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幕間5 共依

 汗の酸い香りと甘い香り、そして遠く遠くに感じる人の気配。閉ざしているはずの視界が妙に明るくて、ゆったりと意識が覚醒し始める。

 瞼を開けば、睫毛越しに大男の背が見えた。壁に設置された間接照明が眩くて、ツンと頭が痛む。


「カレンちゃん、目覚めたの」


 フォルテムの問いには答えないまま「ここは」と、質問で返した。いつも以上にザラついた声がただの寝起きのようで、全てが夢だったのではと錯覚する。

 そうして、フォルテムが全身に浴びた返り血が現実を引き起こした。


「今夜の宿だよ。と言っても、着いたのはさっきなんだ。……体調は……いや、大丈夫。何も言わないで」


 どこかよそよそしく、今にも泣いてしまいそうな顔で私から顔を背ける。私は頼りにならないフォルテムの言葉を無視して、視線だけが辺りを見渡した。ベッドで寝かされている。裂けた衣類の上からは、大きすぎる外套を被せられていた。

 外套の中をまさぐれば、ただ貧相な身体が傷一つなく存在していた。――生きている。そんな不快な実感と、体内をあの魔力が汚染した事実が私を襲った。

 

「フォルテム」

「なぁに」

「あの後……どうなった。……身体を治されてから、全く記憶がない」


 フォルテムが宿まで私を運んだ。となると、魔族は最後まで私の持ちかけた契約を反故にはしなかったのだろう。悪意ある歪曲はあったものの、二人逃がすという約束は果たされたらしい。


「特に何もなかった……訳でもないけれど、アレは『ボクが優しくなければ全滅だった』って言って何処かへ行った。僕がした事と言えば、ただ君をこの国に運んだだけだ」

「そうか。キースは」

「勇者の遺体として……決まった墓石に埋められるそうだよ。……そう、この国の人が言っていた」

「決まった墓石……?」

「勇者発祥の地……とかなんとか」


 キースは故郷で眠ることも許されないのか。よく笑い、よくふざけ、馬鹿みたいに五月蝿いだけの男が勇者に選ばれただけでこんな末路。……やるせないな。

 キースにだって家族がいて、故郷があって。それを手放すのが英雄の運命なんて。


「……カレンちゃん」


 思考を遮るように、柔らかなフォルテムの声が降りてきた。彼と目を合わせれば、居心地悪そうに逸らされてしまう。とうとう顔を伏せてしまって、前髪で蜂蜜色の瞳が見えなくなってしまった。


「本当にごめんね。……ごめんなさい」

「謝らなくていい」


 私の手がフォルテムへと伸びた。噛み付いた跡が抉れる程に残る、生かした証をなぞる。私を陵辱したのはあの魔族であり、この男ではないのだ。だから、心底フォルテムに向ける怒りはなかった。

 何よりも、私がフォルテムの立場なら同じ行動をしただろうから。それがどれほど残酷な行為だとしても、目の前にある命は拾い上げるべきだと私も思う。


「お前が仲間想いなことは一緒にいた期間で嫌ほど理解している。だから――」

「違うんだ」


「本当に怒っていない」そう告げようとした私をフォルテムが遮った。下唇を震えるくらいに噛み締めて、彼はもう一度「違う」と呟く。


「そんな……綺麗な気持ちじゃなかったんだよ」


 体躯に似合わぬ、泣き濡れた声。


「ただ……僕は……君を失いたくなかっただけだ」

「は」

「分かっていたんだ。僕の行動が君をどれだけ苦しめるのか、ちゃんと分かってた。キースと僕の為に命を張れる君が、あの魔族に延命されることの意味を、僕はちゃんと理解してた。自死を選ぶほどの屈辱だったんだって分かってたんだよ」


 私の手がフォルテムの掌に隠されてしまう。両手に包まれて、彼の額に指先が押し当てられた。


「好きだから……君の意志を尊重すべきだったのに。好きだから……ダメだった。一人になりたくなかった。キースの死を……君と分けたかった。………………君の心を躙ってでも、僕の弱さを優先した」


 ぽつりぽつりと告げられた吐露にくらりと目眩がする。私が返事を出来ないでいると、フォルテムはどんどんと背を丸めていき「ごめんなさい」と呟いた。

 初めてこの男の未熟な面を見たような気がする。赦しが欲しくて、けれど赦されるのが怖い人間の愚かな姿。――けれど、不思議と怒りは湧かなかった。


 私はもう一度舌を口内から露出させ、歯を這わせる。何度か顎を震わせて歯を突き立てた。だが、結局血の味すら感じられぬ弱い行為。

 自死する意志など、全くもって存在していなかった。あの激情の中でしか、私は死ねなかった。ならば、生きるしかないのだ。


「…………僕のために『生きて』よ」


 なんて烏滸がましい祈り。それを自覚出来ない男ではない。そして、この烏滸がましくもぬるま湯のような縋りに頷きたくなった私も、すでにおかしくなってしまったのだろう。


「私は面倒な人間だぞ」

「知ってるよ」

「なんだと」


 こんなもの恋だの愛だので測っていい感情じゃなかった。フォルテムの言う通り、何一つ綺麗じゃない。ズブズブと溺れて、互いが酸素のような共依存だ。

 けれど、悪くないと思った。フォルテムには私が必要。そして、私はこの男の隣なら生きていられる。フォルテムの望みを受け入れること、それは生存本能に近かった。


「……抱き締めてもいい?」

「許可が無いと何も出来ないのか」

「じゃあ抱き締めるね」


 フォルテムが身を乗り出すようにして、膝をベッドに掛けた。魔力切れと貧血で動かない身体が覆われ、汗臭さが鼻につく。腰が浮くほどに引き寄せられて、フォルテムの耳が私の胸元に当てられた。鼓動を聴いて「生きてる」とただ一言呟いている。


「キースが運ばれるまで、時間があるんだって。外国に運ぶから」

「そうか」

「カレンちゃんが動けるようになったら会いに行こう」


 依然フォルテムは私の心臓の音を聞いていたまま、そう言った。私は肯定の代わりに、彼の血で汚れた髪を指で梳く。


 キースがいなければ生まれなかった関係が、キースが死んだことで生まれてしまった。

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