第一章16 救い
木々に囲まれる森の中。春の暖かな陽射しが、木漏れ日となり降り注ぐ。綺麗だと見惚れたくなる景色だが、じくじくと残留する痛みが妨げた。掌で申し訳程度の止血をしながら、ネージュは睫毛を濡らす。
まさか、ネージュ自身がこれほどまでに人を信じられなくなっていたとは。死んでしまいたいほどの苦しみから救われたいと、心から願っていたはずなのに。ただずっと、殻に籠っていただけだったのだ。
今更気付いたってもう遅い。時なんて戻らない。奇跡なんて、起きやしない。
突然、カルウに腕を掴まれた。身長差から、まるで釣り上げられた魚のような体勢になる。
「北だったな。まぁ、なんだ。助かったぜ」
「レナトゥス、この国でうまくやれよ」
カルウ、ヴィトの順で挨拶を交わす。レナトゥスは、腕を軽く上げ、馬車を引く栗毛の馬を撫でた。――その時、彼の外套の中から無機質で鈍い金属のような音が響く。
「レナトゥス。なんだ、その音?」
「あぁ、これ?」
取り出されたのは、円形の魔道具。不思議な音は、これから出ていたらしい。レナトゥスは、魔法石に触れながら説明をした。
「持ち運び用の内線だよ。高価で数が少ないから、僕みたいな重要な仕事が回ってくる人に持たされてる。君たちの脱獄で、国中が騒がしいんだ。絶対に黙っててくれよ」
指さして、念押しをする。カウルとて、今見つかるのは得策ではないことくらい分かっていた。「あぁ」と返事したのを確認して、レナトゥスは内線を取る。
「はい、こちらレナトゥス・フェロです――」
彼が名乗りを上げる。だが、それを遮るように聞きなれた無愛想な声が内線越しにこちらへ漏れ、ネージュにも聞こえた。
「『おいお前、今何処にいる』」
こういう時、初めに名乗り上げるものだということは、ネージュでも知っている。しかし、内線相手はあまりにも性急に尋ねた。
レナトゥスは一瞬眉を顰めるも、明るい声色で返す。
「カレンさん? やだなぁ、言ったでしょ、王城にネージュちゃんを送ってから――」
「国の外周を見て回っている」そう言いかけたのだろう。しかし、カレンはレナトゥスの御饒舌を断ち切り畳み掛けた。
「『噓はもういい。今、誰と、何処にいる?』」
思わず、目を見開いた。まるで、レナトゥスの所業を見通しているような強い口調。彼も酷く動揺しており、泳いだ視線をゆっくりとネージュに定める。そうして、ただ小さく「――は?」と零した。
少しの静寂を産んだ後、レナトゥスは雑な動作で内線を切り、鋭くこちらを睨みつける。
「バラしたのか」
地を揺がすような、聞いた事のない低い声だ。腹の底から迫り上がる恐怖は、頭部の痛みを鈍らせる。
息を飲み、腕を掴まれたまま後退った。
「……ッ」
「答えろ。君は、僕のことを誰かに話したのか?」
温和な青年は仮面を壊し、ネージュを責め立てる。様変わりに驚いたのは、ネージュだけではないらしい。カルウが腕を掴む力を緩ませ「そりゃァマズイんじゃねーの」と、冷や汗をかいていた。
ネージュの力では、まるで勝てないと感じていた男たち。ところが、恐怖に勝る力強い感情が、内に巡っていた。
今、この手を振り払えばもう一度あの暖かな家に帰れるかもしれない。
細い腕を思い切り振り下ろし、カルウの束縛から逃れる。彼らから距離を取ると、出したこともないような金切り声に近い絶叫をレナトゥスに浴びせた。
「……バラ……した。バラした! 全部、言った!」
きっと、エレナがメモに気付いたのだ。だから、カレンを通してレナトゥスに警告している。ささやかな希望が生まれた瞬間だった。
ネージュの訴えに、レナトゥスの顔色がサッと蒼褪める。握り拳をわなわなと震わせ、真っ直ぐとネージュへ歩を寄せた。
そして、血の気を取り戻すと同時に、突然怒りを露呈させネージュの頭を掴む。
「あぁああっ! どうしてくれるんだよ!」
一瞬だった。目の前の景色が流れ、地面に顔を接地する。鈍い骨の音が、鼓膜の奥から響いた気がした。赤い飛沫が眼前を散り、やっと現状を理解する。
レナトゥスが、ネージュの顔を地面に打ち付けたのだ。
「あぁッ……!?」
「おしまいだ! 僕の人生、全て!」
そう怒鳴ると、力無く伏せるネージュの髪を掴みあげ、軽々持ち上げる。顔のほとんどが血濡れになった少女は、赤の瞳を不安げに揺らした。
――痛い。これ、鼻の骨が折れたのかな。
眩む視界と引き攣る身体に反して、思考は存外冷静。顔周りが酷く熱を持ち、心臓があるかのように脈打っていた。持ち上げられた身体をそのまま投げ飛ばされ、衝撃を小さな背中で受ける。受け止めた大木は、ミシミシッと音を立て葉を散らせた。
「おい、レナトゥス! 壊すんじゃねぇぞ‼ これは俺んモンだ!」
――違う。わたしは。
「うるさいなあっ! そもそもこの国に来たのが行けないんだろ⁉ なんだよ、協力しろって! 僕はそんな事のために君たちから離れたわけじゃないんだよ!」
所有物に手を出されたカルウががなる。それを上回る怒声が、響き渡った。もう、怯える気力もない。ただ、ぼんやりと怒りに打ち震える男たちを眺めていた。
「散々言っただろ!? 口を割ったらただじゃおかない。なんで言ったんだよ‼」
怒りながら再度、ネージュに手をかけようとする。繕う事を止めた彼の手つきは、酷く乱暴だ。
ネージュは、微かに唇を動かした。ほとんど吐息のような声は詠唱をなぞる。
「『防御魔法』」
少女に巡る魔力が、前方に透徹した壁を創り出す。レナトゥスの手は魔法によって阻んだ。
「触ら……ないでっ」
「奴隷の分際で……!」
「違うッ!!」
血とは違う。目から溢れる体液が、更に顔を汚していく。けれど、今叫ばずいつ叫ぶのか。
遠ざかってしまった手を掴めるのは、ネージュ自身しかいないのだから。
「……助けてくれる、言ったからッ……!」
手の中に、『収納魔法』でペンダント型のネックレスを取り出す。――きっと、エレナ様は私を探してる。なら伝えないと。ここにいるって伝えないと。
ペンダントに輝く魔法石を握りしめ、唱える。
「『氷結魔法』」
瞬間、地面から盛り上がるように現れた氷魔法が、再現なく空へ立ち上る。
まるで、氷の塔を錯覚するような高さ。気温が急激に下がり、周辺の木々や地面が氷の膜を纏う。
ネックレスを握る手が小刻みに震え、薄く吐いた呼吸が白んでいた。
全身に、虚脱感が襲う。許容を超えた魔力の消費に、内部から血潮が煮え、喀血として零れた。
「エレナ様が……助けてくれるって言ったんだもんッ……!」
喚く声に呼応するように、一瞬陽射しが遮られる。
怠い身体をゆっくりと空へ向ける。太陽を背に現れた女性を見たネージュの唇が、自然と弧を描いた。
――あぁ、本当に来てくれた。
逆光で姿は明瞭ではないが、一つにまとめた長髪がはためく。冷えた空気を力強く裂く貴方が。
ネージュに幸せを与える女性。ネージュにとっての奇跡。
――わたしにとって、太陽のような人。
強烈な痛みと恐怖の中に宿った安堵。抜けていく体液が、徐々に意識を虚ろにさせていく。
エレナが、空から地面に着地する。氷の薄い膜が割れ、土地面がドォンと激しく鳴り響いた。
最後、ネージュの耳に届いたのは暖かく、それでいて焦りに満ちた声。
「ネージュ! やっと、見っけた……!」
視界が暗転していく。指一つ動かす気力も無い身体が、ただ一つだけ言わなくてはいけないこと。
「……助けて」
救いの手を掴んでいいのだと、気付かせてくれた貴方に。