幕間3 瓦解
耳の奥か、脳か。はたまた腹部か。甲高いと耳鳴りのような、絶叫のような、呻きのような。もしくは全てかもしれない。
痛みで意識を浮上させ、出血が意識を沈下させる。死神とやらが存在するのなら、頸に鎌でも当てているのだろう。まぁ、実際に鉄槌を下そうと立ちはだかるのは、正真正銘危険種族である魔族なのだが。
杖が遠い。魔法使いが必ず握っておかないとならない武器が、魔族の靴底で汚れていく。流れ出た体液がぬかるみを作って私を浸していった。
「ボクの眷属が殺されたから見に来たんだ。こういうことされるとさ、すごく困るんだよね」
背筋が凍るほどに温度がなく、女性とも男性とも言えない声色。先ほどまであったさえずりが嘘のように静まり返り、私たちの緊迫した息遣いばかりが残っている。
あぁきっと、この歯をかちかちと鳴らしているのはキースだろう。過去に何度もピンチと言える場面はあった。その度に、私かフォルテムがなんとかなんとか打開してきたのだ。そんな中後衛である私が地に伏せるのは、恐ろしいほどに稀有な事だった。
理由なんてものは明白で、ただ前を行く二人に護られてきたから。それが女という性別故になのか、魔法使いという役職故になのか。今になっては知ることも出来ないだろう。だって、こんなにも死を近くに感じられるんだから。
唇に土の味が触れる。何もしたくないというのに、腹の奥が不規則に蠢いてコポコポと吐血した。誰かが喉が裂けそうなほどの声で私を呼んでいる気がする。
「……あれえ。よく見たら後ろの君、勇者なの? その持っている剣、そういうことだよね? あー……そういうこと? だからボクの兎ちゃんすぐ死んじゃったんだ。困るなあ、困るなあ」
魔族が一歩足をこちらへと踏み出した。一歩、また一歩と足音が近づくにつれて、土を踏む音に血の混じった水音が混じる。
「仕方がないから、ここでまとめて殺しちゃおっか」
喉を鳴らす魔族は、どこか愉快そう。そして私たちを害虫と変わらぬものとして、処理しようとしている。次に危ないのはどちらか。
やはり、勇者という肩書きを持つキースの方だろうな。あぁ、そうすれば奇跡が起こればフォルテムだけでも逃げ切れるかもしれない。真っ直ぐ真っ直ぐ、結界の中にまで走ってしまえば。もっとも、フォルテムならばそんなこと出来やしないだろうが。
思考は妙に冷静で、息絶えるまで尽きないらしい。こんな状況で未だ、あの男共の未来を願っている。
「ひとまずそこの勇者を――」
「あ……」
私の喉が鳴る。同時に沈静化してきたはずの痛みが津波のように襲ってきた。のたうち回りたい苦痛と、脱力した肉体が相容れない。だが、それ以上に今ある微かな意識を使うべきだと思った。
「……二人……見逃せ」
「え。えぇ……? もしかして生きてるの? 生命力ヤバ……気持ち悪……」
せめて、会話が通じる相手でありますように。汚らわしいと見下ろすこの魔族が、私の言葉を理解できますように。そして、意図を汲んでアイツらが私を見捨ててくれますように。
「あ……んたの兎とこ……ちらの命で一、一交換に、……ふ……ぅ……」
惨めな命乞いは果たして、聞き入れてもらえるのだろうか。そもそも思考と喉から出た言葉が一致しているのかすら分からない。後は、魔族の言葉を聞き取れるほどの意識が、今の私に残っているのかどうか。
「いいよ?」
――今、なんて。
「え……ぁ……」
「よいしょっと」
間の抜けた声がして、強制的に視界を開かれた。ブチブチという音と頭部の皮膚が千切れそうな感覚に、髪を掴まれ持ち上げられたんだと分かる。
私は突然の浮遊感に吐き気を覚えながらも、魔族の相貌を睨んだ。
「兎ちゃんの代わりに一人殺して二人逃がしてあげる。ボクは優しいんだあ」
品定めるように私を見て、口元を歪ませている。魔族特有の大きな角周辺に魔力が渦巻いて、髪を掴んでいない腕へと流れているのが分かった。
この腕がトドメをさすのだろう。そんな事せずとも、私は時期に息絶えるというのに。
「すぐラクにしてあげるよ」
「あぁ……はやく……してくれ」
終わりがこんなでもなければ、悪くない人生だったと思う。好きな魔法に四六時中触れられる職に就けて、魔王討伐なんて物騒な名目だが色んな場所を巡って。
なによりも、命を明け渡してでも守りたい人間が出来た。これ以上の幸福、願ってもあるものか。
過去の記憶が鮮明なほど思い起こされていく。なるほどこれが走馬灯か、なんて。
・
「うおおおぉおぉっ……!?」
刹那、空気が揺れた気がした。馬鹿みたいに五月蠅い声が、嫌ほど綺麗に頭へと入ってくる。聞きなれた咆哮と同時に、私の身体は空へと投げ出されていた。
「やァッ……と解けたぜ、『拘束魔法』。小賢しいことしやがってよォ……」
「ボクの腕、あと角……。勇者の剣ってそんなに切れ味いいんだね。うん……凄く痛い」
今私を支えてる腕は異様なほどにぬるくて、微睡みのような安心がある。それが不思議で仕方なくて、私はただ「なぜ」と喉を震わせた。
瞳だけで魔族の姿を捉えれば、私の髪を掴んでいた左腕と左側の角が綺麗に斬り落とされている。角に溜まっていた魔力が血液と同時に霧散して、不快そうに頭を振っている。
「嫌い、嫌いだなあ。勇者」
「おれだって死ぬほど嫌いだぜ! おれン仲間ズタボロしやがってよォ……! ――フォル! どうだ!? もう動けっか!?」
ぼんやりとした聴覚が徐々に鮮明になっていく。私を庇うように肩を支えるキースがフォルの名を呼んでいた。明確な返事はなく、ふーッ……と興奮した息遣い。
攻撃を受けた魔族は、落ちた腕を面倒くさげに拾い上げ、傷口にくちくちと擦り付けている。
「な……ん……」
「なんでもクソもあるか。もうお前喋ンじゃねェよ。――おい!? フォル! カレン抱えたまま走れるよな?」
「アレはどうするの。殺しておかないの」
フォルの返答には感じたことのない色が滲んでいた。殺す、なんて彼の口が聞くことになるとは。しかし、そんなフォルを宥めるようにキースが遮った。同時に私の肉体が、フォルテムに預けられる。
「馬鹿言うんじゃねェ。あんなバケモン、今のおれらに戦えるかよ。だから、落ち着け。カレンは生きてる」
「っ……わ……かった」
いつもであれば、何かと指揮を取るフォルテムが力なく頷いた。対して、キースは真っ直ぐと勇者の剣の切っ先を魔族に向けている。黒々とした瞳が爛々と輝いて、唇の端が歪んだ。
「走れ、フォル。おれァ、さっきの攻撃で分かっちまったんだよ。――勇者の剣ありゃ魔族なんざ、兎野郎と変わんねェ……!」
キースが重心を下げ、爪先が地面を抉る。同時に、フォルの身体がゆっくりと沈み込み、弾けたように魔族へ背を向けた。私を抱える腕は、決して落とさないようにと力が含まれる。景色がぐらりと歪んで、逃亡を開始したのだと理解する。
「あ、くっついた」
しかし、魔族の声色は一切と言っていいほど変わらなかった。「くっついた」という言葉から察するに、押し付けていた腕が治ったのだろう。回復魔法があれば、この短時間であの一閃を無に期してしまう。
「もっぺんおれが斬り落としてやるッ……!」
「ねぇ、さっきから五月蝿いよ」
肉が千切れる音がした。鈍い落下音に混じった甲高い金属の音。絶叫。
キースの腕が。勇者の剣を握っていた腕が。腕が。
思わず、悲鳴に近い息が零れてフォルテムが足を止めた。フォルテムの目いっぱい開かれた瞼が、欠損したキースを映す。
「不意をついただけの攻撃で調子付いちゃって。これだから勇者は嫌だね」
「あ゛ぁ!?」
「だから、五月蝿い」
魔族の魔力が急速に練られていく。禍々しい色味が透徹した質量へと変化し、迷いなく放出された。
一手がキースの腹部へ風穴を開ける。次に、胸。脚。そして最後に左胸。
「うぎっ」
最後に聞こえたのは断末魔とも言い難い、短い音だった。




