第一章19 今後の話
「お母さんに、会いたい?」
言うと、ネージュの動きがピタリと止まる。困ったように眉尻を下げ、言葉に詰まり浅い呼吸を繰り返した。少女にとって、禁忌に近い問いなのかもしれない。いつもであれば、それ以上の動揺を招かないよう「気にしないで」と話を終えるのだが。
「ネージュが眠っている間、カレンさんと今後について話してたんだ。あたしはいつまでもウディルネにいるわけじゃないし、カレンさんも多忙な人で常に家にいられるわけじゃない。正直、このままあの家に住み続けるのは現実的じゃないの」
丁寧かつ冷静に、エレナは言葉にしていく。ネージュにとって、この事実がどれほど残酷なのか。彼女がどんな反応を示すだろうか。たくさんの想像をしたが、ネージュの表情は想像を超えたもの。
歯をかち合わせ、ペンダントを握る手は震え始める。エレナを見つめていたはずの瞳は、どこか遠くの絶望と相対していた。
「……それで出た案の一つが、ネージュが十八歳の成人になるまで孤児院に預ける」
「孤児……院」
「ウディルネにね、あるんだって。大きな教会で、孤児を預かってくれる場所。国の支援金も出てるし、貧しい暮らしにはならない。近い歳の子もいるだろうし、守ってくれる大人もたくさんいる」
――これが、カレンの出した案だった。ネージュを引き取る理由がなくなった今、家に置いて行くつもりは無いという事だろう。良くも悪くも、あの人は現実を見ている大人だ。感情を度外視した、一番正しい案を出してくれる。
「分かりました」
きっとネージュはこの案を呑む、ということも分かっていたのだろう。ネージュは、自分を殺すのが嫌ほどに上手だから。「嫌だ」と言って、自分を害す人とばかり接してきたから。
エレナは、少し悩む間を置いた後、口を開いた。
「――もう一つ」
「……え?」
静寂が流れる。エレナは深く息を吸い、一呼吸置いてから沈黙を破った。
「あたしが、ネージュを故郷まで送り届ける」
瞬間、どこか虚空を見つめていた深紅の瞳と視線が絡む。見開かれた睫毛が、窓から差し込む斜陽と涙でキラキラとして見えた。ネージュは唇の開閉を繰り返し、結局口を閉ざしてしまった。言葉の意味を咀嚼するのに、時間が必要なようだ。
ただ、シーツを抱く掌にはさらに力が込められていた。
「そ……外には」
「ん?」
「魔物が、たくさんいます。すごく危険で……死んじゃうかもしれなくて……」
聞き取るのが困難なほど揺れる声に耳を傾ける。時折しゃくりをあげながら、ネージュは必死に訴えを続けた。
「だから……わたしは……これ以上、エレナ様に迷惑は――」
「迷惑なんかじゃない」
ネージュの濡つ頬を拭う。そのまま、おもむろに立ちあがるとベッドの端に腰かけた。
「それに、あたしは死なないよ」
「エレナ様が強いことは知っています。でも……!」
ネージュの焦りとは反して、エレナは余裕ありげに口角を上げる。
「あたしの強さは想像を超えるよ?」
冗談めかして言うが、ネージュから疑念は抜けないでいた。それでも、絶対的自信のある理由が明確にある。
「だってあたしは、最恐の魔王を倒した勇者一行なんだから」
その事実が、なによりも強さの証明。
「あたしがネージュを迷惑に思う事なんて、何一つないんだよ。あたしは死なないし、ネージュも死なせない。……だから、あたしはネージュの望みを知りたいんだ」
エレナは破顔させながら、ネージュの手を掬いあげた。さらに大粒の涙を溢れさせた少女は、エレナに抱擁をせがむ。
「……いいんですか。まだ、貴方と一緒に居たいと願っても」
胸元で聞こえた籠る声に「勿論」だと答えた。服を浸透して、肌に少女の涙を感じる。
「エレナ様は、優しすぎると思います」
「優しくする相手くらい選んでるよ」
ネージュを抱き留めながら、ぼんやりと窓の外に目を向けた。少し前まで見えていた夕陽が沈み、帳が広がりかけている。
「そうだ。カレンさんにネージュが目覚めたこと伝えなきゃ。少しここで待ってて」
「すぐ戻るから」と付け加えると、ネージュは首を縦に振る。その表情にはもう、不安は残っていない。エレナは、扉から部屋を出てカレンの書斎へと向かった。
◇
「お前、なんて言った? もう一回言ってみろ」
いつ見ても魔導書が積まれてばかりの書斎。仕事に追われているカレンは、やはりここに居た。医務室でネージュとした話をそのままに伝えると、書類から顔を上げ鋭くこちらを睨んだ。
「だから、孤児院の件は却下して。あたしが責任をもって送り届けるから」
「なんでそうなるんだ。あの孤児院なら、金もあるし面会だって出来る。何の問題もないだろ」
目の下を隈で彩るカレンは、訳が分からないという風にボサボサの頭を抱える。
「なにをそこまでする必要がある? 犬猫に餌をやるのと話が違うんだぞ」
「そんなの分かってるよ」
「いいや。何も分かってない。お前、ネージュがどれほどお前に依存しているのか分かってるのか? 可哀想だからって、無責任に情を振りまくからこうなるんだ」
「そんな言い方ないでしょ……!!」
カレンの非情な物言いに、エレナの声も怒気を帯びていく。ヒートアップしていく言い合いを咎める者はいない。
「それは、故郷の幼馴染と離れてでもしないといけないことか? よく考えろ。たった数日生活した人間と、死闘も共にした人間。お前は本当に前者を選ぶのか? ネージュの故郷がどこにあるかも分からない。お前が言っているのは、いつ帰れるかも分からない旅なんだぞ」
カレンの方が、正しいのかもしれない。言葉は強いが、ネージュではなくエレナに寄り添った意見だということも分かる。それでも、折れる気はなかった。
「ネージュはまだ子どもなんだよ。成人して、自立して生きていけるサナたちとは比べられない」
サナも、ルカも、フィデスだって、自分なりの生き方を絶対に見つけてるはず。あの三人は、エレナが傍におらずとも生きていけるが、ネージュは違うのだ。
「それに……死にたいとか、人が怖いとか、そういうことは全然分かんなかったけどさ。冒険をして家族と離れる辛さは、あたしにだって分かる。あたしには友達がいたけど、ネージュはずっと一人だ。無責任な情かもしれないけど、本当にこれ以上泣いてほしくないんだよ」
「……後悔した時には、遅いんだぞ」
「誰のせいにもしないよ」
断固として譲らない態度に、カレンは更に心労を深める。だが、これ以上の口論は無駄だと感じたのか、額を手で押さえ息を吐く。
「もう……好きにしてくれ」
「じゃあ……!」
「でも、すぐじゃない。元より、お前には魔法の修行をつけるつもりだったし、もう少し家で教育させてもらうよ。勿論、ネージュもだ」
思わぬ申し出に、エレナは目を見開いた。むしろ、追い出されるくらいの覚悟を決めていたというのに。
「ともかく、私は一旦仕事を持ち帰る。お前ら二人は帰り支度をしておけ」
相変わらずカレンはぶっきらぼうで、優しさが見えづらい。エレナは「ありがと」と呟き、書斎を後にした。