第一章15 信頼
男たちを捜索しなくては。
とはいえ、この国の地形について明るいわけではない。男達を捕らえた小屋の場所も、路地が多いせいで正しく覚えられていない。
「探すって言っても、闇雲に走り回るのもな。カレンさんの指示を待ってもいいか」
壁に貼り付けられた内線へ目を向ける。遠くにいても会話が出来るなんてすごい技術だ。
感心しつつも、行くアテのない現実に頭を抱える。ふと、甲高い「みゃあ」という鳴き声がエレナの耳に届いた。足元には、黒猫。何かを訴えかけるように再度、喉を鳴らした。
「ん、どうした?」
返事なんて返ってこない。理解しながらも、膝を抱えしゃがみ込んだ。大抵、ご飯か撫でろの催促だ。しかし、今日は様子が違った。エレナの胸元にあるポケットを鋭い爪で掻いてくる。
「今は遊んでる場合じゃ……」
眉を寄せ、猫を引き剥がそうとするが、紙の破れるような音がして動きを止めた。猫の爪如きで破損するわけないのに。
「紙……? あたし、こんなの持ってたっけ?」
中から出てきたのは、折り畳まれた一枚の紙切れ。黒猫の攻撃によりシワが生まれ、一部破れている。けれど、中にある文字が読めなくなるほどではなかった。
――エレナ様とカレン様にお話すること。二人の協力者はレナトゥスであること。レナトゥスと捕まった二人は同郷の幼馴染であること。そこに漬け込み、協力を余儀なくされたこと。ちゃんと話す。
弱い筆圧で書かれた文章。走り書きの様子がないことから、持ち歩いていたメモらしい。恐らく、話したいと言っていた内容を事前にまとめていたのだろう。
隙を見て、ポケットに忍ばせたらしい。
「……早く追わないと!」
思考する時間が勿体なくて、勢いよく立ち上がる。黒猫は、その勢いに慄いたのかどこかへ行ってしまった。
エレナは、壁にかけられた内線に手をかける。事前に伝えられたカレンに繋がる番号を叩くように打ち、内線の受話器を持つ手に魔力を込める。
「『……なんだ。今、詳しい話を関係者にだな』」
ざらついた音と共に、カレンの不機嫌な声が届く。エレナは叫ぶように訴えた。
「カレンさん‼ 協力者はレナトゥスだった!」
受話器越しに、沈黙が流れる。衝撃からか、言葉を咀嚼しているらしい。エレナは続ける。
「と、とにかく! 今すぐ追うからっ……!」
「『あ、おい。ちょっと待て――』」
静止も待たず、内線を切った。勢いよく玄関を開け放つが、門前にあった馬車はない。メモ書きに気付くまで、随分の時間を要してしまったからだ。石畳は、タイヤの轍を残さない。
エレナは、街路で談笑する通行人の肩を掴み、問うた。
「ここにいた馬車! どっち行ったか分かりますか⁉」
「え……。あっちの方、ですけど」
血気迫るエレナに怯えながらも、通行人は王城から遠ざかる方向を指さす。
――ふざけるな。なにが、「王城で保護する」だ。全部嘘だったんじゃないか。
エレナは激しく舌を打ち、指さした方向へ一歩踏み出した。
◇
しっかりと塗装された石畳のおかげか、揺れは少ない。中には、ネージュ。そして、カルウとヴィトの三人が乗っていた。馬車を操縦するのは彼らの旧友、レナトゥスだ。
触れられていないのに、喉が締められているような感覚。手の震えも止まらず、少しでも気を抜けば気を失ってしまいそうな緊張感が漂う。
外光カーテンで遮断され、キャビン内は薄暗い。街の喧騒を他所に、馬車内は非常に静かだった。
「――レナトゥスさん。こんな時にどちらへ?」
「もしかすると、外へ逃げるかもしれない。国の外周を見回ってくるよ」
「承知しました」
「持ち歩きの内線はあるから。何かあったら連絡してくれ」
外でレナトゥスと衛兵の会話がする。恐らく、検問。――このまま誰にも気付かれることなく、ウディルネを出てしまうのか。
ネージュは、白い睫毛を震わせカーテンの裾に触れた。いつか話さなくてはならない。そう考えて持ち歩いていたお守り代わりの紙切れ。咄嗟に胸ポケットの中に忍ばせたが、エレナは気付いてくれただろうか。
小さな賭けだった。もし、エレナがメモを見つけなければ意味がない。加えて、全てが手遅れとなったときに出てきたらと考えるとゾッとする。
奴隷身分であるネージュにも優しいエレナのことだ。救えなかった事実はきっと、ヘドロのように纏わりつく呪いとなる。
馬車にカルウたちがいると分かっていたなら、もっと違うやり方があっただろうに。
気付けば、街の喧騒は静まり返っていた。代わりに聞こえるのは野鳥や、動物の鳴き声。風の通る音ばかり。
人の目が消えたことを察したのか、カルウがネージュの頭を掴み上げた。
「いやァ、テメェが俺ら裏切ってのうのうと生きてたとはな」
憤怒で満ちた声に、全身が粟立つ。
「も、申し訳ございませ――」
呼吸と同じほど、自然に謝罪が零れた。震える左手を抑え込む右手も、音を立てそうなほどに揺れている。ヴィトは、まるで他人事のようにカーテンの隙間から流れる景色を眺めていた。
「しかも! エレナとかいう女に懐いてんだって?」
カルウは声をさらに荒らげる。――あぁ、殴られるな。
脳が急激に冷めていく。次に起こる事象から身を守るように身体を強張らせた。
「あ……それは……」
「俺の敵は仇なせ。なんで殺してない?」
「……殺せない、ほどに……強かった、ので」
刹那、ネージュの頬が拳を捉えた。焼けるような痛みが走り、体勢を崩した。キャビンの内壁に身体を打ちつけたネージュの頭を、カルウが掴みあげる。
「言い訳なんざ聞いてねェ」
視界が明滅を繰り返す。抵抗しようにも、神経が途切れたように動かない。言葉を連ねようにも、情けなく漏れ出るのは吐息だけだった。
カルウは再度攻撃の体勢に入る。
「……もういいだろ、カルウ。足がつく前にズラかるぞ」
遮ったのは、ヴィトだった。もとより痩せていた肢体がさらにこけており、声色も力ない。拷問に近い『回復魔法』を受けたとは聞いていたが、これほどまでに衰弱しているとは。
だが、カルウ不機嫌な態度を隠さないまま、ネージュから手を離した。
「ちっ。おい、ネージュ。覚えとけよ」
「……申し訳、ありませんでした」
壁にぶつけた側のこめかみに触れると、ぬるりと濡れている。手に付着した鮮血が、傷の深さを表していた。エレナが貸してくれた大きすぎる服が、どんどんと赤に染まっていく。思いの外、痛みは少ない。
それ以上に今は、やるせなさで泣き出しそうだ。瞳に涙の膜が張り始めた時、馬の嘶きと共に馬車が動きを止めた。
「レナトゥス、もういいのか?」
ヴィトが尋ねると、吹き抜けの窓からレナトゥスが顔を覗かせた。血濡れたネージュを見て、衝撃から目を見開く。が、話題にすることなく淡々と告げた。
「あぁ。捜索は国の中を中心に行ってるから。もう外にいるなんて、思ってもみないだろ」
「へっ。内部に裏切り者がいたとも思ってないだろうよ」
「カルウ。本当に勘弁してくれ。もう二度と顔を見せるなよ」
扉が開かれ、馬車から強制的に降ろされた。座り込みたい気分だが、もう殴られたくはない。震える膝を必死に抑え込む。
「へーへー。収穫もねぇし、もうこねぇよ」
「……頼むよ。そうだな。北にでも進むと良い」
「どうせ、行く先もねェしな」
男たちの会話が耳に入らない。ネージュはただじっと俯いていた。
ネージュは賭けに負けたのだ。そもそも、紙きれ一枚で好転する状況なんてない。ただ、エレナであれば何とかしてくれる。助けてくれる。そんな淡い期待に、縋っていただけだ。――たった一言「助けて」が言えていたなら。もっと早くに縋っていれば。レナトゥスが手引きしていると伝えられていたならば。
取り返しのつかない後悔が、ネージュを支配する。全て、自身が選択した行動だと言うのに。
――分かんなかったんだよね。助けての言い方が。
初めて話した王城での出来事。どれも鮮明に覚えている。貫いた肉の感覚。手に流れる生温い血液と、鼻腔を擽る嫌な香り。そして、不快感を上回る心を溶かすような暖かな声。
――あたしは、ネージュと仲良くしたいだけだよ。
――ネージュはすごいねえ。
――だからネージュが不安になっちゃう時は、あたしが助けてあげる。
次々に巡るのは、エレナがネージュを救いあげた言葉たち。かけられるたび、胸が焼けてしまう程の満たされてしまう。触れられる度、泣き出しそうになるほどの多幸感が溢れる。
――わたしは、何かを与えられた? 手を差し伸べてくれたあの人に、手を伸ばせた?
わたしはあの人の望む何かを出来た?
ネージュはひたすら思考に耽り、唇を動かした。
「何も……出来てない」
呟いた声は、風に溶ける。カルウたちはそんな独り言に気付かないまま談笑を続けていた。ネージュは、思考を続ける。
ネージュは凝固し始めた血のついた手を、力強く握りしめた。
「――エレナ様を信じられていなかったのは、わたしの方だ」