第一章23 戦斧の魔法使い
カーテンの隙間から差し込む陽光が伸びて、ベッド上で並ぶ二人を照らす。エレナは両脚を左右に開き、胴体をシーツと一体化させている。
硬さを感じさせない動作に、ネージュは眼を瞬かせた。
「……どこに骨が……?」
「ネージュって、たまにあたしを人間かどうか疑ってくるよね」
エレナが不貞腐れるような口調で言うと、ネージュは真似事のように自身の脚を左右に広げる。裾から覗く肌は、始めた会った頃よりもずっと肉が付いて健康的に見えた。
「ふぐぐ……」
上体を頑張って落とそうとするも、エレナのようにはいかない。膝が笑うように震え、限界を迎えると直ぐに脱力する。簡単に手折れそうな細腕をシーツに投げ出し、
「無理です……」
と、呟いた。無理に広げた骨盤が痛むらしく、苦しげに唸っている。
朝食はどうしようか。なんて和やかな会話をして、ふとこの邸宅の家主の話に変わる。
「カレンさん、まだ帰ってこないねえ」
「また書斎に籠っているのでしょうか。ここ数日働き詰めですけれど」
「元々多忙な人だからねえ」
宮廷魔術師としての勉強。研究。宮廷魔術師見習いの指導。事件以降、下層部一斉処分が行われたせいで一層仕事が増えたらしい。加えて、エレナとネージュの魔法を見ているのだから、忙しいなんてものじゃないはずだ。
ネージュもここ最近の働きぶりには、不安を覚えているようだ。
「大丈夫。今日は帰ってくるはずだよ」
「そうでしょうか」
「だって、そういう人だもん」
今日は、ネージュと共にウディルネを発つ日。そんな大事な日を放り出すほど、カレンは薄情じゃない。エレナはベッドから降りると、修理され靴底を取り戻したブーツに脚を通した。
壁に立てかけられた戦斧に指先で触れ、『収納魔法』を使う。全身にかかる重みに、安堵交じりなため息を溢した。――魔法も、滞りなく使える。
この能力欲しさに、どれだけの苦悩があっただろう。部屋の灯りもつけられない。食事の支度すら出来ない。
誰かの魔力に寄りかかることでしか人並みの生活が出来なかったエレナにとっては『収納魔法』すら、大きすぎる一歩なのだ。今のエレナを故郷にいる家族――そして、幼馴染たちが目にしたなら、どう反応するのだろう。
「エレナさま?」
「あぁ、なに?」
「玄関の音が。カレンさまが帰ってきました」
そう伝えるネージュが、エレナの服の裾を引く。確かに、下の階ではガサガサと人の気配。自身の成長を感慨深く感じているうちに、家主が帰宅したらしい。
――やっぱり。カレンとはそういう人間だ。義理堅いというべきか。あぁ見えて対人関係を非常に大切にする人物なのだ。
「挨拶しに行こう。忘れ物はない?」
「はい。少し、寂しくはありますが」
心のヴェールが剥がれたような素直さに、エレナは思わず口元を緩ませた。生活感を可能な限り削ぎ落した部屋を後にして、二人は軋む階段を下りていく。
陽光だけが照らすダイニングでは、疲れを背負ったカレンが外套を脱ぎ去る。「馬鹿みたいに暑い」と愚痴を言いながら、顔に冷水を浴びせていた。シルバーの髪にかかる水滴が煌めくように反射していた。
「なんだ、お前ら。まだいたのか」
「まだ、ってなに!?」
「冗談だ。ネージュ。少し来い」
自然とタオルを用意しに走るネージュが呼び止められる。反射的に「はい!」と返事して駆け寄る少女を見て、カレンはふん、と鼻を鳴らした。
「やる」
そう言ってカレンが腕を突き出す。瞬間、『収納魔法』によって長杖が現れた。
赤みがかった茶褐色の木材に、砕かれたシアンの魔法石が散りばめられている。頂きには手のひらサイズで球体の魔法石がはめ込まれていた。
「お前は私の弟子なんだから。ちゃんと良い道具をもっておけ」
ぶっきらぼうに包まれた情に、ネージュが霜のような睫毛をしばたく。まるで信じられないとばかりに唇の開閉を繰り返し、零れるのは「なぜ」「どうして」と疑問をぶつけるばかり。しかし、カレンは気にしないとばかりに話を続けた。
「ここ数日、部下にとある魔法を教えていてな。昨晩ようやく会得したんだ」
「へえ。あ、それでずっと家を空けてたの?」
「その通り。新しい魔法の論文発表に必要な会得成功者を徐々に増やしていこうと思ってな」
カレンが興奮気味に語る。その様子にエレナとネージュが視線を合わせ、首を傾げた。
「その魔法がネージュに叩き込んだ『回復魔法』だったんだ。組織修復の直前に魔力を流し、神経を保護してから回復する方法。ネージュが実験用マウスで繰り返して会得した、白魔法使いでなくとも使える『回復魔法』だ。ネージュに加え、部下にも成功者が出たことで、私の理論が正しいと立証された……!」
どこで息継ぎをしているのかと問いかけたくなるほどに矢継ぎ早。いつもは気だるげに伏せられている瞼も、寝不足を感じさせないほど生き生きとしていた。思えば以前から、カレンは「研究職に就きたい」とボヤいていた。それが今や「この論文が広まれば、これまでの常識が覆るはずだ!」と、小躍りでも始めそうなほど。
「よくわかんないけど、ネージュがその研究の成果に関わってるってこと?」
「そういうことだな。そして、成果には報酬が必要だ。だろう?」
カレンはそう言って、ネージュの小さな手に長杖に押し付けた。揺らすたびに魔法石がぶつかり合い軽快な音が鳴り、自然光が反射する。
「あ……ありがとう、ございます。大切にします」
絞り出したような声に、カレンが満足げに頷いた。ネージュはまじまじと長杖を見つめた後、胸元で大事そうに抱く。
「いーな! いーな! カレンさんカレンさん。あたしには? あたしにはなんかないの!?」
突然、声を張り上げたのはエレナだった。ダイニングのチェアに腰かけ、手足を控えめに揺らしている。
「お前は既存の初歩魔法覚えただけだろ」
「ひどっ!? あたしだってカレンさんの弟子じゃんかー!」
わざとらしく眉を寄せて見せた。冗談半分、本気半分。だがカレンは「このガキ……」と呆れたようにエレナを睨んだ。
「お前の師匠はフォルだろう。戦士としての最高傑作。それだけじゃ足りないのか?」
「足りないわけじゃないけどお……」
――少しくらい「よくやった」みたいな言葉があってもいいじゃないか。なんて言葉通りガキのような考えが、エレナの中にめぐっていた。確かにネージュが得た成果に比べれば、大したことないのだろうが。
「くだらん心配しなくても、エレナはちゃんと私たちの成果物だよ」
降ってきた言葉に、エレナが目を見開く。カレンの細くて骨骨しい指が乱雑に前髪を乱す。
「私に強請らなくても、杖代わりの武器がお前にはあるはずだろ?」
その言葉に応えるように、エレナの手に戦斧が現れる。両面刃で、その中央には真っ赤な魔法石。柄の部分まで装飾の掘られたそれは、誰がどう見ても上等な品。フォルテムがくれた、なによりもエレナの強さを象徴するもの。
「魔法石なんてそれで充分。『戦斧の魔法使い』なんて、お前に似合ってかっこいいじゃないか」
カレンの双眸がゆっくりと細められた。対して、エレナの瞼が見開かれていく。
「どうした。面食らった顔して」
「いや……らしくないと思って。ねえ? ネージュ」
「え。えっ……!? ま、まぁ……珍しくは……」
二人が眼差しを絡める。カレンも合わせて奇妙なものを見る顔をした。が、この妙な空気も全部カレンのせいだ。
「カレンさんが肯定的なこと言うと……さ。なんか……違和感」
セピア色の瞳が揺られる。口をついて出たのはからかいのような照れ隠しだった。師から魔法使いの称号を与えられたこと。魔法を学ぶ人間にとって何よりも喜ばしいはずの出来事だというのに。
「カレンさんに褒められると裏を感じて素直に喜べない……」
自然と唇が戦慄く。健康的な肌が緩やかに血色を帯び、羞恥を誤魔化すように唇を尖らせ目線をフローリングへと落とした。先には、液体のように脱力して怠ける黒猫。立ち耳を震わせながら、掠れた甘え声を発した。
カレンがその場にしゃがみ込むと、柔らかく艶のいい毛並みを爪先で撫でる。
「行って来いよ、クソガキども」
そう言ったカレンの顔は見えなかった。喉の奥がざらつくような声に滲んだのは寂しさか。それとも別の感情か。あしらうような動作の中に、引き止めるような色を感じたのは都合の良く捉えすぎだろうか。ふ、と破顔していくエレナに反応したカレンは最後、尊大に鼻を「ふん」と鳴らした。