第一章 22 『回復魔法』
ネージュがしたのは、たった一つの瞬き。
肩を支えていた熱が離れた瞬間、泥棒と指差された老爺は悲鳴もなく石畳に伏せていた。
「……え」
隣にいたエレナがいない。残るのは砕けた石くれ。他でもない、戦士の彼女が老爺を組み伏せていたのだ。喧騒があっという間に静まり、人々の視線は一点へと集中していた。
「あーこら、暴れないでってば。誰かー、衛兵さん呼んでくださーい」
そんな緊張感のない、けれど良く通るエレナの声。そこに焦燥も恐怖も感じられない。ただ淡々と老爺が抱えるバッグを回収している。
「うおおおっ! ねーちゃんすげぇーなぁ!」
「一瞬で捕まえちまった!」
「今の何が起こったの……!?」
息を呑んでいた通行人たちが、ワッと声を上げる。瞬く間にヒーローとなったエレナを、次々と褒め称え始めた。その中心に居る彼女は、称賛など目にくれないでいる。
――規格外が過ぎる。
エレナの動きに驚愕したのは、ネージュも同じだ。あの目にも留まらない速度は、何度見ても目と心を奪われてしまう。そんなネージュの意識を浮上させたのは、喉が引きつるような少年の声。「痛い、痛いよ」と喧騒交じりにネージュの耳に届いた。
目に入ったのは氷菓屋の近くでへたり込んでいる、五~七歳ほどの男の子。老爺に突き飛ばされていた子だ。手に持っていた氷菓は無残にも、石畳に溶けている。尻餅をついた時に擦ったのか、ふくらはぎには痛々しく血が滲んでいた。
そんな少年を気にかけるべき人物は皆、エレナへと関心を向けている。唯一、氷菓屋の店主だけが少年に声をかけていた。
「大丈夫、ですか」
気付いた頃には、少年へ声をかけていた。ワンピースが乱れるのも気にせず、ネージュは目線を合わせるように膝をつく。
「大丈夫……じゃないですよね。すみません」
ネージュはたどたどしく言葉を紡ぎ、白い睫毛を伏せた。未だ、エレナやカレン以外と話すのは苦手だ。今だって、何に対して謝ったのか自分でだって分かってはいない。それでも少年に声をかけたのは、無計画ではなかった。
「おねえさん……?」
「少し傷口に触れますね」
「え、嫌だ……!」
「痛くはありません、私が治します」
断固とした口調で告げるも、少年は更に怯えを滲ませるだけ。脚を庇うようにして小さくなる少年に、ネージュは白眉を下げた。そんなやり取りに見かねたのか、
「おぉ、まさか白魔法使いってやつかい? 見たことのねぇ顔だが」
と、氷菓屋の店主が助け船を出す。「見た目通りの役職だな」と笑う姿に、ネージュは身体を強張らせた。男性はまだ、怖い。いつも守ってくれるエレナも、今は隣にいない。
深紅の瞳を不自然に泳がせたネージュは、視線を左下へ落とす。
「わたしは、白魔法使いではありません。ですが――」
「嬢ちゃん、そりゃあいけねぇや。五歳そこらの子が、ただの『回復魔法』に耐えられるわけねぇよ」
「……というと?」
「白魔法使いの持つ特殊な魔力じゃねぇと、痛ぇってもんじゃねぇだろ。むやみやたらに適正外の魔法を使うんじゃねぇ。母ちゃんに言われなかったか?」
悪意のない矢がネージュを穿つ。店主の言葉に誤りはなく、正論だ。男の目には、軽率に魔法をまき散らす危険な子どもに見えているのだろう。
「ほら、傷口洗ってやるから泣き止むんだな。男だろ?」
「嫌だ! 染みるもんっ!」
「我慢しろ、膿むぞ」
「いーやーだー!」
少年の駄々と、店主の困ったような呆れたようなため息。そして、その様子をネージュがただ見つめている。
――どうすれば、この二人を納得させられるのだろうか。……というか、説得する必要があるのかも分からない。
きっと、少年は傷口を洗ってもらって、家に帰れば親がいて、ガーゼで処置してもらって。ネージュが動かずとも、誰かが少年の為にこの傷を癒すのだから。
「……? どうした、嬢ちゃん。黙りこくって」
「やっぱり、今治します」
「あぁ? あんたさっき白魔法使いじゃないって言って――」
「言いました」
ネージュは少年に歩み寄る。涙で潤む瞳が、怯えを孕みながらネージュを見た。
「いきなり、ぶつかられて転んで怖かったですよね」
「っ……うん。怖かった」
「わたしは白魔法使いではありません。ですが、とぉーってもすごい人に痛くない『回復魔法』の使い方を教えてもらったんですよ。この国の宮廷魔術師です。とってもすごいのです」
喧騒からはぐれる少年を、無視なんてしたくなかった。見て見ぬ振りも、誰かが手を差し伸べると信じて他人ごとでいることも。だってそれは、他でもないネージュ自身が浴びてきた悪意のない攻撃だったから。どんな些細な傷も、膿んでからでは遅いのだ。
ネージュは、『収納魔法』でペンダントを取り出し、両手で包み込む。乳白色の魔法石に魔力を流し込み、パリパリと氷魔法で小さな氷塊を創り出す。
「今日は少し暑いですからね」
なんて呟いて、創り出した氷塊を軽く頭上へ投げ出し魔力をぶつけ砕いた。瞬間、四方に散った氷塊が陽射しを反射させ、空気を含みキラキラと優しく降り注ぐ。
「……? わあぁっ……!」
少年の感嘆の声。店主の男も「おぉ」と腕を組み、感心するように空を見上げていた。エレナと出会ってから、寂しさを紛らわすためのお遊びが幾度と役にたっている。
誰かの役に立つ、なんて。過去のネージュでは考えられないことだった。
ネージュはゆっくりと少年のふくらはぎに掌を寄せ、じんわりと魔力を注いでいく。
「『回復魔法』」
「……え!?」
「は!? 嬢ちゃん!?」
まんまと子供だましにひっかかった二人は、突然の詠唱に目を見開く。だが、ネージュは一切の動揺なくただひたすらに治癒を続けていた。
店主が心配を滲ませながら、少年の肩に手を添える――が、痛みに悶える様子はない。
「……ね。痛まないでしょう」
額に浮かぶ玉のような汗を拭い、破顔する。
「うん。痛くない。え、すっげー! いつ治したの!?」
「魔法でキラキラを出した時です」
「おねえさんすっげー! おじさん、痛いとか嘘じゃん! 嘘つきぃ!!」
「いや、んなはずは……ねぇんだがなぁ」
少年の「噓つき、噓つき」コールに観念したのか。店主は、新しい氷菓を取り出しガシャガシャと砕き始めた。きっと、落としてしまった氷菓の代わりだ。
「新しいのタダでやるからその『嘘つき』ってのやめろ」
「やったー! おじさんありがとーっ! おねえさんも! ありがとー!」
涙の跡を頬に残しながら眩しい笑顔を向ける少年に、ネージュはただ一言。「はい」と答える。ここで気の利いたことが言える人間ではない。ふと、エレナならどう答えるのだろう、と考えてから、小さく頭を振った。
「やっぱり魔法ってすごいや」
「そうですね。――え? きゃああっ!? エレナさま! い、いつからそこに……」
「いつって……ネージュが氷魔法使ってたくらいから? 衛兵さんに引き渡して、荷物持ち主に返してすぐ来たよ」
相手がエレナとはいえ、急に声をかけられては驚いてしまう。暴れる心臓を両手で押さえながら、
「こ、声かけてくださいよぉ……」
と、情けなく呟いた。
「ごめんごめん。なんか、凄い頑張ってたみたいだから」
「そ、そういうわけでは……!」
「邪魔しちゃ悪いかな、と思ってさ。おじさん、氷菓二つください!」
「あいよ、果実は何にする?」
そう笑うエレナの手が、労わるように髪を撫でる。――あぁ、この人は等身大の努力を評価してくれる人だった。下手くそな声掛けも、子供だましみたいな魔法も、誰もが目にも留めない勇気にだって。そして、まるでご褒美のようにぬくもりを与えてくれる。
「ネージュ。果実、何が良い? 決まらないなら、あたしが決めようか」
こちらに振り返る赤髪と琥珀色の瞳が眩しい。まだまだ褒められたくて、その手に触れてほしくてたまらない。足りないと渇望する心が、どんどんと耐え忍ぶことを諦めていく。
「マンゴーがいいです。わたしマンゴーの果実が、食べたいです」
「……っ! マンゴーの方、大盛にしてください……!!」
――こんな些細な決断すらも大げさに喜ぶ貴方が、愛おしくて堪らない。