第一章11 悪夢
「あームカつくな。誰が好き好んでカビ臭ェ小屋に住むんだ」
「仕方ねぇよ、俺らは当分お日さんに当たれねぇんだ」
「このままじゃ俺達までカビちまう」
下卑た声色。日の当たらない部屋。そして、こちらを舐め回すような目付き。
「オォイ、どこ行ったネージュ!」
不機嫌を隠さないカルウが、大声で呼び寄せる。嗚呼嫌だ。この先に求められる事柄が、鮮明に分かる。ネージュは、カルウの足元に膝を付き、続く言葉を待った。――わたしはカルウ様に仕える奴隷だ。何を言われようと、首を縦に振る以外の選択肢はない。
そんな、生き方しか知らない。
以前に仕えていた方が、もう使えないと見切りをつけ格安で売られてしまった。抱くも、殴るも、生かすも、殺すも。全てはカルウの采配。嫌な顔一つ許されない。
ネージュはただ、全てに従い奉仕するだけ。
「――早く、死んでしまいたい」
溢れるように零れた本音は、男達の汚い高笑いに掻き消される。襲う不快感と、聞かれなくて良かった。という安堵だけが、ネージュを支配し続けた。
◇
器官が強く締まる感覚がして、意識が呼び起こされる。悲鳴を上げたくなるような映像が鮮明に脳を支配し、大粒の涙が枕を汚していた。
「ネージュ」
乱れた呼吸を整えると同時に響く、陽だまりのような暖かい声。揺れる視線を動かすと、目の惹く赤髪がそこにはあった。
「魘されてた」
「あ、あぁ、エレナ様……」
「怖い夢でも見た?」
伺うように問いかけるエレナに、ひたすら頷く。「触っても大丈夫?」の言葉にも肯定を示せば、打ち震える身体を優しく抱擁された。反射的にエレナの背中に腕を回し、服を力強く握り締める。
言葉はない。ただ、静かに包み込む熱だけがネージュを興奮から呼び覚ましていった。やはり、この人の温度は安心する。
「にゃぁ〜う」
その時。間延びした高い鳴き声が、静寂を破った。ベッドの隅で、丸くなった黒猫がこちらを凝視している。
驚くと同時に、全身を支配する緊張が解けた。エレナからゆっくりと身体を離す。
窓から見える空は、赤と青のグラデーション。遠くから烏の鳴き声が聞こえて、時計を見なくとも夕時であることか分かる。
「お夕飯!!」
自分でも驚く程の声が出た。昼食も取らずに眠っているのだから、夕飯は早めにしたいはず。今から仕込みをしていたら、完成するまで少なくとも一時間はかかってしまう。
ネージュは蒼褪めたまま、シーツを握りしめた。一緒に作ろうと約束したのに、どんな叱責が飛んでくるだろう。
「うん。出来たから呼びに来た」
「……へ?」
「冷めるとカレンさんの機嫌悪くなっちゃうからさ、行こ」
まるで当然のように、こちらへ手を差し伸べる。ネージュの心配など吹き飛ばすような笑顔が眩し過ぎた。考える間もなくエレナの手を取り、宙ぶらりんだった足が床を捉える。
「ご一緒しても……いいんですか」
「何言ってんの。あの人、口には出さないけどネージュのこと歓迎してるんだよ」
訳が分からず首を傾げる。確かに、生活に慣れるよう善処するとは言われたが仕事だからではないのか。
「グラタンはカレンさんの好物だよ。それも、特別な日にしか作らないくらいね。だから一番美味しい状態で食べて欲しいんだって。作ったのはあたしだけど」
恐ろしいほどの幸福に眩暈がした。揺れる視界に、エレナがいる。浅く呼吸をすれば背中を撫で摩られ、また目元が熱くなる。
「え、嘘! ごめん、どうした⁉」
瞬きと共に、頬が濡れた。慌てたエレナが、服の裾で涙を拭ってくれる。
「違う……違うんです。なんで泣いてるのか、分かんなくって……!」
狭まる喉から必死に声を上げた。
――だって知らない。胸の内を締める満悦感によって流す涙があること。拭うのが勿体ないほど尊い感情をまだ抱けること。
「……お夕飯、行きます。これ以上待たせたくありません」
「だ、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
覚束ない足取りで部屋を出る。外気に触れる目元がヒリヒリと痛むが、気にしている暇はない。階段を一段ずつ下り、カレンの待つダイニングまで歩を運んだ。
「カレンさん、おまたせ。……って、あれ。その人誰?」
「あぁ、ネージュの様子を見に来たらしい。一応、衛兵隊の長だ」
「一応って何ですか、一応って~。あ、初めまして。私、レナトゥス・フェロと申します。ネージュちゃん、調子はどうかな?」
心臓の冷える感覚に身震いする。感じていた暖かさを全て奪うような笑顔に、喉が音を鳴らした。
「……元気、です」
「そう。なら、良かった。では、今日はこれで」
「もういいのか」
「顔見に来ただけですんで! お邪魔しました」
人当たりのいい挨拶を残して、玄関から外へ出るレナトゥス。無自覚なままエレナと繋いでいた手が震え、肌が粟立つ。
「……大丈夫?」
「まだ、知らない人と話すのは緊張します」
「そっか、そうだよね」
「冷めるし、食べようか」と、促され席に着く。眼前には湯気が立ち上り、遍くチーズの芳香を放つグラタン。しっかりと、ネージュの分まで用意されてある。
「恵みに感謝を」
食事の挨拶を済ませ、カレンがふつふつと煮えるグラタンを口に運ぶ。満足気に「美味いな」と呟いて、二口、三口と食を進めた。そんな感想に満足なのか、顔を綻ばせながら、エレナもスプーンを動かしている。
釣られて、ネージュもとろりとしたホワイトソースを絡ませた鶏肉を口にした。瞬間、攻撃的な熱さが口内で広がり、唇が空気を求めはふはふと動く。だが、それに負けぬほどの溢れる感動に、
「おいひいっ、れす!」
と、舌足らずに叫んだ。焼き目のついた表面は、焼きあがったチーズが溶けていて香ばしい。具材に纏わせたソースは舌触りが良く、噛む度に溶け出すような旨味。
火傷で舌をやられながらも、無我夢中で次の一口を求めてしまう。
「焦らなくても逃げないよ」
苦笑しながら水を差しだすエレナ。呆れた顔でこちらを見ながら、早々に食事を終えるカレン。――たった一日で幸せを享受しすぎている。緩む頬に抗えず、ネージュは力なく笑顔を溢した。
◇
時は流れ夜半過ぎ。満腹になったのか、慣れぬ環境に身体が疲れたのか。ネージュはすぐに眠りについた。先程のように魘されている様子もなく、穏やかな表情をしている。彼女のトラウマは、たった一日で綻ぶものではないようだ。
「で、カレンさん。話って?」
団欒してグラタンを食べたダイニングは見る影もなく、月影だけが差し込む静かな空間。眠る前に呼び出され、要件を訪ねた。
「レナトゥスから報告があってな。捕まった二人の他に、首謀がもう一人潜んでるそうだ。――で、その一人をネージュが把握している可能性がある」
細い息が零れる。浴室で話していた「言わなくてはいけないこと」の概要が鮮明になるようだ。
「それは、確かなの」
「あぁ。お前が脚を折った奴に、回復魔法をかけてな。耐えれずゲロッた情報だ」
恐らく、白魔法使いではない人間による回復魔法。生じる痛みは、ショック死を引き起こす恐れもあるほどで、拷問にも使える。エレナは顔を顰めた。
「そんな顔をするな。お前が思っているほど、魔法は崇高なもんじゃない」
「……分かってる」
綺麗で、壮大で、心惹かれる。だけじゃない。理解していても鈍い喪失感を抱いてしまう。
「さっき、レナトゥスからネージュの監視を求められた。お前に魔法を教えるのと並行して、ネージュの監視をする。お前にも協力を頼みたい」
「それ、黙ってたからって処罰なんてないよね?」
「さぁな。私の管轄じゃない」
他人事のように言い放ったカレンに、やり場のない憤りが湧き立つ。今のネージュに問い詰めて、素直に話せるほど精神は安定していない。ならば、待つだけだ。
「軽くだが、あの子が受けた仕打ちも聞いた。私は今胸糞悪いんだよ。早く、この事件を片付けたいんだ」
額を押さえ、ため息と共に項垂れる。刹那、二階から裂くような悲鳴が響いた。反射的に立ちあがり、少女の名を呼ぶ。
「話は以上だ。ネージュはお前に懐いてる。傍に居てやれ」
カレンの言葉に、力強く頷いた。ネージュにとっての現状は、数年越しの安寧になりつつある。だからこそ、守りたい。
エレナは、駆け足で階段を駆け上り突き当りの部屋へ向かう。徐々に鮮明になる金切り声は、必死にエレナの名を呼んでいた。