第一章12 『収納魔法』
空高く登る太陽から放たれる陽光。春風が面を撫で、瞼が何度も瞬きを繰り返す。舞う草木と花々は、カレンが日々丹精を込めて手入れしたもの。
そんな佳景の中エレナは、両手を前に突き出し地面に横たわらせた戦斧に向かい、叫んだ。
「――『収納魔法』!」
詠唱に間違いはない。だが、まるで根ざしたように動くことはなかった。厳めしく立つカレンが、肺に残る空気を全て吐き出すような溜息をつく。
「溜息ふっか……」
「エ、エレナ様。頑張ってください!」
如雨露を手にしたネージュが眉を下げて言う。昨夜、半ば狂乱状態になった彼女だったが、再度眠れるまで窘め続け、寝かしつけに成功した。おかげか、顔色が良い。嫌な夢を見て、目覚めた時にエレナがおらず動揺したのだと、今朝伝えられた。
そんな今日のネージュは、日に照らされ煌めく白髪を頭部から、左右に編み込んだ二つ結びをしていて、可愛らしい。
まぁ、そんな事を考える暇など今のエレナには与えられていないのだが。
「もー、全然分かんない! 何がわかんないのかが分かんない!」
試行回数十七回目。微動だにしない戦斧を目の前に、エレナは癇癪を起こし頭を抱えた。何度唱えても、まるで成功する未来が見えない。何が初歩魔法だ。
「闇雲にやっても意味ないに決まってるだろ」
「じゃあ、何をどう意識すんのか教えてよ」
「お前は歩く度に何かを意識してるのか?」
「それを教えてくれるんじゃなかったの!?」
ムカつく。唇を固く結び、エレナはもう一度武器に手を翳した。何度か深呼吸をして「『収納魔法』」と唱える。
「出来なああい……」
「はぁ。なぁ、ネージュ。お前は初めて『収納魔法』を使った時の感覚を覚えてるか? それほど遠い記憶でもないだろ」
「えっ、わたし……ですか?」
突然話を振られたネージュは、瞳を揺らがせつつ手に持っている如雨露に『収納魔法』を使って見せた。
「わたしの場合……ですが、魔力を使う際は少し身体の芯がポカポカします。それが、指先に移動する感覚があると同時に発動している――という感じでしょうか。あと、『収納魔法』を使った後はしまい込んだ分だけ身体が重くなる感覚があります」
ゆったりと、しかし吃ることなく紡がれる。つまるところ、魔力の感覚や移動が理解出来ていないエレナには使えない。ということではないか。エレナは自身の腹部を弄り、体温の変化がないことに項垂れる。
「で、でも! 人それぞれ感覚は変わると言いますし、中には理屈的に考える方が発動しやすい人もいるのだとか……!」
「ネージュ……。あたし、頭が悪いんだ……」
「そうだぞ。エレナの頭ん中は筋肉だ」
フィデスのように沢山の魔法を同時発動するような魔法使いであれば、魔法術式を叩き込む方が展開も速くなって良いと聞いた。
エレナが望んでいるものはそれほど高度なものではない。増してや、理屈的に考えられるような人間でもないのだ。
「終わった……全部」
「お、落ち込まないで下さい、エレナ様……」
ネージュの慰めすら効果を持たない。エレナは、沈鬱とした表情で掌を眺め、わなわなと震わせた。初日とはいえ、ここまで見通しが見えないとは。
「でも、どうして? 魔力量が足りてない……ということでしょうか?」
ネージュのあげた疑問に、カレンが応える。
「いいや。まだ終わったと決まっていないよ。魔力量は少ないが、初歩魔法が使えないほどじゃない。……ただなぁ、見たところ上手く全身に循環してないんだ」
「循環?」
「そう。魔力ってもんは、血液みたいに全身を巡ってる。だが、お前の場合なこの辺で燻ってるんだよ」
そう言って、エレナの鳩尾辺りに指を沈めた。
「症例が無いわけじゃない。幼い頃から魔法を使う習慣がなかったり、魔法を使うことそのものにトラウマを覚えていたりな。身体が無意識下で魔力を抑制している」
「……それ、改善するの? 治るならあたし、何だってするよ」
エレナの問いに、カレンは肯く。
「外部から強い魔力を注ぐことで、強制的に巡らせる。全身に魔力が流れる感覚を覚えさせるんだ。……あんまり、やりたくないんだがな」
眉を顰めながら、カレンは手に小型のナイフを取り出した。エレナとネージュは首を傾げつつ、次の行動を待つ。
カレンは、躊躇なくナイフの切っ先に掌を当て、強く握り締めた。ネージュが目を覆い悲鳴を奏でる。
「……いやぁっ!?」
「ちょ……ちょちょ、ちょっと! 何やってんの!!」
「私の血液にも魔力は巡ってる。さぁ、飲め」
「はあああ!? 飲むわけないでしょ、そんなの!」
「なんだってするんだろ、ほら、早く」
口元に血濡れた手内を寄せられた。エレナは唇を噛み締め拒否するが、カレンの奇行は止まらない。この場にサナティオが居てくれたなら、「しんっじらんない! 不衛生! 最悪! ぜぇったいに無理!」と、一蹴してくれただろうに。
「エレナ、私も痛いんだ。早く済ませて回復魔法をしたい」
「えぇ……」
「おい、垂れてきただろ」
不服そうに言うカレン。エレナは観念して、唾液を飲み込んだ。人差し指で生暖かい液を掬い、舌先で恐る恐る触れれば、鉄の香りが鼻を抜ける。
「うわ……これで、いい?」
「いいわけないだろ。いいから口開けろ」
「わっ!?」
突然顎を捕まれ驚嘆が零れた。カレンの掌が口に押し当てられると同時に、口内に先程とは比にならない程の鮮血が満たされていく。相当深い切創らしい。ドロリとしたぬるい液体が、舌に纏わりつき喉へ。
脳が拒否を起こしている。呼吸を求め、喉が反射的にひくつく。飲み込もうにも、必死に拒絶してしまう。
カレンを睨めつけながらも、エレナはひたすら嚥下に徹した。
「こら、零すなよ」
「んっ、無茶、言わないで、よ……。はっ……」
「喋ると垂れる」
噎せ返りそうな血腥さ。まるで動物のように呼吸を荒らげ、言われるがままに傷口に舌を這わせた。視界の端で、覆った指の隙間からネージュがこちらを見ている。
「……よし、こんなもんか。気分はどうだ?」
「どう、って……超最悪なんだけど。馬鹿」
エレナは不快感を隠さないまま、口舐めずりをした。頬には、垂れて固まったのか皮膚が突っ張る感覚。鼻の奥に残留する鉄臭と、口内のベタつきにわざとらしく「うえぇ」と口に出す。早く口を濯ぎたい。
「まぁいい。もう一度、『収納魔法』を試してみろ」
貧血を起こしているのか、カレンの顔色が若干蒼白かった。額には、玉のような汗が見受けられる。相当無理をしたらしい。
カレンはその場にしゃがみこみ、血で濡つ指を戦斧に向けた。
「え、別に変わりないんだけど」
「いいから」
「? ん、分かった」
エレナは、従順に手を前に翳す。瞼を落とし、大きく息を吐き出してから、詠唱を行った。
「――『収納魔法』!」
幾度となく繰り返した言葉。然るに、身体の底からフツフツと煮えるような熱が襲う。生まれて初めての感覚だった。
徐々に、体温の変化が魔力だと頭が理解する。迫り上がるようなほとぼりが、戦斧に向けた掌に収束。発散された瞬間、全身に伸し掛るような重みがエレナを襲った。
――ネージュの言っていた「しまい込んだ分だけ身体が重くなる感覚」
嘘。
「はっ、だから言ったろ。『まだ終わったと決まっていない』って。出来たじゃないか」
呼吸に感嘆が現れる。根が生えているんじゃないか。そう錯覚するほど動かなかった戦斧は、その場から姿を消していた。
――初めての魔法が、成功したのだ。
「……!! ……!!」
言葉にならない歓喜に、唇が開閉を繰り返す。それを滑稽だと言わんばかりに、カレンは笑った。
「……エレナ様、お水お持ちしました! って、あれ?」
凄惨な光景を目にしたであろうネージュは、エレナの為に水を用意していたらしい。
瞳をキラキラと輝かせるエレナ。嘲るように笑うカレンに、あったはずが消失した戦斧。
「! おめでとうございます!」
わっ、と花の咲くような笑顔を灯らせネージュが言う。
「出来たー! 出来たよー!」
「はい! 凄いです、エレナ様!」
「凄いわけあるか。どちらかと言うと頑張ったのは私だろ?」
「勿論、カレン様も凄いです!」
グラスに入った水を受け取り、即座に飲み干す。それでも、口に残る嫌悪は流れきらないが、今は喜びを噛み締めたい。
「カレンさん、本当にほんっとうにありがとう!」
「なんだ、素直だな」
「ここまでしてもらったんだから、当たり前でしょ?」
治るとはいえ、自傷を強いてしまった。知らぬ間に『回復魔法』を行ったようで、掌にはもう傷一つない。……流石に、消毒は必要だったのではなかろうか。
「その、魔力を使う感覚を忘れるな。それだけで、家にある魔道具は不自由なく使える」
「うん、うん。忘れない、絶対」
「良し。なら、家に戻るぞ。少し血を流し過ぎた」
顔色の優れないカレンに肩を貸し、邸宅へ歩を向ける。その後ろを、柔らかな表情でネージュが追った。
「ちなみになんだけど」
「なんだ」
「――魔法の解除はどうすればいいの?」
使う感覚は理解した。では、この戦斧を取り出すにはどうすればいいのだろう。訊ねれば、カレンは心底呆れた顔をして言った。
「自分で何とかしろ」
「……えっ」