第二章3 この黒猫、血統書付き
恐る恐るといった具合に、エレナが黒猫へと手を伸ばす。指が沈むほどの柔らかな毛は、少々泥が付着し固まっている。しかし、伝わる体温や呼吸の動き。野良猫の割に人の手が加わったかのような毛並み。夜に似合わぬ陽だまりのような香りは間違いなく覚えがあった。
闇夜の中。二つの黄色だけが浮かび上がるようにこちらを見ている。
「本当だ。カレンさん家の猫にそっくり……」
「で……ですよね。どうしてこんなところに……」
「いやいやいや。わけ分かんないだけど!?」
ネージュの腕の中で鎮座する黒猫は「ただの小動物ですが?」なんて顔をして喉を鳴らしている。だが、こいつは紛れもなく会話をしたのだ。少年のような声で、こちらを煽り、何よりもエレナの攻撃をかわし続けたのである。
訝しむように眉間に皺を寄せたエレナは、ネージュから奪い取るように黒猫の首根っこを掴みあげた。
「あんた、何者? ただの猫じゃないでしょ」
今思えば引っかかることが幾つもある。ネージュがレナトゥスに連れ去られた時。ネージュが仕込んだメモに気付いたのはこの黒猫だった。
もう一つ。エレナが地下書庫で魔導書を探していた時。禁忌魔法の書かれた書物を見つけてしまったのも、黒猫が居たからだ。どれもこれも思い返せば都合がよすぎる。
エレナはただ威圧的に黒猫を揺さぶり、正体を明かすよう迫る。傍から見ればイタズラ猫を叱る構図だ。
「みっ、みっ……にゃっ……」
流石に宙吊りにされ揺すられるのは堪えたのか、悲鳴に似た鳴き声をあげる。そのまま尖った爪で慌ただしくエレナの腕を引っ掻いた。
「下ろして欲しい……と言ってるのでしょうか」
「そうならそう言えばいいんだよ。さっき散々人を馬鹿にして喋ったんだから」
エレナの言葉に、ネージュが「あ……」とこぼして眉尻を下げる。いつもより語気の強いエレナに怖気付いたのかもしれない。焦りから生まれる余裕の無さに、エレナは空いた手で頭を搔く。味方を怖がらせてどうする。
そんな油断からか。黒猫を掴んでいた手が緩んだらしい。ただでさえ小動物を掴む力加減など分からず、黒猫が身体を捩らせたと同時にエレナの手から離れ着地する。
「あ!? お前!!」
叫んだエレナを意に返さず、黒猫が向かう先は先程まで二人が雑談していた空間。地面に置かれたランタンと縫いかけのシーツへと「うにゃうにゃ」鳴きながら一目散へと駆けていく。
――意図が読めず困惑する。黒猫はシーツへと飛び込むと縫い目に爪を立てビリビリと裂く。ただの猫ならば意図など考える意味もないのだが。
「あぁ……!!」
次に悲鳴を上げたのはネージュだった。せっかくエレナの為にと縫い上げていた最中だったのだ。無理もない。しかしネージュは黒猫の元へ駆け寄ることはせず、眼前の光景に刮目する。それはエレナも同様だった。
ランタンの光を浴びて、黒猫の影が伸びる。毛は徐々に薄くなっていき、手足が猫の姿から乖離。頭部からは銀色の人毛と同じ髪が生えていき、肩に沿って流れていく。睫毛越しに蜂蜜色の瞳が覗き、黒々と丸い瞳孔がこちらを見つめた。
「あの姿じゃ声帯が違ぇから喋れねぇんだよ、ちったぁ落ち着けよな」
呆れを帯びるハスキーな声が放たれた。ランタンに浮かぶ影は、間違いなく人型をしている。座り込んでいるため目測だが、背丈は恐らくネージュより少し大きいくらい。少年だ。なによりも特徴的だったのは、頭部を飾る猫耳とゆらゆらと気まぐれに揺れる尻尾。皮膚の色は顔面から腹部、足先まで影のようなグレー。指を飾る爪は、攻撃的なほどに鋭かった。
人のようでいて、人ではない。人間と動物の特徴を併せ持つ生命――獣人族だ。
「からかって悪かったよ。今朝ぶりだな、エレナ、ネージュ」
唇が弧を描き、犬歯が見える。人懐っこく向けられた表情には、一切の敵意は感じられない。むしろ会話をしよう、と言いたげな雰囲気さえある。エレナは少し迷う素振りをして、ネージュと目配せた。そのまま視線は泳ぐようにして、シーツで隠された下腹部へ移される。
「……とにかく、服は着ようね」
「オレも言おうと思ってた!」
△▼△▼△▼
黒猫もとい獣人の少年は、エレナから貸し出されたティーシャツで身体を隠す。ハーフパンツのウエストが緩いらしく、気難しそうな顔で紐を引っ張っている。ランタンを囲う人数が増えた。
「なぁ。これエレナがデブってことなんじゃね――」
「やかましい」
こいつ、あまりにデリカシーがない。エレナは少々握りこぶしを震わせながら「あんたがまだ子どもだからだよ」と躱す。その隣でネージュは無残にも散ったシーツを掴み上げ呻いていた。
「え、エレナさまの枕が……!!」
「流石に謝んなよ、ネージュずっと作ってたんだから」
「悪ぃって。でも仕方ねぇだろぉ? また作りゃあいいじゃねぇか」
「材料は有限なの……!!」
そう声を荒げたネージュは見たことがないほど憤慨している。といっても、怒りの表現は下手で可愛らしく「ばか、ばか」と獣人の頬を引っ張るだけ。
「そもそもさっさとその姿を見せてればさ、こんな面倒なことにならなかったんじゃない?」
顎に手を添えながらエレナが指摘する。初めに声をかけた時。ネージュの腕に鎮座した時。最後に、エレナから首根っこを掴まれた時。姿を現す機会など思い返すだけで幾つもあった。
にも関わらずからかうような素振りをして、あろうことか戦闘まで発生したのだ。つまり、エレナの機嫌はすこぶる悪い。
「仕方ねぇだろ? お前オレにちんこ晒せっていうのかよ」
少年はさも当然かのように言ってのけた。瞬間、エレナの頭に血が上る感覚。慣れない単語に怒りから羞恥へと感情が変わる。
「うわああっ!? ちょ、もう少し気遣いなよ!」
「不潔……最低過ぎます……」
「んだよ!? 陰茎とでも言えばいいのか!?」
「言い方の問題じゃない!!」
エレナの大声に、獣人がパタリと耳を閉じる。心底不満気な顔をして、知らぬ存ぜぬと言いたげに尻尾を揺らすだけ。
「オレだって人との会話は久しぶりなんだ。大目に見てくれよ」
「……久しぶり?」
「あぁ、すげぇ久しぶりだ。オレ話してぇことが山ほどあんだよ。あんだけどよぉ……流石に明日に響きそうな時間だな」
ネージュが枕を縫っていた時間から鑑みても、夜は非常に深いはず。下手をすれば日を跨いでいるかもしれない。
野営である上に夜更かしを重ねれば、明日の動きにも悪い影響を与えかねない。しかし――
「ちょっと待って。せめてあんたの名前。意味もなく声を掛けてたわけじゃないんでしょ」
目的も分からない。なぜ黒猫を扮していたのかも不明なまま夜を明かすなど、ネージュを連れたエレナには出来るはずもなかった。
「眠れねぇ夜になってもいいなら教えてやるよ」
言葉に含みを持たせ勿体ぶる少年にエレナは「得体の知れない人と寝る方が難しいでしょ」と言い放つ。ネージュも数度頷くと、好奇心からか少し前のめった。
二人分の視線に穿たれる少年は、その場で華やぐような笑顔を見せた。
「――オレの名前はステラ・シートン。正真正銘カレンとフォルテムの息子だぜ」
シン、と空気が凪いだ。だって有り得ない。有り得ないのだ。脳裏に浮かぶのは庭に寂しく置かれた墓石。カレンの諦めたような目。「健やかに眠れ」という刻印。
エレナの無意識が身体を動かす。ステラの華奢な両肩を掴みかかり、動揺が呼気に孕んでいく。
「嘘だと思うかよ、エレナ」
「……思わない」
カレンとよく似た銀色の髪。フォルテムを思わせる優しい蜂蜜色の瞳。端々から感じられる知性。身のこなし。
種族が違うことに目を瞑れば、確かにあの夫婦の結晶だ。
「今は信じてくれるだけで充分。今日は寝ようぜ、明日話そう」




