第二章16 安堵と冤罪疑惑
バケツの水を被ったのか。そう言いたくなるほど、ノアの髪は厚みを失っていた。駆け込むように物小屋に入った彼は、肩で浅い呼吸をしながら長い髪を絞っている。嫋やかなさまは息を潜め、予想外の夕立にノアは深いため息を吐いた。
「降りそうになかったのにな」とボヤいて、適当な木製資材に遠慮なく腰掛けている。
「猫だ。エレナたちの飼い猫だっけ」
「まあ、そんなとこ」
エレナの腕に抱かれたステラに気付き、ノアが呟く。
獣人の姿を知られてはいけないと、慌てて変身したステラの脈動が腕越しに伝わってきた。彼の瞳孔だけがエレナを見上げて、不満を眼だけで訴えてくる。人の姿でいられないのが、嫌なのだろう。言葉は分からないが何となく、そんな気がした。
顎下をくすぐってやれば、抗えず喉を鳴らすのがあまりにも猫である。
「……結界石の取り替え、でしたっけ」と、ネージュが口にした。
「そう。とりあえず機能が失われてそうなものを優先して取り替えていたんだけど、急に降るんだもん。予定より全然進まなかったや」
ノアは手にしていた布袋を漁り、手のひら大の魔法石を取り出す。薄く発光した、蒼色の魔法石だ。この村に来る直前に見たものと比べるもなく、綺麗な色をしている。記憶にあるものはもっと黒々としていたはずだ。
「綺麗だろう? でも、魔物の魔力を吸うとどんどん黒くなって、最後には割れて散ってしまう。だから、壊れる前に取り替えないといけないんだ」
つまり、エレナが壊した結界石も元を辿ればこんなに綺麗なものだったということだ。ノアの説明は分かり易い。分かり易過ぎて、頭が良くないと自認しているエレナでも即座に理解が出来た。
出来たが故だった。少しの間が空いたあと、喉の浅い所から「え!?」と驚嘆が溢れる。だって、ノアはこの結界石を自然に割れてしまうものだと言ったのだ。
大声をあげたエレナに反応したノアは、眉を微かに動かす。当然の反応だった。ネージュは気まずいという態度を隠さず、瞳を左右に泳がせていた。
「いや、その」
「何?」
「その結界石って、劣化以外で壊れるの?」
あまりに情けない声だった。己のやらかしを自覚していると、白状していると同義だ。白状すべきだ、と燻っていた心中が、突然の衝撃で露出する。
突拍子のない質問に、ノアは考える素振りを挟んでから答えた。
「全くないとは言えないけど、滅多には聞かないね。そもそも魔物がいる場所に置くものだから、頑丈な魔法石から作られるものだもの。強度はある程度担保されているものだと思うよ」
雨脚が強まり、倉庫内にも湿った空気が漂うのも気にせず、ステラを抱えたままエレナの身体が脱力する。赤髪が流れるようにステラの体毛に沈んでいた。
「何、なになに、エレナ。どうしたの」
「エレナさま。落ち着いてください」
落ち着いていられるか。と、思う。何度も言い淀んだ唇を一度硬く結んで、エレナは息を吐いた。
「この村の前に来た理由なんだけど」
*
「——つまり、魔物の襲撃は自分のせいだと思っていた、ということ?」
全てを聞いたノアの反応は、思いの外淡白だった。ふぅん、と鼻を鳴らして、腕を組んでいる。
「けれど、結界石が衝撃で壊れないのであればエレナさまのせいではないということですよね」
「そうだね。僕の見立てでは、そう。確かにエレナの強さは確かだけど、わざと圧力をかけたりしない限りは壊れないと思うし……それに一つ壊れただけであの数の魔物が一斉襲撃に走るのは、考え難いかな」
「す、住処を荒らしちゃって、混乱したのかなって」
「うーん。でも僕が今日見回った結界石の殆どは、壊れきってはいなかったよ。村を中心にこう、囲うみたいにして三層になるように配置するんだよ。一つダメになっても、全部壊れきれない限りは容易に入り込めないはずだ」
……つまり、だ。幾数回目の思考整理が入る。
「あたしのせいじゃ、ない」
「原因の一端はあるかもしれないけれど、話を聞いた限りはその結論になるね」
ノアの言葉が、じんわりとエレナの罪悪感を解していく。復興作業などと言って走り続けていたのも、結局は頭よりも身体を動かしたかったからだ。ただの冒険者には優しすぎる村人たちに、報いたかった気持ちもあったのかもしれない。
さらに力が抜けていく。エレナはステラの濡れた毛に顔を埋めて、覇気のないままに呻いた。嫌そうな猫の鳴き声がしたが、すぐには離してやれそうにない。濡れた毛が、今は心地よかった。ネージュの冷えた掌が、背中を撫でてくれている。
そんな様子を見て、驚くような素振りを見せたのはノアだった。安堵で崩れているエレナを見て、意表を突かれたように瞬いている。まるで、エレナの反応が予想外だと言いたげに。
「じゃあつまり、僕が君たちを警戒していたのは杞憂だったってことかな」
自嘲気味にノアはそう口にしていた。頬を指先で掻くさまは、王子さまみたいだと感じた第一印象とはかけ離れた幼さを孕む少年そのもの。
「おかしいと思っていたんだ。突然、起こるはずのない魔物の襲撃が起こって、危機一髪、強いなんてものじゃない旅人が現れた。ご都合展開にもほどがあるだろう? 失礼ながら、君たちの親切や明るさになにかうらがあるんじゃないかってね」
それらを聞き届けた時、口火を切ったのはネージュだった。純白の眉が不機嫌そうに寄せられている。
「エレナさまは魔物との戦いで大怪我をしているんです。打算で肉が千切れるほどの怪我をするとお思いですか。鎖骨の骨が粉々になって、元に戻すのがどれだけ大変だったか——」
まくし立てるネージュに、ノアは降参とばかりに両手を顔の横へ持ち上げている。
「いや……それは、『回復魔法』の腕を信じていて多少の無茶は勘定に入れてないとすれば説明がつくだろう? そう怒らないでおくれよ、僕だってこの村を守らないといけないんだから」
「それはそうかもしれませんが……はっ。わたしにしつこく話しかけていたのも、それが理由ですか⁉」
「はは、ご明察。結果、すごく嫌われてしまったみたいだけれど」
「嫌っ……⁉ それは違——いや、違いませんけれど! ちょっと嫌だな、くらいですから!」
二人の応酬にエレナが顔を上げる。鼻先に猫の毛が付着していたが、取り除くこともなく目尻を下げた。ノアとやり取りしているネージュは、活き活きとしている。複雑なようでいて、目の前の光景は悪くなかった。ステラとのやり取りしかり、ネージュは相手によってコロコロと態度が変わるらしい。
「まあ、でもエレナたちが故意じゃないと分かったからには、少し困ったことになったね」
「困ったこと、ですか?」
小首を傾げるネージュに、ノアが頷く。何かを悟ったのか、ステラが膝上を離れ甲高く鳴いた。
「一つ結界石が壊れたところで、魔物の敵襲は経験上起こりえないのに起こってしまった。その原因を突き止める必要がありそうだね」




