第一章20 書斎
カレンの邸宅で目を覚まし、隣で眠るネージュを起こす。三人で朝食を取って、庭で魔法の練習。午後からは、ウディルネを散策したり、地下にある広大な書斎で読書をしたり。そんな生活が日常になって、三カ月も経っていた。陽は伸びて、外の空気を浴びるだけで汗が滲む。もう夏だ。
「――ならもう一度、私の魔法を『防御魔法』で防いでみろ」
エレナは首を縦に振ると、カレンが杖を構える。魔力を魔法石に送ると、先端に風属性の魔法が生成。手のひら大の球体サイズになった瞬間、エレナに向けて放出された。
脳内で『防御魔法』の詠唱をなぞり、魔力の熱を指先に集めていく。
魔法が着弾する直前、エレナの生み出した魔力の壁が阻んだ。
「ふん」
「え? ちょ、わあっ……⁉」
――が、カレンの魔力押しによりパリンッと音を立て、『防御魔法』が破れた。
緑風がエレナの顔にぶつかり、咄嗟に目を瞑る。気付けば、前髪が立ちあがり情けない姿になっていた。
「ねえ、なんで?」
「ちょっとした遊び心だ。まぁ、目標だった『防御魔法』の無詠唱は出来たな。『収納魔法』ももう、詠唱はいらんのだろう?」
「うん。問題なく使える」
手にある戦斧を出し入れしてみせる。体重の増減には未だ違和感があるが、滞りない。想定していたよりも、ずっと早くに会得出来ていた。エレナが憧れた壮大で綺麗な魔法とは程遠いが、それでも頬が綻ぶ。
汗を流した分だけの水を飲み、ぷはっと息を吐いた。合わせるように、邸宅の玄関がゆっくりと開く。
「エレナ様。お水のおかわりありますよ」
「ありがと、ネージュ」
ガラスのコップを受け取り、一気に煽る。外に置いていた物よりも冷たくて、喉元に快感が通る。ネージュは、カレンにも水を手渡していた。
「カレン様。昼食のご用意が出来ました。……それで、その。その後に……」
「分かってるよ。エレナと交代な」
「はい、ありがとうございます……!」
ネージュは柔らかく微笑むと、駆け足で邸宅に戻っていく。残された二人も、その轍を追った。ふと、カレンが立ち止まりこちらへ振り返る。
「ネージュを見ている間、地下の書斎から気になる魔導書を探しときな」
「え、教えてくれるの?」
「魔法による」
今までは、誰もが使える魔法にしか触れていなかった。それに不満はない。それすらも、エレナにとっては新鮮な経験だった。足取りが軽くなるのを感じながら、エレナは邸宅の中へ入る。ダイニングの中央にあるテーブルには、ネージュが作った昼食が並んでいた。
「今日は外が暑いので、冷製パスタにしてみました。カレン様から頂いたトマトがたくさんあったので」
人数分の冷製パスタと生野菜のサラダ。ネージュの作る料理は、見た目にも気を使われていてとても美味しそうだ。レストランで出されていても、違和感がないかもしれない。
夕食を担当しているエレナが得意なのは、家庭料理。昼食と夕食ではまるで雰囲気が変わる。
三人が席に着いた時、黒猫はすでに用意された餌を貪っていた。
「恵みに感謝を」
手を組み、目の前の食事に感謝する。くらくらするほどの熱気に、冷たいトマトが染みる。心から「美味しいね」と言葉が零れて、ネージュはふにゃりと笑った。
◇
昼食を終え、エレナが向かったのは地下。長すぎる階段を降りると、首が痛いほど見上げられる高い天井。手の届かない位置にまで本棚が設置されており、所狭しに魔導書が蔵書されている。
壁に設置された魔法石に触れると、暖色の暖かい間接照明が起動した。
カレン曰く、「この量の魔導書を保管するのは難しいからな。地下なら日焼けしないし、外気にも触れない」らしい。すん、と鼻を鳴らせば独特な紙の香りが鼻腔を擽った。
「これだけの数読んでちゃんと覚えてるんだから凄いよなあ」
ネージュがカレンに指導を受けている間、この場所は自由に見て良いと言われている。エレナは、カレンから渡された紙きれに視線を落としながら木製の地面を歩く。
エレナでも扱える魔導書が保管されている本棚をあらかじめメモを取ってくれていたらしい。本棚に割り振られた番号がいくつか手書きで書いてある。
書斎内は非常に静かで、小さな息遣いすら反響してしまう。そんな中、エレナから発されたものとは違う、ペタ……ペタ……、という音が交錯した。
「何の音……?」
この空間にはエレナ以外居ないはず。歩を止め、耳を澄ませると微かだった音が明瞭になる。足音……だろうか? エレナは息を潜めると、異音の正体へと歩を向けた。
広い書斎の中で、本棚の隙間を縫いながら進んでいく。
「誰かー……いる?」
そう声をかけると、ドサドサという落下音。発生源に慌てて駆け寄ると、そこには重そうな本に押し潰された黒猫がいた。助けを求めるようにか細く、
「にゃー……う」
と何度も鳴いている。安堵のため息を溢したエレナは、落ちた魔導書を拾うためにしゃがみ込む。
「もー……いつ忍び込んだの?」
「ふにゃあ」
もしかすると、エレナが書斎に入るタイミングで一緒に入ってきたのかもしれない。分厚い本を持ち上げると、黒猫はエレナの足元へ擦り寄った。まるで自分のしでかしたことを理解して、誤魔化しているように見える。
「何処から持ち出したのさ、こんなの」
表紙は、真っ黒。皮を撫でても、タイトルが書いてある様子もない。適当に本を捲ると、びっしりと文字の詰まったページが現れる。そこだけ特に読み込まれているのか、その周辺の紙だけがくたびれたように撚れている。
「禁忌……魔法? 聞いたことないな」
緻密な魔法陣の絵の横には、細かく魔法の発動条件が描かれている。目を滑らせながら掻い摘んで情報を得ようとするも、「遺体があることが条件である」「身体の一部を献上」「献上に必要なものは魔力量で変わる」など、物騒な言葉が羅列されていた。
禁忌――これはきっと触れてはいけないもの。エレナは頭を振ると、性急な動きで本を閉じた。魔導書を元々あったであろう隙間に戻し、黒猫へと向き直る。
「悪戯し過ぎちゃだめだよ」
「にゃあ」
もし、魔王討伐前にあの魔導書を見つけていたなら、戻さずにいたかもしれない。それほどまでに、非現実的で蠱惑的な内容だった。――『蘇生魔法』だなんて。
何故あのページだけが読み込まれていたのか。一度考えてしまうと浮かぶのは、フォルテムとその息子であるステラのこと。良心が止めたのか、遺体がないことで断念したのか。考え込んでしまうと、頭の端から二度と離れないような気がする。
「もう、忘れよ」
エレナは、メモを頼りに本棚を探し始めた。腕の中では、ころころと音を鳴らしながら脱力する黒猫が居た。
◇
「やり過ぎだろ」
書斎からダイニングに戻ったエレナを見て、カレンが呆れたように言う。目線の先には、十冊ほどの魔導書が抱えられており黒猫がその上で寛いでいた。
「決めきれなくてさあ」
「……はあ。全部は教えるのは無理だぞ。何冊かお前にやるから、自分でも学べ」
「くれるの⁉ やった、ありがとう!」
エレナは、テーブルにドカッと魔導書を置くとキッチンへと向かう。食材が保冷されている箱には、大量の夏野菜が詰め込まれていた。今日の夕食はカレーにしよう。
洗うためにいくつか取り出してシンクへと取り出した時、肩に手を置かれた。
「エレナ。ネージュの方も目標としてた段階まで進んでる」
「本当? ネージュ、ずっと頑張ってたもんねえ」
カレンがいつも魔導書を読んでいる窓辺では、ネージュが鼠相手に何か魔法を唱えている。その様子を見て、カレンは深く頷いた。
「そうだな。もとより、魔力量も申し分ない」
三カ月の間、休みなく魔法の特訓をしてきたのは、その先の目的があったから。エレナは、人参の皮を器用に剥きながら口を開いた。
「じゃあ、予定通り出発は一週間後にしよう」
カレンはただ一言「分かった」と言って、エレナから踵を返す。眉間に皺を寄せるネージュに「調子はどうだ?」と声をかける様はどう見ても師弟関係。
エレナは表情を綻ばせると、水の溜めた鍋にコンロにかけた。