは気分が悪くなるわよ!」

「―――」


理解が及ばず言葉が出てこなかった。

そんなエリオットに気付かず、彼女は上機嫌にあなたは学生の頃からそうだったわと遠い目をして笑んだ。


在学中(あの時)、私がエリーに声を掛けたのに釣れない態度だったのは、私に覚えておいて欲しかったからなのでしょう? うふふふ、正解よ。私…、あなたが忘れられなかったわ」


あなたの作戦勝ちね、と色を含んだ瞳で流し見られ、過去最高水準の寒気が全身に走った。



そして。



「エリー、大丈夫よ。あなたが今の婚約をしたのは、私を待つ為の時間稼ぎだってちゃんと分かっているわ」

「な、にを言っているのか――」

「あなたこそ、何を言っているの? あなたとアリス・ピリーの婚約が()()()()なんて揶揄されるくらいうまくいってないことは、みんなもう分かっていることよ。心配はないわよ、この公爵家の私にかかれば簡単よ、だから安心して待っていて?」

「―――、」


ガツンと頭を殴られたような気分だった。

世界からあっという間に音が遠退いていき、ただ茫然とする。


なんと言った。知人?


「ふふふ、そうよそうよね。だってエリーが愛しているのは私だけですものねぇ」


全ての雑音が遠退いた中、楽しそうに、どこかを見ながら頬に手を当ててうっとりと笑う耳障りな声だけがこだました。

ここ数年で一段と酷使するようになった脳がそれらを理解するのにさして時間は要しなかった。そして、エリオットの今までの行動による影響を弾き出すのも同様だった。


「―――そんな」







「―――ようやく、か…」


聞き様によっては皮肉にも取れる苦々しい声が落ちて、エリオットははっとした。気が付いた時には、ストレイス家に戻ってきていた。あの場からどうやって離れたのか、記憶を辿ってみたがあいにくと残っていなかった。

丁度鉢合わせたらしい兄は、茫然としたエリオットの顔を見て何かを察したらしく似通った顔を歪めていた。


「知ったんだろう、なんと噂されているのか。…だから言ったんだ」

「……」

「当然、侯爵閣下の耳にも入っているだろう。学校の中での噂だからと思わず、覚悟しておいた方が良いだろうな…」

「……」


重苦しく響く厳しい声音に何も言い返せず、ただ頭を下げた。


「エリオット、お前は結局何をしたかったんだ」

「………」


そして、その言葉に返す言葉も今のエリオットにはなかった。




自室に戻ると明かりを灯す気にも、礼装を解く気にもなれず、暗い中二人掛けのソファに深く腰掛け背もたれに後頭部を預けた。視界には暗いせいで模様が見え難くなった天井が映る。エリオットは茫然とそれを見るともなしに眺めながら、頭の中で延々と繰り返されているあの女性の言葉と兄の言葉を口の中で呟いた。



知人婚約。だって。

なぜ、そんなことになる。



何がしたかったか。だって。

ただ彼女に俺を見て欲しかった。



俺を好きになって欲しかった。


ただ、本当に、それだけだったんだ。




しかしそれが他人の目にはどう映っているのか、完全に失念していたのはエリオットだ。こうなるまでそこに考えが至らなかったことの事実が、その身に重くのしかかる。


極端に触れない婚約者に彼女は何を思ったのだろうと、想像するだけで胸のあたりが酷く痛んだ。


思わず手の甲で塞いだ両目の瞼の裏にエバーグリーンがちらつく。恋い焦がれるあの人の色に、どうしても逢いたいという我儘な気持ちが募る。今すぐ駆け付けて、頭を下げて、縋り付いてでも許しを乞い、違うのだと伝えたいと願う反面、情けなく、みっともない姿をアリスに見られることへの恐怖と、憧れが叶う婚約者ではなかったと切り捨てられるのではないかという恐怖がエリオットの中を埋め尽くし、どうしようもない混沌へと突き落としていった。



それでも等しく朝はやってくる。

どれだけ後悔しようとも、懺悔をしようとも。


結果的にエリオットにはやはりというか睡魔が訪れることは結局なかった。


カーテンの隙間から差し込む朝日に顔を顰めていると、ツキツキと微かにこめかみの辺りが痛む。睡眠などできはずもなかったのだから当然か、と重いため息吐き鈍い身体を起こして準備に取り掛かった。




「おはようございます」

「おはよう、アリス――」


いつもの時間に屋敷に向かうと、制服に身を包んだ彼女が微笑みながら出てきて自然と頬が緩むのを自覚しながらも挨拶を交わす。いつもの彼女の柔らかい声音にほっと息を()く。そして自ずと混じり合ったエバーグリーンに、エリオットは辛うじて表面には出さなかったが愕然とした。


「………」


耳元でがらりと何かが崩れ落ちる音がした。急速に血の気が引いていく。

どこかでまだ楽観視していた自分に気が付いて言葉を失った。


なぜアリスが耐えていると思えていたのだろう。彼女の瞳に色が宿っているのを見ていたからか。


根拠のない愚かな自分の考えにも気付いて、おめでたいやつだと可笑しくなる。頭を抱え蹲ってしまいたい気分だった。



本当に、心底、何も見えていなかったのだ。

おそらくこれはあの変な感じがしていた半年程前からだったのだろうと、頭の隅で点と点が線になる。

それだけ都合の良いところだけを切り取って、自分の見たいところだけを見ていたのだとまざまざと思い知った。



アリスの瞳は、エリオット・ストレイスを()()()()()()()()()()

いや、視線は確かにエリオットに向けられているし、エリオットとて目が合っていると認識してはいる。

だが、と目が醒めたエリオットの本能が明らかに警鐘を鳴らしている。


「どうかしましたか?」

「―――」


心配そうに見上げてくるエバーグリーンの瞳は、エリオット自身を()()()()()()()


()()()()()()として見ているだけの瞳だった。



エリオットが欲しい切望していたものは、もはや彼自身を見てはいなかった。




状況は最悪だった。アリスを送ったその戻りの馬車の中で思わず両手で顔を覆った。


アリスは、彼女は侯爵令嬢としてある程度の義務を承知していた。おそらく家の事を考え切り捨てはしないかもしれないが、最悪心を傾けてくれることはないだろう。

エリオットが欲した、アリスの心は永遠に手が届かないことになる。

しかも、もしかしたら将来目の前でエリオットではない、他の誰かに心を傾ける姿を見なければならない日がくるのかもしれない。

胸の辺りをぐりぐりと抉るような痛みに、堪らず服の上から強くそこを掴んだ。



「そんなことはだめだ…」



そうだ嫌だ。


アリスの傍にいたい。

アリスと一緒にいたい。

アリスが好きで、愛していて、その心が欲しかった。

アリスにエリオット自身を見て、考えて、好きになって、エリオットの心を受け入れてもらいたかった。

アリスの傍から離れるなど、まして他の誰かとなんて考えたくもない。



ではどうするのか。



情けない姿など今更ではないか。すでに婚約者を蔑ろにしている男に成り下がっているのだから。ならば後は這い上がるだけだ。

そう考えると、むくりと自分の中で起き上がる何かを感じた。


アリスは頑固だが、情に脆い。泣いて縋って、恥も外聞もかなぐり捨ててひたすらに謝るしかないのだ。愛を乞うのはその後だ。


現状ピリー侯爵から連絡が無いということは、アリスが最終判断を下してはいないのだろう。ではその前に行動しなければと、焦燥にも似た思いでエリオットの脳内は目まぐるしく展開していく。そこで昨日、旧知に手渡してきた招待状の存在を思い出してはっとする。瞬時に脳内に日程も思い浮かべるとすぐさま御者へ合図を送り道を急いだ。







エリオットは戻ってまず一番に手紙を書いた。そしてそれを出し終えた後は、父、ストレイス伯爵の所在を確認した。今日は執務室にいると確認すると時間を貰えないかと打診した。

言伝を受けた使用人はいつものエリオットからは想像出来ない程の気迫を感じて口許を引き攣らせていた。そんな使用人の様子に僅かに申し訳ない気がしないでもなかったが、エリオットにとっても一大事であるからして到底抑えておける余裕はなかった。

こういう所はまだまだなだと、早足で立ち去る使用人の背中を見ながら客観的に思った。


もしかしたら翌日になるかもしれないと予想していたが、意外にも希望はあっさりと叶った。

すぐに戻ってきた使用人から、今、と返事が来て驚いた。しかし、早目に希望が叶うのは、時間が惜しい今のエリオットにとっては僥倖であったので使用人に促されるまま足早に執務室へ赴いた。



「――ふぅん? 聞いてはいたが目が醒めたのは本当のようだな」

「…」


重厚な机を挟み対面した息子に伯爵は開口一番にそう言った。つまりは筒抜けであったことを悟り、エリオットは苦い思いに下唇を噛んだ。


「それで、(わたし)に用とはなんだ?」

「影を二名ほど貸していただけないでしょうか」


気を取り直して本題を告げると、伯爵が片眉を少しだけ上げ目で続きを促す。


「一名はアリス……ピリー侯爵令嬢へ付いてもらい、もう一名は隣国へ調べ物を頼みたいのです」

「…令嬢には侯爵家の護衛が付いていると思うが?」

「今、俺が正確に情報を得るには、侯爵家ではなく伯爵家の影が必要です」

「………青いな。まぁいいだろう、許可する」


ふっと笑われ見上げてくる瞳はとても楽しそうで、エリオットは素直に顔を顰める。


「それでこれからどうする?」


その回答など、とっくにエリオットの中では決まっていることだった。














後半戦に続きます。

最後までお付き合いくだされば幸いです。

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