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一幕 後編

長くなりましたので分けました。






友人と何やら含みをもたせた眼差しの伯爵らに見送られ、アリスが連れて行かれたのは中庭だった。

流れるように左手を掬われ、でも先刻のような絡ませた方ではなく、だたいつものようにエスコートされながら宵闇へと色を変えていく空の下、バルコニーから中庭へと降りるとアリスはいつもの癖でぐるりと庭園に視線を巡らせた。

婚約相手のピリー家をエリオットが訪れるように、アリスもストレイス家を訪れたことがある。中でもこの庭はお気に入り場所でもあった。相変わらず細やかに手入れのされた草木は美しく瑞々しい。さらには日中とは異なり、外灯はあるが夜の気配にその色を濃くさせていて、見慣れぬ庭園に思わず少し魅入ってしまう。すぐに気を取り直して導く手に従い足を進めると、柔らかな芝生の感触を靴底に感じ心地よい風がさらりと肌を撫でる。後頭部から垂れたリボンが風に巻き上げられていくのを感じた。


しばらく歩を進めていくと、背後から聞こえる穏やかな音楽が段々と小さくなっていく。互いに言葉を交わさず、黙々と進む彼の空気にいつもと違うものがあるように感じられたアリスはそっと隣を伺った。


「!」

「!!」


途端、ばちりと濃紺色にぶつかって驚いた。

咄嗟に視線をエリオットとは反対側へ逸らして誤魔化すも、ばっちりと合った瞳にあっという間に顔中に熱が集まる。それから吐息混じりに苦笑する気配も隣から漂ってきて、なんとも居心地の悪くなったアリスは庭に視線を固定したまま今日の出来事を整理することに意識を飛ばした。


エリオットの話とは、一体なんの話なのだろうかと思考する。

あの女性のことは、あの日街で言っていたことが一方的な妄言だということは、先程の彼のあの表情や声を聞く限り本当のことだろう。となれば、アリスがここ数日考えていた婚約解消の可能性は、恐らく低いであろうことに少し安堵すると共に己の軽々しい発言が思い出されて心が重くなる。

自分の愚かさに頬を殴ってしまいたくなるのを、ぐっと頬の内側を噛むことで堪えた。


では一体と、視線を巡らせエスコートされた自分の手に行き着く。


そういえば、今日はなぜ――。


「――ッ」


ふとアリスの脳裏にその手や腕の力強さや優しさ、そしてその温もりが蘇り瞬く間に思考が沸騰する。せっかく引いた熱が再び頬に集まってくるのを感じて、慌てて小さく頭を振った。きっと人の目が多いパーティーだから、彼なりに気を遣ってくれたのだろう、きっと日常に戻れば元通りに。

一番の可能性を思い立つと、胸の奥がツキリと傷んだが気が付かないふりをした。





やがて、歩を止めたエリオットがゆっくりと振り返る。再び向かい合わせに立つと、アリスの胸は緊張から鼓動を早めた。

微かに届く音楽と時折吹く風が草木を揺らす音だけが空気を震わせる中、彼はすぐに口を開くことはなく、アリスに至っては気まずくて視線を上げられずにいて、なんともいえない雰囲気が辺りに漂う。それでも添えられた手は、どちらともなく離れることはなかった。


そんな中、先に口を開いたのはアリスの方だった。


「―――あ、あの! エリオット様、先程は助けていただき誠にありがとうございました! そしてこの度は本当に申し訳ございません!!」

「!」

「彼女の言い分を確認することもせず一方的に鵜呑みにして―――」

「アリス、アリス。大丈夫…大丈夫だから落ち着いて……」


意を決して握り締めた右手を胸元に当て、さっと頭を下げる。リボンが項を滑って顔の横へと垂れた。

緊張のせいで声が上擦ってしまったが、縺れそうになる舌を動かしていればなぜか宥められてしまいアリスは動揺する。ぱっと反射的に視線を上げると宵闇に染まるネイビーブルーの瞳とかち合って、喉の奥が微かに震えた。


「でも」

「君を守るのは当然のことだし、謝罪をするのは俺の方だ――……」


固く強張った声音が静かに響く。その些か()()()孕んでもいるように聞こえなくもない声音にアリスは何かが引っかかるような気がしたけれど、次いですっと下げられたライラックに驚きが勝ってコロリと吹き飛んだ。


「エリオット様?!」

「俺のせいで君を巻き込んでしまった。本当に申し訳ないことをした」

「いいえいいえ! あ、頭を上げてください! 謝罪はわたしの方で――」

「いや違う! 違うんだ!!」


大きな声に遮られ、ビクリと身体が強張った。


「――ッ、すまない。大きな声を出して、驚かせた」


すぐにいつもの声量に落としたエリオットが謝罪を入れるが、強張った喉から音は出ず辛うじて首を振ることで応えた。そんなアリスの様子に微かに顔を歪ませたエリオットは、瞳を伏せると左手で口許を覆い余分な力を抜くかのように息を吐く。


「俺の場合は自業自得なんだ。俺が在学中にきちんと対処していれば、巡り巡ってこのようなことにはならなかっただろう。()()()()()()()()も、先程の件も、君に要らぬ恐怖を感じさせてしまったのは全て俺が対応を怠ったからだ。………こんなはずじゃなかった……」

「エリオット様…?」


顎を引き下を向いたままの顔に鎮座している二つのネイビーブルーがくしゃりと歪む。最後の方はエリオットの口の中に消えてしまいアリスの耳には聞こえてこなかった。もしかして街での事を知っているのかと疑問が少し頭を擡げたが、今は聞くべき時ではないと口を噤む。


「なぜ彼女がアリスを知っていたと思う? 俺と君が婚約を交わしたのは卒業間近。しかも君は俺と校内で会話をしたことがなかったのに、あの日彼女は正確に君に声を掛けた」

「ぇ? それは…」


唐突な問いに、はた、と瞬きをひとつ。アリスは瞳を巡らせて一昨日の出来事を思い出し、調べたのではと思ったことをエリオットに告げるも緩く首を横に振られてしまう。戸惑うアリスを見やった後、何かを逡巡するように斜め下へ視線を泳がせたエリオットの目元に、伏せられたまつ毛が繊細な影をつくる。その喉がこくりと上下して、少し覗いた舌が下唇を湿らせて。やがて、一度瞼を閉ざしひとつ息を吐いたエリオットが瞼を開けると、その瞳に諦めたような色々な感情が混じり合った複雑な色を宿しているのが見て取れた。

心做しかその目元が、うっすら血色が良いようにも見える。



「―――俺が、ずっとアリスを見ていたからなんだ」


「ぇ」



見ていた。とは。



「…………実は、俺が元々在学中から君を知っていたんだと言ったら……驚く、かな。何度も廊下ですれ違ったこともあるんだよ…?」


君はまったく俺に視線をくれたことはなかったけれど、とエリオットが思い出したように軽く眉を寄せて苦く笑う。その見たことのない彼の表情に、驚きよりも釘付けになった。バクリと耳元で心臓が拍動する。


「偶然、だった。その頃の俺は家には兄上がいれば安泰だろうって人生を簡単に見ていたときで…、ひたむきに一途に努力し続けているアリスの姿を見た時は、目から鱗が落ちるみたいだったんだ。そして、あっという間に君の虜になった。それからは心を入れ替えて、()()()()()()()()日々精進するようになって……。髪の乙女に心を盗られた男、なんて揶揄われたりして結構話題になってたみたいだったけど、アリスは知らない―――よね、やっぱり」


耳に心臓がくっついてしまったのではないかと思う程に喧しい。

当時を思い出しているのだろうか、少し遠い目をした後に恥ずかしそうに苦笑いして見せるエリオットに心臓がきゅっとなるような感覚を覚え胸元の右手を衝動的にぎゅっと強く握り締める。彼のひとつひとつの挙動は、どうしてこうもアリスの小さな胸を簡単に翻弄してしまうのだろうか。


「あの女性に声を掛けられたのはその後だよ。ああ、誓って彼女とは本当に何も無い。むしろ断ったのに勝手に付き纏われて……。ただあの通りの喧しさに加えて妄言が酷かったから、相手にしない方が良いと思って放置してしまったんだ」

「で、ではなぜ、あの方は在学中ではなく、今になってわたしに会いにきたのですか…?」


アリスはエリオットの言葉に引っかかりを覚えた気がしたけれど、霧を掴むようでよく分からない。うるさい心臓から気を反らして尋ねれば、エリオットの表情が引き攣り苦虫を何匹か噛み潰したような顔になる。瞳が伏せられ、長いまつ毛がまたその目元に陰影をつくった。


「……俺が、君に極力触れないでいたせいだよ」

「…」

「知人婚約」

「!!」

「そう言われているんだってね」


エリオットが重く、苦々しく呟いた。

アリスは、ドキリと心臓を鷲掴みされたように感じた。瞬時に口の中がカラカラになる。それはエリオットに一切伝えたことのないものだったからだ。


「ど…してそれを……」

「ご丁寧に教えにきてくれたよ、…彼女がね」

「……」

「成績が思わしくなかった彼女は、最高学年の辺りからは俺の周りには現れなかったけれど、卒業して俺がピリー侯爵様に付き始めてしばらくすると、また声を掛けてきたんだ。もちろん、当然即座に断ったよ、俺には婚約者がいるんだと。でも彼女は学生の時よりも厄介になってて、俺がアリスに触れないのは、自分と婚約する為の時間稼ぎだなんだと自分の都合の良いようにあれこれ思い込んでた。挙句の果てには、アリスに直接会うなんて…ッ」


それは自嘲する乾いた笑い方だった。いや、笑っているように見えただけだった。

きゅっと、離れていなかった左手の指先が柔く握られる。でも、その体温はいつの間にか冷たくなっていて、そちらにアリスの意識が傾いた時だった。



「俺が…触りたいと思うのも、見つめていたいと思うのも…、その人の全てが欲しいと思うのも………全部アリスだけ」


「―――ぇ」



ゆっくりと、どことなく切羽詰まったようにも聞こえる声音が瞬時にアリスの意識を引き戻す。はたと瞬くと目の前には真っ直ぐにアリスを映すネイビーブルーがあって、その真剣な眼差しに瞬きすら忘れて魅入った。



「好き、です。アリスが……ずっと……一目見た時からずっと好き、好きなんだ」

「―――」



一瞬にして頭の中が真っ白になった。

何もかもが吹き飛んで、何も残さなかった。


「本当は、パーティー会場で君を中央に連れ出したあの時に告げるつもりだったんだ……」


結果はあのざまだけど…、と悔しそうにエリオットが唇を噛む。

アリスは瞳をグラグラと揺らす。うまく働かない頭のせいですぐには言葉が出てこない。その様子に心境を正しく把握したエリオットがやんわりと眉尻を下げた。


「信じられない……? 俺がアリスに触れなかったのは、ただ俺だけを見て欲しかったからなんだ」


ゆっくりと持ち上げられた手がアリスの頬に伸ばされる。けれど、何かに気付くようにぴくりと反応した後、数秒空中で静止して握り拳になって下げられた。


「伯爵家の次男でしかない俺より好条件の男なんて履いて腐る程いる。だから…焦ってたんだと思う。侯爵様に自分を売り込んで君の婚約者になれたのは嬉しかったけれど、すぐに卒業して大半は会えなくなるから。――俺はこんなにもアリスが好きなのにって」


そう言って再び瞳を伏せる彼が複雑な顔を覗かせて、茫然とするアリスの脳裏にふと初めて会ったときのエリオットが浮かんだ。


「憧ればかりの君に俺だけを考えて、俺だけを見て欲しくて……。アリスが()()()()()()興味を抱いてくれるまで、エスコート以外では触れないようにしたんだ」


これが真相、と情けないような、切ないような、そのどちらもともとれる声がアリスの鼓膜に浸透していく。想像だにしなかったことばかりで声も出ない。


「でも結局はそればかりに夢中になって……君が少なくとも親しくなろうと歩み寄ってくれていたのに、俺は結果としてそれらを蔑ろにした。さらにはこんな厄介事まで招いてしまって………俺は間違えてばかりで……本当にすまない」


空が彼の瞳と同じ色に染まる。罪を告白するかのような声が、静かにアリスにだけ響いて消えていく。

ずっとアリスを映したままのネイビーブルーの奥に、切なさと熱とが複雑に入り混じって燻っているのが見える。目元が赤く見えているのも、決してアリスの見間違いではないのだろう。


「アリス、君が好きだよ。これからも、これまでの分も君には俺の心を貰ってほしい」


「すき…」

「そう、アリスが好きで愛してるんだ」



ひたむきに、剝き出しにされた心がそっと差し出されるのをアリスは茫然としていた。


「―――…」


突然の告白に全く頭がついていけず真っ白になったままのそこに、エリオットがくれた言葉が反芻していく。噛み砕くようにゆっくりと、浸透していくかのようにそれはアリスの中に響いていった。



すき。


エリオット様がすきだと言った。


好きだと。

触れなかったのはアリスの気を引くためだったと。



じわじわと、温かいものがアリスの胸の奥に溢れてくるような感覚を覚える。その心に触れて、アリスの心を彩ったのは紛れもない歓喜であった。




刹那。


耳元で誰かが嘲笑う。




ずっと彼を疑っていたくせに。




「――――…ッ」



瞬間、アリスはほとんど何も考えずに、大きな手に預けていた自分の手を引き戻した。

次いで、その衝動に促されるままに数歩後退る。


唐突なアリスの行動に大きく見開かれたネイビーブルーが困惑に揺れるのが見えて、見ていられなくて顔ごと視線を逸らした。


「アリス…?」



「――わたし、は……うけとれません」



それはあまりにも小さい声で、あっという間に空気に溶けて消えた。

数分前とは異なりツキツキと胸が軋んで、喉がぐっと狭まる。好きだと言ってくれたエリオットの気持ちに反応して、アリスの身の内でどんどんと膨らんでいく気持ちが胸を圧迫しているようで苦しい。思わず自由になった両手を胸に押し当てるけれど気休めにもならない。

じりじりと後退るアリスに、空になった手が伸ばされるのを距離を取って避ける。困惑してぐらぐらと揺れているような声が彼女を呼んだ。


「アリス…、どうして――、俺の気持ちは迷惑だった…?」

「わ、わたしに…受け取る資格は、ありません…」


小さく(かぶり)を振り、引き攣った喉ではほとんどしゃがれた声になってしまった。



「だって…、わたし……わたしは、―――」


足元に視線を落として、きつく唇を噛み締めた。

気が付いて愕然とした。ぶるりと震えが走るのは自分に対しての怒りだ。


だって。


彼は婚約する気がないのではないか。



婚約する前から、そう思っていたではないか。


()()()()()()()()()()()ではないか。



アリスが大事に抱えていたツギハギだらけの想いを、誰かが指を指して笑っているのが耳奥でこだました。



「アリス? 資格って…」


心許ない声がやんわりとアリスを呼ぶ。それにもゆるゆると(かぶり)を振って、ともすれば怒りが滲みそうになる声を抑え彼に誤解されぬようにと慎重に口を開く。


「エリオット様のお話は驚きましたけど、とてもうれしいです。本当に、とてもとてもうれしく感じました。―――でも、……わたしが…、してしまったことを考えると…あなたの気持ちを受け取る資格はわたしにはありません、ないんです」


ゴクリと、口の中の唾を呑み込んで聞き難い声をなんとかしようとしたけれどカラカラだった。


「顔合わせの時を覚えていますか?」

「もちろん」

「あの時わたしは、お互いはじめまして同士で、しかも双方の家に何の得のないこの婚約話を聞いて、エリオット様は本当に婚約をするつもりがあるのだろうかと疑問を抱いきました」


はっと息を飲む気配がする。きっと彼は気付いたはずだ。アリスがどれだけ勝手かを。

そう思うとぐっと胸の軋みが強くなったが、構わず言葉を吐き出す。


「わたしは最初からあなたを訝しみ、偏った見方しかしていなかったんです。そして、エリオット様がご自分の意思でエスコート(必要)以外で触れないのだと気が付いた時、それなりに落ち込みはしましたけれど、同時に納得してしまったのです。――やっぱり何かやむを得ない理由があっての婚約だったんだろうな、婚姻はしないんだろうなって…、烏滸がましくも人の心を分かったような気になって……」


エリオットが静かに聞いてくれることに、あるいは呆れてしまったのかもしれないが、少しほっとしながら震えないように奥歯に力を入れる。だってこれはアリスが仕出かしたことなのだから、これはアリスの罪だ。


「わたしこそが最初からずっと間違えてばかり……むしろわたしの方が……」


エリオットの想いを知った今、後悔が止めどなく押し寄せて来る。絶望に似たそれはあっという間にアリスを呑み込んでいく。



ただ彼は、方法はどうであれ自分の隣を望んでいてくれていただけ。

でもアリスは。



「憧れの為だなんだとあなた自身を見ず、あなたの心を決めつけて、結局あの女性の言い分を全部鵜呑みにして………。さらには愛称を呼んでいる彼女を見て、勝手に裏切られた気になって…。婚約を解消していいだなんて酷いことを軽々しく口にして………わたし…――本当に…、申し訳ございません」


瞼裏に浮かぶのはこの一年という短くも長い歳月の中で知った、様々なエリオットの姿ばかり。



好奇心と向上心に溢れているエリオット。


朗らかに微笑むエリオット。


花束を抱え笑顔を浮かべているエリオット。



今の今になってそのどれもが優しいネイビーブルーの瞳をしていたのを思い出し、アリスの目の奥が熱くなった。けれども、泣くのは違うとぐっと芝生を睨み付けて瞬くのを堪える。


「本当に、髪のことしか頭にない……こんな愚かなわたしより、エリオット様に相応しい方は、ほか、に、……ッ」


しかし瞳は潤んでしまい、さらには掠れた声は喉に詰まって続きが出てこない。


エリオットは自分より好条件はいると言っていたが、むしろそれはアリスの方ではないか。実際、学校ではエリオットは人気だったと色々な女性がアリスに言っていた。きっとアリスなんかよりエリオットに相応しい令嬢は他にたくさんいる。きちんと彼自身を見て、彼を大切に尊重してくれるそんな。


そう言おうと思うのに、つっかえてしまい言えない。浅ましくも彼の隣に立つのは自分でありたいと思ってしまっているからだ。


ああ、どこまでも。



どこか茫然としているままのエリオットからさらに離れ、一歩一歩後ろへと後退する。

最後にあの好きなネイビーブルーを記憶に焼き付けておきたくて、なんとか視線を上げた。



これで終わりしなければ。



「……婚約の解消を――」

「――解消はしない」

「?!」



しかし。

アリスの言葉は、即座に固い声に被せられて遮られた。

次いで、静かな、けれど硬く強い光を宿す瞳がアリスを射抜く。その眼差しはアリスの足をその場に縫い付けるのに十分だった。


「でも」

「俺の気持ちが迷惑だって、幻滅したとか、気持ちが悪いというなら考慮したけれども、そうではないなら聞けない。資格って何? 誰が決めた物? 俺は他の誰でもないアリスの気持ちが知りたいのに」

「わ、たしは、だって、あなたの気持ちを勝手に決めつけて…」

「それを言うなら俺だって、君の心を勝手にしようとしたよ?」

「違いますッ」


思わず荒げた声に、先ほどとは打って変わって落ち着かせようと努めて穏やかな声が掛けられる。アリスはバクバクしている鼓動にぎゅっと胸の前の両手を握り締めた。


「しー…、アリス聞いて。アリスが最初に感じたそれは決して間違っていないよ。むしろ、大抵の初対面の人は裏があるんじゃないかと勘ぐるのは当然だと俺は思う。それに、アリスがそう考えてしまったのは、元を正せば俺が君に気持ちを正直に伝えていれば解決していたものだ。間違っていたのは俺なんだよ。だからアリスは悪くない」

「でもわたしはあなたに聞こうとしなかった。わたしの心があなたはそういう人だと決めつけてしまったのは事実です!」


想いを隠してきれいなことばかりで上辺を包んで、ここまで逃げてきたのだ。その罪を償わなければ。


ふるふると首を横に振り一歩も引かない姿勢でいると、エリオットが眉尻を下げてあっという間にアリスが開けた距離をその長い足で縮めてしまった。


「それなら今から聞けばいい」


気がつけばエリオットの端正な顔がとても近くにあった。


え、とアリスが思うと同時にぎゅうぎゅうに握り込んでいた手が大きな手にそっと解かれる。あまりにも強く握り締めていたらしく、その解いた掌の上に視線を滑らせたエリオットの眉が微かに歪んだ。そのまま優しく保護するかのように指先を包まれ、アリスは目を瞬かせる。


「聞くって…」

「そう聞いてよ、アリスが俺に聞きたいこと全部。俺がどれだけアリスに虜になってるか、とか」

「え」


身長差故、近距離ともなれば自然と覗き込むような形になるアリスの顔を、顎を引いたエリオットが見下ろしてくる。威圧感は感じなかったけれど、そっと寄せられた今までになく近い濃紺色に、ほぼ条件反射のようにきゅっと首を竦めて身を揺らしたアリスは漠然と引き込まれそうだと思った。まるで世界が彼しかいないような、そんな。

互いの鼻先が触れてしまいそうなほどの距離に、無意識にコクリと喉が鳴ったのは。


「君が一途で頑固なのを俺はよく知ってるよ。伊達に君を見続けてきたわけじゃないからね。憧れだけで幼い頃からずっと髪を大事にして来れたのは、その一途さと頑固さがあったからだと思う。けど、でも一度の過ちで君の中の想いを捨ててしまうのは止めて…。互いに間違えたと言うのなら、これから先は二人で気を付けていけばいい。きちんと二人で話し合えばいい。そして二人で支え合っていけばいい。少なくとも俺が想像する夫婦ってそういうものだと思ってる」


強い光を宿していたはずの瞳がいつの間にか迷子のような色をしてアリスに縋りつく。


「ねぇ、俺にはアリスだけ。好き、好きなんだ」


言葉の端々に切実な想いが滲む。それらがまるでしんしんと降り積もる雪のように、止めどなくアリスの心に降り積もっていくのを感じる。どこまでも真摯に差し出されるエリオットの心に、アリスが覚えるのはやはり嬉しさ、喜びであった。


「―――俺を手放さないで」


ともすれば泣いているように錯覚してしまいそうなほど掠れている声で繰り返される想いに、アリスはここまできてようやく離れられないことを悟る。

もはや自分が彼から離れられないのだと、認めた。

その心を誰にも渡したくないのだと。


ああ、このひとが好きだ、好きなのだ。


そう心の底から思うのと、口からそれがまろびでるのはほとんど同じだった。



「―――好き」

「――」


真っ直ぐにネイビーブルーの瞳を見詰めて自分の心を曝け出す。

全部、全部届けと願いを込めて、きゅっとアリスはその指先に力を込めた。


「エリオット様が、好きです。ずっと。…たぶん、最初に出会った日から」



きっとあの転がり落ちる感覚は。



「――…」

「…」

「―――…」

「? ……エリオット様?」


想いを告げたとたんに静止したエリオットに、声を掛ける。返答は無かったが、見開かれたネイビーがじわじわと熱に蕩けていく様がアリスにははっきりと見えた。そのまるで溶け出したチーズのような瞳を覗き込めば、アリスの心はきゅんとなんともいえない痺れに震えたのが分かった。


「ずっとずーっと…一緒にいてくれますか?」

「…もちろん。俺の方こそ、ずっと君の傍にいさせて」


それから程なくして、アリスの顔に落っこちてきた雫は冷たくて。

とても満たされた心地をアリスの心に運んできたのだった。






それからしばらくは顔を寄せ合ったまま、互いに互いの気持ちを噛み締め合うかのようにじっとしていた。が、さすがにそろそろホールに戻らなければと我に返る。彼の向こう側ですっかり夜に染まった空では、遠くに無数の星が瞬いているのが見えた。顎を引き首を竦めて顔を離したアリスは、今頃になってようやく心臓が痛いほど拍動していることを自覚した。感覚としては夢から醒めていくようなそんな感じに近くて、でも足元はまだふわふわしたままのようなそんな曖昧なものは残っているが、それでも内側から叩くように鼓動しているこの心臓がこれは現実だと伝えてくれる。

顔どころか首元までもが赤いだろうことは、その肌を撫でる風が冷たく感じることから容易に想像が付きなおさら熱が上がる。なんとも言い難い気持ちに悶えそうになるけれど、それでも互いの指先だけを握り締めた手を解く気にはなれずにいると、頭上から柔らかく笑いを零す気配がした。


「―――あの、エリオット様……」

「ん?」

「……」


そろりと顔を上げる勇気が出ずに目だけで見上げれば、瞳を細めて優しく微笑んでいるのが見えて。そのエリオットから漂うこそばゆい空気に、なぜか見てはいけないような気がしてすぐに視線を落とす。するとそこには当然だが大きな手に包まれたアリスの手があって、すりと節くれだった一本の指がハーフグローブ越しにその腹でゆっくりとアリスの手の丁度水かきの辺りを撫ぜていくのを視覚と触覚の両方で認識する。その瞬間、アリスの脳内では必死に白旗を掲げている自分の姿が思い浮かんだ。


これはいけない。


「どうかした?」


ああ、これが甘い声なのだろうかとアリスは頭の隅で考える。

すり、すり、と指が何度か往復していく感触を意識してしまうと警鐘が頭の中でけたたましく鳴り響く。益々激しく脈打つ心臓に、いつ口から出ていってしまうのかと本気で心配になった。


「アリス? ――…だめ」

「――は」

「俺を見てくれないと」


不意にくいっと顎を掬い上げられて、眼前に迫った濃紺色に視界が支配されて間抜けな声が口から滑り落ちた。


「ひぇぇぇええっ!!?」

「わ」


そのまま突き動かされるままにばっと両手を上げて距離を取る。

これはいけない、いけない、と心の中のアリスが大絶叫する。実際には大絶叫まではしなかったので褒めてほしい。それ程アリスの心の中は混乱していた。


「え、ぇ、えりオット様っいけません、これはいけませんッ!」

「え、何が…?」


ふるふると首を左右に振って訴えると、エリオットが困り眉で首を傾げた。それが少し可愛いと心の片隅で思ってしまったのはアリスだけの秘密だ。


「あの、できれば当分今までの通りの距離でお願いします!」

「つまりは……エスコートのみってこと?」

「はい、はいそうです!」


これが世間で言う甘い空気ということなのは、なんとなく分かってはいるつもりではあるけれどもこれ以上は無理だとアリスの心が必死で白旗を左右に振っている。これ以上は保たないというのは漠然とアリスには理解できた。


「……」


しかし返答はなく、無言になったエリオットを伺えば片眉を下げた何やら複雑な顔があって慌てて言葉を重ねた。


「ぁ、と、そのいやとかではなくてですね、その! は、恥ずかしいんですッ、とても心臓が持ちません!!」

「―――ふッ」


なのに、吹き出された。


「ふ…?」

「ごめん、笑うつもりはなかったんだけれど、つい……かわいくて」

「かっっっっ!?」

「ふ……、わかった」


ゆっくりいこう、と苦笑気味にでも嬉しそうに眉を下げて笑うエリオットに、少し納得いかないところを感じつつも了承を得たことにほっとする。これでアリスの心臓は猶予を得たのだ。


「ああ、でも―――」

「?」


ではホールにと踵を返そうとしたアリスに、徐ろにハーフグローブに包まれた手が伸びる。きょとんと瞬くアリスは、少し首を傾げてその手の行方を見守った。


「近い内に口付けを許してくれると嬉しいな」

「!!!!」


その手が項からリボンを掬い上げ、くるりと指先に巻き付ける動作をするのと同時に今までにない蕩けそうな笑顔を魅せたエリオットに、アリスの意識が呆気なく飛んでいくのはすぐのことであった。







まだ続きますのでお付き合いいただければ幸いです。

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