第一章 21 イースト区
皮膚が痛むような陽射しにネージュが顔を顰める。狭い歩幅がさらに引き摺るようにもつれて、エレナが腕を引いた。
エレナがこの国に訪れてから三カ月と半月。寂しくなるほど閑散としていたウディルネは、幼少期エレナが感じた活気を取り戻しかけていた。子どもが駆ける。跳ねる。笑う。女児誘拐事件が解決したと号外の紙面に載って以降、徐々に国の空気は本来の形に戻りつつあった。
ネージュの表情は、浮かないような悲しいような、迷いを生じているような。理由は一つだろう。――この国を出るのは、明日だ。
「え、エレナさま。どちらへ向かわれるのですか?」
「んー。どうしようかなあ」
「えっ」
皎い睫毛に縁どられた紅色の瞳が揺れる。まさか、無計画だとは思っていなかったらしい。残念ながら、エレナは考えるのは得意でない。実直な感想がヒトを救うことはあれど、思考すればするほど言葉は出なくなる。結果、気晴らしに連れ出す、という強行に出たわけだが。
「何処か行きたいところはある?」
問いに、ネージュは頭を振る。想定内だった。これでもし、「あそこへ行きたい」とでも言ったときには、喜びより驚きが勝るはずだ。短く「そっか」と答え、エレナは少女の腕を引く。聞こえるのはたどたどしく石畳を蹴る音。全てが、足任せだ。向かうはイースト区。過去、サナティオが「ショッピングをするならイースト区に行きたい……!」と、目を輝かせていた記憶を辿って。
◇
イースト区へ踏み入った途端、視界をテラコッタ色が彩る。両サイドに広がるのは、華やかなショッピング通り。浮足立った喧騒に、ネージュがふと身を寄せた。――が、困った。
年頃の娘が喜びそうな場所だと考えた場所のはずが、喜ばせ方が分からないのだ。エレナは、ファッションに全くの無関心と言っていい。今着用しているインナーも、ただ動きやすいから。という理由だけで選んだものだ。サナティオがこの場所を楽しめていたのは、服飾が好きだからである。
「エレナさま?」
足を止めたエレナを、困惑交じりに見上げる。従う癖の抜けないネージュは、ただ、エレナの決定を待っていた。
「……よし!」
結局、考えても仕方がないのだ。エレナはブーツの靴底で、レンガを鳴らす。
「このブーツ、結構滑り止めが削れてるんだ。一緒に見に来てくれない?」
なんて、即席の言い訳にネージュは迷わず頷いた。
◇
エレナのため。そんな名目を与えられたネージュは、少しばかり顔色が明るい。引かれていた腕は、いつしか引く腕に変わっていた。
「エレナさま。あちらの靴屋はいかがですか?」
「入ってみようか」
ネージュが指さしたのは、ショーケース越しに革靴の並ぶ店頭。店主が革靴を磨きながら、黙々と客が来るのを待っている。店内に入ると、特有の重く乾いた香りに包まれた。壁には氷の魔法石が埋め込まれ、外気の暑苦しさが幾分か和らぐ。
「修理かい」
開口一番、店主はエレナの足元を見て言った。そんな予定はない。目的は新調だ。しかし、こちらが口を開くより早く店主は修理の支度を始めてしまう。
「ま、待って。修理じゃなくて、新しいのを買いに来たんです。この靴は、底がもう削れてしまっているから」
爪先をカツンと床板にぶつけ、靴底を店主に見せた。確かに、エレナが所有しているものの中では高価なものだしなにより思い入れがある。けれど、数え切れないほどの冒険や戦闘をこなしたこのブーツに、復活の余地があるとは思えない。むしろ、履けていることが奇跡みたいなものだ。
「――だから、少し見させてもらっても?」
壁に並べられた革靴はどれも上等に見える。値札をチラリと見やれば、一週間分の外食が出来る値のものもあった。ネージュも気合いが入っているのか、エレナが今履いているものと似た形のブーツを物色している。
が、店主は呆れたようにため息をついて職人道具を広げていく。
「どんな扱いをすればそんなボロになるのかは知らんが、本革ってのは何年も何十年も使える代物だ。靴底くらい、張り替えてやる。値は張るがな」
思わず、ネージュと目を見合わせた。思わぬ言葉だったのだ。直せるのなら直してもらいたい。エレナはおずおずと靴紐を解き、ブーツから脚を抜いた。
「じゃ、じゃあ……お願いします」
◇
店主から借りた布の靴は、小気味良かった足音を変えてしまう。修理の間、店主に「気が散る」と言われた二人はイースト区をぶらつくことにした。
「そんなにいいものなんですか? あの靴」
「えっと。貰い物だから、どれほど良いものなのかは分からないんだ」
五年近く前になる。安物の靴ばかり選んで、直ぐに穴を開けていた頃。見かねた仲間――幼なじみたちがお金を寄せあって、長く使えるよう贈ってくれたものだった。魔王討伐すらも共にしてきたのだから、思い入れは非常に深い。まだ歩めるのだと、安堵さえあった。
「修理が終わるまでの待ち時間、どうしましょうか。日暮れ頃になりそうだと言っていましたが」
「たくさんお店あるんだし、ぶらぶら見て回ろう。なにか欲しくなるものがあるかも」
ショーウィンドウに並ぶのは煌びやかなワンピース。魔法石の並ぶアクセサリーショップや、香りだけで胃が疼くレストラン。子どもが店頭に張り付いているのは玩具屋だ。
どんな娯楽も整うとされているイースト区。目的を定めるのも一苦労である。ネージュの様子を見ても、特に視点が定まることはなかった。
――人の多さが苦手なのか、それともショッピング自体に興味がないのか。
ふと見渡して視界に入ったのは、氷菓を売る屋台。魔法石で冷やされた果実を削った甘味。暑さに堪えた人々が、銅貨数枚を握りしめて並んでいる。
「あ、あれって氷菓屋さんじゃない? 今日暑いし、丁度いいよ」
唯一自信をもって言えるのは、ネージュは食べることが好きだということ。小柄に見合わぬ食事量は、時にエレナを超える。提案を受けたネージュが微かに目を輝かせた。――その瞬間だ。
「クソガキ、邪魔だッ……!」
「うわぁっ……!?」
目の前で氷菓を受け取った少年がしりもちを突いた。人々の隙間を縫うように全力疾走する男が、子どもたちを押しのけたのだ。同時に、「泥棒よッ……!!」と劈く女性の悲鳴。平和な街並みが、途端に混乱に包まれてしまった。
「きゃっ」
「あぶな……!?」
なりふり構わない泥棒がネージュに衝突しかけ、咄嗟に引き寄せる。男の見開いた瞼と、血走った眼球が妙に印象的で。
「あの人……どこかで……」
エレナは記憶を辿る。身なりは若くない。それどころか、老いぼれだと職を断つ歳にも見える風貌。伸ばしっぱなしの白髭。……女児誘拐事件で、主体的に子どもらをカルウたちに引き渡していた浮浪者の一人だ。
大方、カルウたち主犯から受け取っていた硬貨が底を尽きたのだろう。捕らわれなかったのか、釈放されたのか。いずれにせよ、だ。
「……ネージュ、少し待ってて」
喉から溢れた声は酷く掠れていた。肩を抱いていた腕を離し、石畳を踏みつけ――蹴り上げる。衝撃で弾けた破片を置き去りに、駆けた。