第二章10 死の狭間で微睡む英雄
ネージュが家屋へ姿を消した。立ち尽くすエレナは視界の明滅に眩み、自身の足先一点を見つめている。目に映る景色全ての輪郭がブレ続け、一歩踏み出せば崩れてしまうことを理解する。肩から激しく噴き出す紅血が土肌へ零れていく。
エレナは怠く重い腕を動かし、自身の左肩口に触れた。陥没していた。趾が刺さったまま、魔物が飛び立ったせいで、上側に裂けたらしい。つまり、油断と過信から生まれた創傷。――これほどの怪我は何時ぶりだろうか。
浮かぶは魔王戦。サナティオが居ながら、回復が間に合わず増えていく生傷に耐え忍び動き回ったあの時。
あの時も、全てが終わった瞬間動けなくなった。規模は違えど、エレナの身体に残った結果は似通っている。……眠い。
微睡むような眠気に襲われながらも、鼓膜より深い箇所が常に幻聴を奏でている。魔物の叫喚による合唱。
加えて、遅延した痛みが来る。どうやら冷静になってしまった。
(サナの有難みが良く分かるな)
この程度の傷であれば、彼女なら瞬きの間も無く治せるはずだ。
だからこそ、永続に感じられるほどの痛みは経験が少ない。サナティオが魔法を使えない状況に置いても、フィデスが最低限の処置をしてくれていたから。
有難みとは離れて尚、強く感じられるものだ。
死ぬ気などほとほとないが、これほどの怪我をしてやっと気付くとは。エレナは自身を皮肉りながら、ただ一歩家屋へ踏み出した。
まるで地面が揺らいでいるような感触。上手くいかない接地に、膝から崩れていくのが分かった。ただネージュの元へ行きたかっただけだ。
「――危ない」
低く甘い音吐が耳朶に触れた。堕ちるはずだった身体が何者かによって支えられている。傷口に触れないよう横腹に腕を添えられた。自立出来ない身体が青年へと凭れる。
「止血剤は持っているかい」
「…………」
「話せない?」
「髪の白い……女の子が少し、持ってる」
口にして、先に受け取っておけば良かったと後悔が過ぎる。結局いつもこう。
力だけで解決しようとして、一人では完璧でないことを知る。現に今は名前も知らぬ人物へと寄りかかっていた。
「トレル! 宿のベッドを空けておいてくれるか! リリィはタオルと布の用意を。他に動ける者は川から水を汲んできてくれ」
慣れた声音で指示を出しているこの男。村人たちも背馳することなく指示に従っていく。そんな中、ただ一人の女性がこちらへ駆け寄ってきた。顔面は蒼白で、怪我人などには目もくれず青年へ問う。
「テオは! テオは無事なの、ノアさまっ……!」
青年は返事に吃る。家屋の様子など確認していないのだから当然。生死を確認する暇などないに等しかった。
きっと戦闘中、テオの名を呼んだのもこの女性。恐らくテオの母親だろう。
代わりにエレナが答える。
「あの子、は……生きてる、よ」
「えっ……今、なんて」
「息は確認した。……今、あたしの仲間が回復をしてる、から。あの家……ッ……」
喉が攣る。噎せた反動で全身が悲鳴をあげるよう傷んだ。眠気が更に深く巡り出す。そんな中、無意識に口をついて出たのは「行ってあげて」という寄り添いのような言葉。
「じゃあナリアはテオの元へ。僕は彼女の介抱に回るから」
「はい、ノアさまっ……。あの……貴方も、ありがとう」
ナリアは一度深々と頭を下げ、家屋の中へ駆け足のまま去っていった。
「君が何者かは後で聞くよ。今はただ――ありがとう。君のお陰で誰一人死なずに済んだみたいだ」
彼の手に込められる力が増す。ミルキーブロンズの髪が肩から流れ、前髪の隙間から柳色の瞳が覗いた。長い睫毛が数度瞬き、エレナの顔色を伺う。
「ベッドの用意が出来たみたいだ。歩ける? 無理そうなら僕が運ぶけれど……」
どこか声が遠い。瞼が重く、返事すら出来なくなってしまった。脈打つ心臓とは裏腹、体温が下がっていくのが分かる。ノアの衣服が赤黒く汚れていくのに、彼は身を離さなかった。
「ちょっと待って、まだ眠らないでよ。君が死んだら元も子もないだろっ……!?」
焦りの滲む声音で揺すられる。が、どうにも眠い。このまま眠れたらどれほど気持ちが良いか。抗える程の体力も無く、彼の問いかけすら疎ましく感じてしまう。
瞳を閉ざした。ノアの肩口に額を預け、唇から息を吐く。
「後は……お願いします」
ハッキリと口したつもりでいるが、伝わったかは分からない。気持ちの悪い酩酊感の中、エレナは静かに意識を手放した。




