第二章11 茹だる静謐に動く下肢
虫の音が木霊する。月明かりが差し込むような深更の中、とある室内にエレナはいた。夏中は夜半でも暑い。寝苦しさから寝返りをするエレナの意識が薄らと覚醒する。
「夜」
異様に口腔内が乾いていた。軽く咳き込んだところで、左肩の痛みが引いていることに気が付く。不快な痒みは残るが、恐らくネージュの『回復魔法』によって傷口は塞がっていた。いつも着ているツナギはなく、着せられているのは染みひとつない黒色のTシャツ。襟元が緩く、ゆったりと身体のラインを隠していた。
「あたしの服じゃない」
十中八九、村人の私物だろう。ネージュやステラが着るには大きすぎる。エレナは上体を起こし、丁寧にかけられたシーツを剥ぐ。辺りを見渡すも、人の気配はない。扉の外も静寂に染まっていた。
確か宿を用意しろ。とか言ってた気がする。ならば、この部屋は宿の一室か。清潔に整えられたベッドにも合点がいく。
エレナが何よりも先ず考えたのは、早く部屋から出てネージュたちと合流するということ。見知らぬ土地で、仲間の所在が分からない。身体の軽さが、戦斧の行方不明を報せている。
そう考えるが早く、エレナはドアノブへと手を伸ばし、止めた。自身の格好を鑑みたのである。
Tシャツ一枚。裾から伸びる両脚。ヨレた襟元。どうにも人前に出るには憚られる格好に、エレナはベッドへ逆戻り。
ズボンを履こうにも、ステラに貸し出していたことを思い出した。今は猫の姿であることを考えると、所有しているのはネージュだろうか。
「こーまーるうー……」
シーツに沈む。無防備な肢体を動かし、全身で伸びをした。猛虎の如く戦ったはずのエレナも、今や年相応と言うには少々幼い女性である。
服装のせいで軽い軟禁状態にあるエレナは、
「あのお……だれかあ……いませんかあ」
と、掠れた小声で呟いた。
「ねーじゅー……すてらあー……?」
仲間の名を呼ぶも返事はない。なんとなくネージュならばベッドに伏せている間も、そばに居てくれそうな気がしていたのだが。どうやらそうではなかったらしい。無意識下でエレナの頬が膨らんだ。
どれだけ眠ったのかは分からない。だが、纏まりつくような眠気はもうどこにも無かった。
窓の奥を睨む。夜明けまであとどれくらいなのだろう。
隣家に灯りはついていない。注視してみれば、魔物と戦闘した形跡。木片や荒れた土肌が見えた。エレナはベッドの上で腕だけを伸ばし、間接照明に魔力を注げばぼんやりとした薄明かりが灯った。
『収納魔法』によって取り出したのは、カレンの自宅から持ち出した魔導書。
革細工の施された表紙を捲り、目次を指でなぞる。うつ伏せのまま退屈を埋めるだけの作業。
紙の摩擦が部屋に響く。どこが胸が踊るような魔法を求めて、一枚、また一枚と頁を捲った。
例えば、『解錠魔法』『遺失探索魔法』。あぁ、『状態維持魔法』なんて凄く実用的だ。使用例を見れば、食材の劣化を防ぐ。なんて書いてある。
どれもこれも初めて見た、という衝撃はない。記憶を辿れば、仲間達が手分けして行っていたように思う。
・
「フィデス。これとこれにお願い! あのー……あれ! 腐らなくするやつ!」
「指示がアバウト過ぎねェ? やるけど」
買い溜めた野菜や肉を彼に押し付ければ、特に文句も言わず『状態維持魔法』をかけてくれた。野菜の量が多いとあからさまに怪訝な顔をするが、それでも面倒臭いだの、なんで俺ばかり、などとは言われていない。
当然、申し訳なさ。不甲斐無さ。劣等感。その全てに襲われることはあれど、
「気に病むな」
の一言があれば何とかなった。
どれだけ落ち込んだとしても、魔力がないのであれば仕方が無い。悩んでも解決する問題では無い。そう言い聞かせ、出来る限りの貢献をした。思い返せば、非常に甘やかされていたように思う。
・
確かあの時も野菜が多くて、文句を言っていたっけ。それに対して健康第一なサナティオが怒って、ルカが笑いながらおかわりをして――エレナは彼の皿から根菜を攫うように食べた。それがバレてエレナもサナティオに怒られる。あぁ、懐かしい。
紙を撫でながら、口許は笑みを浮かべていた。
今はもうあの時の何も出来ないエレナはいない。学べば使える。そうだ。魔物戦でもそうだった。
局所でしか使えない『身体強化魔法』。一つ目は、魔物を蒼穹から叩き落とした時。二回目は瓦礫の投擲で、魔物の脳天を貫いた時。他にも要所要所で行った肉体強化は、優に働いた。
気付けば、魔法に憧れるだけの人間では無くなったのだ。知れば使える。繰り返せば形となる。
エレナは自身を奮起させ、『状態維持魔法』の説明文を眺めた。手元に戦斧――もとい魔法石がないから使えばしないが、座学も大事だとカレンからは再三言われた。
「対象物に対して……魔力を……? ふんふんふん……」
脚がぱたぱたと動く。頁を捲り、戻っては更に「ふんふん」と鼻を鳴らした。昔から文字列をよむのは苦手だ。小難しくなると更に苦手。だが、瞳は忙しなく左右へ動く。
だからこそ気付かなかった。錆び付いた蝶番が立てる音。均一に鳴る床を踏み付ける音。そして、無防備なエレナの姿に息を飲む、何者かの呼吸。
「灯りが付いたから何事かと思えば……どうしてそんなに呑気なんだい? 君は」
覚えのある甘い音吐。最後聞いた時は心底エレナの身を案じた焦りがあった。だが今は違う。心底の呆れ。
死に直面した人間が目覚めたかと思えば、読書。しかも勉強をしているとなれば、まぁ無理もない。
しかし、座学に耽っていたエレナの集中を裂いたのも、また事実。手の中にあった魔導書は、激しく音を立てベッドから転がり落ちた。言葉通り、ドンガラガッシャーンである。
「う、うわああ!?」
何よりも早く行ったのは、服の裾を伸ばし見せてはならない部分を隠すこと。確か、普段使いしているショートレギンスは着せられていたはずだ。つまり過度な露出していた訳では無いが、少々淫靡な格好である自覚はあった。
エレナは太ももをピッタリと閉じ、目の前に立つ青年へ眼差しを向けた。彼の視線は当然の如く、エレナの下肢へ向けられている。
「び、ビックリした、ビックリした……! せ、せめてノックとか……!」
「したよ、当然。灯りが付いたのに返事がないからむしろ慌てて入ったっていうのに、酷い物言い」
「わ、わあ……。それは……ごめんなさい……」
「ま、僕としては全然眼福だったけれど」
清々しいほどに変態だ。転び出かけた非難の言葉を喉元で止める。ノックをしていたのならばエレナが悪い。非常に手遅れではあるが、シーツで身を隠す。どうしたものか、異様に恥ずかしくて堪らない。
「君って、意外とお茶目?」
「違う。違うよ、違う。少し油断してただけ」
「ふふ。言い訳すると、余計可愛く見えるね」
彼はそう言うと、綺麗な青黛の瞳を細めた。エレナよりも長いミルキーブロンドの髪が肩からはらりと落ちて、それがどうも煌びやかに見える。
王子様みたいな人だな。エレナはただ、そう思った。
一目惚れとかそういうものではなく、ただ単純に。例えば、昔読み聞かせてもらった童話での王子様は、こうも美しく描かれていたはずだ。それに似た艶やかさがあった。
眉目秀麗というに相応しい顔立ちと言える。
「自己紹介がまだだったね。僕はノア・グランツ。この村の住民では無いのだけれど、訳あって今はここに居る。君は――エレナ。違いないかな?」
一語一語がゆっくりと紡がれていく。ベッドの軋む音がして、彼が腰掛けていることに気が付いた。
「エレナの名前は、君が目覚める前にネージュちゃんが教えてくれた。どうやら警戒されてしまって、仲良く話してくれそうにはないけれど」
「ネージュはどこにいるの?」
「二〇三号室。この部屋は二〇五。部屋が余っていたから、一人一室使って貰っているよ。僕は二〇四で、お隣さんさ。寂しくなったら来てくれたっていいよ?」
冗談であろう彼の戯れごとに、エレナは首を横に振った。よく回る口だ。悪意は感じられないものの、ネージュが警戒する理由は分かる。俗っぽい言い方をすれば、チャラい。
「明朝、一階へおいで。ネージュちゃんには目覚めたこと伝えておくから」
「親切にありがとう」
「エレナは恩人であり、この村の英雄だからね。あと、その服も返してもらわないと」
彼はTシャツを指差す。なるほど、この一回り大きな衣服はノアの物だったらしい。
「分かった。色々とありがとう」
エレナが頷くのを見届けて、彼は立ち上がる。古い扉の前で、一度振り返るとおちゃらけた様子で両手を振る。
「またね、エレナ。僕の方こそ、良いもの見せてくれてありがとう」
「へ、変態……!」
次こそは明確に口から飛び出た。文句を言って掴みかかれば、更に彼の言う良いものを見せてしまう。そう思うと、エレナはベッドで戦慄くしか出来ない。
ノアはただ、いやに上品な所作で笑いを堪えた後、部屋を出ていった。




