第一章18 嬉しい
冷えた王城の地下。すでに何度か足を踏み入れたこの場所に、今日も向かう。全ては、温厚で無害な人間だと思われた男――レナトゥス・フェロのため。
格子越しに見えた男は右手首の先が無い。白魔法使い以外の人間による『回復魔法』を断固として拒否したからだ。会話を拒否しないことを条件に、現在は欠損状態を維持している。
カレンは、牢の中でうずくまる男の名を呼んだ。
「仕方が……なかったんです」
呼びかけに返事をするでもなく、レナトゥスは突然語り始める。数日前よりもやつれたせいか、頬が瘦けており声も弱々しい。
「同郷の人間に、昔の罪を明かすと脅されて従うしかなかったんです。僕には、それ以外の方法はなかった」
同郷の人間――カルウとヴィトのことだろう。実際に、二人も似た証言をした。カレンは「そうか」と短く相槌を打つが、正直同じ話を繰り返し聞くのはうんざりだ。
「僕は、本当に人のために働きたかった。フォルテムさんと出会って、目が覚めたんです。あぁ、取り返しのつかないことをしました。死んでも顔向けできない」
「……お前、フォルテムとそれほど親しかったか?」
突然、三年前に亡くした夫の名がレナトゥスの口から飛び出した。顔には出さないが、微々たる動揺が生まれる。カレンの問いかけに、レナトゥスが面を上げた。
「えぇ。故郷に一度来たことがあって……僕がウディルネに来てからも、稽古をつけてくれたり……良くしてもらっていました」
確かに、フォルテムは海外へ赴く仕事も行っていた。時折、数ヶ月姿を消しひょっこりと顔を出す。ウディルネ以外にも、慕う人間がいることは不思議じゃない。
彼もよく、「こんな人と出会った」「あの飯が美味かった」と、土産話を持ってきていた。
だからこそカレンは頭を振り、言葉を放つ。
「レナトゥス。これ以上を嘘を重ねるんじゃない。惨めだぞ」
思い出に浸っていた彼が、目を剥いた。何かを否定され、眉尻を下げながら訴える。
「そんな……! 僕の行いが悪かったことは認めます……! ですが、もう嘘だなんて一つも――」
どれが真実か、どれが嘘なのか。口達者なレナトゥスについては、全てを暴くことは困難。呼び起された思い出に胸を痛めながら、偽りの思い出を否定する。
「フォルの口からお前の名を聞いたことはない」
歪に吊り上がった唇の端が、ゆっくりと下がった。まるで、感情の全てを失くしたような表情に、全身が粟立つ。
この男は、いつからこの本性を隠し続けていたのだろう。恐らく、初めから。
人を欺くことに対し何一つ罪悪感を覚えず、心身ともに掌握出来る天性の危険人物。
「カレンさん。貴方、尋問なんて向いてないですよ」
「はぁ?」
「フォルテムさんの名前を出した時の顔。あまりにも分かりやす過ぎますから」
「忠告どうも」
カレンは、レナトゥスに背を向け牢を後にする。心臓にチクチクと残る感情の棘が、未だ抜けないでいた。
◇
レナトゥスを確保し、ネージュを保護して三日目。中々目覚めない少女に付きっきりだったエレナは、上体をベッドに預け瞼を落としていた。
ベッドで横たわるネージュの容態は、落ち着いている。
「……エレナ様?」
ふと、吐息混じった細い声がエレナの耳に届く。寝不足が祟ったのか、現実と幻聴の違いが分からず、おずおずと顔を上げる。
白い睫毛が解かれ、その奥にある赤い瞳と目が合った。
「ん、んー? あ!」
寝惚けた頭が覚醒する。上半身を起こし不思議そうにこちらを見つめているネージュに、思わず大声を上げてしまった。
ぼんやりした顔のまま、ネージュはもう一度エレナの名を呼ぶ。
「身体、怠くない? 痛いところは? 体調に変わりはない?」
矢継ぎ早の確認に、少女は目を丸くしながらも首を横に振った。
「ないです。あの……ここは?」
「カレンさん家じゃないよ。お城の方が、治療が受けやすいから」
「そう、ですか」
目覚めたばかりだが、受け答えに異常は感じない。少し痩せた気はするが顔色も悪くなく、額に触れても熱はない。
強張っていた身体が、脱力していく。
「……良かったあ」
「え?」
シーツを握りしめる小さな手を掌で包み、指先で撫でる。肌も髪も真っ白なネージュだが、あの血塗れた姿が脳裏に張り付いて剥がれそうにない。
「魔力消耗も怪我の具合も激しくて、熱も下がらないし、意識は全然戻らないし……。あたし、本当に死んじゃうかも……って」
「エレナ様。不安、だったんですか?」
「凄く」
エレナの即答に、ネージュは更に目を丸くした。何度も瞳を動かしてから、意を決するようにこちらへ問う。
「私が目を覚まさなくて、不安だったんですか?」
「不安だったよ。だって、今日で五日目! そりゃあ焦りもするし、不安にもなるよ」
「目覚めてくれたから、いいけどね」と明るく言って、エレナはからりと笑う。白い髪に指を通し、壊れ物に触れるようにネージュの頭を撫でた。ネージュの指が、エレナの服の裾を掴む。
「私……いつも死にたいって思ってました」
無理もない吐露だった。詳しい話を聞いたわけではないが、奴隷としての生活など想像するだけで身の毛がよだつ。
「辛くて、苦しい。奴隷は人間扱いなんてしてもらえない。だから、早く死んでしまいたくて。でも、自分で死ぬ勇気もなかったんです。この環境を助けてくれない周りのせいにして、早く殺されたいって思っていました」
エレナには、死にたい気持ちが分からない。両親にも恵まれ、友人にも恵まれた彼女は、なんの言葉もかけられないまま、静かに聞いていた。
ネージュは、エレナの手に頭を寄せながら続ける。
「だから、初めてなんです。生きてて、良かったと思えたことが。目覚めた時にエレナ様がいて『生きてるんだ』って、心底嬉しかったんです。貴方とまたお話出来て、本当に嬉しい」
「な、なんかそう改まって言われると照れるなあ……」
気付けば、ネージュの中でエレナの存在が大きくなり過ぎていた。期待に応えられたことによる安堵と、「生きてて良かった」と少女の口から聞けたことによる感動に頬が緩んでしまう。
和やかな空気が流れ、外からは小鳥がさえずりを奏でていた。
ふと、エレナが何かを思いだしたように「あ!」と声を上げる。
「このペンダント、ネージュのだよね?」
胸元のポケットを弄ると、金属の擦れる音。中から出てきたのは、乳白色の魔法石が装飾されたペンダント。魔法を使っていた時に、握っていたはずのものだ。
「ネージュをお城に運ぶとき、持ってないなって思ってさ。大切なものかもって思ったんだけど……」
ネージュが運ばれた後、事件があった周辺を探し回り、見つけた物だった。ネージュはペンダントを受け取ると、大切そうに胸元で抱く。
「昔、私に母が贈ってくれたものです……。絶対にバレると売られてしまうと思って……隠していて……。凄く大切です。ありがとうございます……」
「そっか。なら、見つけられて良かったよ」
「はいっ!」
ネージュは、幸せそうにペンダントを撫でている。そんな中、エレナは頭を過ぎった考えに、一瞬眉を寄せた。
「ねえ、ネージュ」
「はい?」
ネージュは強い。か弱い見た目とは裏腹に、気丈に振る舞う様子を見て何度も感じていたことだ。だからこそ、母親からの贈り物を大切そうに抱く少女に聞かざるを得なかった。
「お母さんに、会いたい?」