第一章10 困惑
昨日訪れたはずの邸宅が、どこか懐かしく感じる。言われるがままに紅茶を淹れ、鼻腔を擽る芳香と立ち上る湯煙に思わず息をついた。窓硝子越しに差し込む陽だまりは、黒猫が占領している。
沸かしたミルクを紅茶に注ぎ、余った分をマグカップへ。蜂蜜を添え出来た二人分の飲み物を、エレナは机に置いた。
「ネージュはホットミルク。嫌いじゃない?」
「あ……好きです。ありがとうございます」
「熱いから気をつけて」
落ち着きなく腰掛けているネージュの前に、マグカップを寄せる。少女は、パチパチと目を瞬くと恐る恐る持ち手に触れた。
「今朝、上に打診して長期休暇を貰った。当分は家にいられる」
「え、そうなの?」
「そうでもしないと、お前を指導するのは難しいだろ。それに」
カレンの双眸は、隣のネージュに向けられる。まだ怯えがあるのか、ネージュは更に身体を強ばらせた。
「当分うちで引き取ることにした。慣れられるようこちらも善処するが、お前も気楽に過ごせば良い」
「えっ」
「階段を登って廊下の突き当たりの部屋を二人で使え。そこは自由に使っていい。ベッドも二つある」
その部屋には覚えがある。カレンたちが客間として用意していた部屋で、修行している時もその部屋で寝起きしていたからだ。
「りょーかい」
「私は寝る。お前らも休んでおけ。エレナの魔法は明日から見る。分かったな?」
「分かった! 約束ね?」
勢いよく立ち上がると、呆れたように眉を顰める。「はしゃぐな」と短く窘め、カレンは階段へ歩を進めた。そして、何かを思い出したように脚を止める。
「夕飯はグラタンがいい」
こちらの返事も待たず、カレンは自室へと行ってしまった。姿が見えなくなるまで見送り、ネージュへと向き直る。
湯気の出なくなったホットミルクは、未だ減らない。
「ココアにする?」
「いえ。このまま頂きます」
カップに口をつけ、小さな喉を鳴らす。上唇を白く汚し「美味しいです」と囁いた。
「それ飲んだら、寝る? それともお風呂?」
ネージュの肌は薄汚れている。土か垢かも分からないものがへばりついていて、ベッドに入るのは気が引けるだろう。しかしエレナの問いに、困惑の表情を浮かべ、狼狽した。見るに、自分の意思を話すのが苦手らしい。
「あたしお風呂の準備するから、手伝って貰える?」
「分かりました」
お願いに切り替えると、ネージュは素直に了承した。ホットミルクを全て飲み干したのを確認して、二人は風呂支度を始める。
「ネージュ、この魔法石起動してもらっていい?」
「はい」
「ありがとー。じゃあ水溜まるまで待機ね」
数多の色合いで飾られたタイル張りの浴室。蛇口を捻れば、激しい音を立て水を吐き出した。
「鏡の前に置いてるのは使って良いやつ。身体拭くタオルはこれで……」
説明をしている間、ネージュはやはり浮かない顔でオロオロとしている。
エレナは少し考えてから「よし」と区切りをつけるように声を上げた。自身のベルトを手際良く外し、ツナギを脱ぎ去る。
「折角広いんだし、一緒に入ろう。着替えあたしのでいいよね? 大きいかな」
「え、そんな……悪いです」
「汚す方が嫌でしょ?」
その言葉でネージュは口篭り、自身のワンピースに手をかけた。露になった身体は一層貧相で、関節毎に骨が浮くほど目立ち、肋骨が浮いていた。
生傷は白魔法によって治っているものの、やはり痛々しい。互いに一糸まとわぬ姿になると、浴室へ入った。
汚れを落とし、浴槽に浸かる。昨夜の疲れが抜けるようだ。思わず脱力し、情けない声が反響した。ネージュは浴槽の隅で口元まで潜り、居心地悪そうにしている。
「いいのでしょうか。カレン様よりも早くお風呂を頂いてしまっても」
「カレンさんそういうの気にしないよ」
距離があるなあ。なんて考えながら、エレナは浴槽に凭れかかった。話題になるものがないか見渡していると、虫の鳴くような声が響く。
「エレナ様」
「はあい、なあに?」
様という敬称がむず痒い。ネージュに向き直れば、今にも泣きそうな顔でこちらを見つめていた。
「……話さなくては、ならないことが」
「うん」
「ある……のですが……」
徐々に歯切れが悪くなっていく。繰り返す呼吸が荒くなり、瞳を覆う涙の膜が弾けた。震える手は、湯面を弾き水音を立てる。
「ごめん……なさい」
静かに聞いていたが、最後に紡がれたのは謝罪。何が恐怖を掻き立てるのか。何も分からないまま、ネージュに手を伸ばした。皮膚の硬い掌が、柔い頬を撫でる。
「急がなくていいよ」
そのまま、少女の顔を隠す前髪に触れた。濡れた深紅の瞳が露になった時、エレナは唇で弧を描く。
「ふふ、やっと目合ったね」
「あっ……」
「あたしは、ネージュと仲良くしたいだけだよ。受け入れ難いかもしれないけど、本当にそれだけ。だから、苦しいことは無理して話さなくていいんだ」
いたいけな表情が一層苦しげに歪む。そして、撫でる掌に擦り寄るように瞼を落とした。それらの動作全てが儚げで、今にもこの手から消えてしまいそうな感覚に陥ってしまう。まるで、捨て猫だ。
「エレナ様は、お優しいのですね」
零れ出した涙が波紋を生む。赤みの孕む唇が笑みを作り、頬がエレナの温もりから遠ざかる。代わりに、ネージュの小さな手が行き場の失った掌を包んだ。
「触れられるのが、嫌じゃない。こんな気持ち、随分久しぶりな気がします」
気が付けば、途切れ途切れだった言葉が、滑らかに変化していた。愛おし気にエレナを見つめ、紅潮した肌がさらに濃くなる。
「……って、逆上せてる‼」
「ふえ……?」
心を開いてほしい一心で、気にかけるべき体調が疎かだった。ただでさえ、健康体とは程遠く、自己申告できないと察していたのに。そんな後悔を抱きながらゆっくりと湯舟から立ち上がらせ、タオルでネージュを包み込んだ。
「自分で出来ますよ……エレナ様」
「無理しないで! 座って世話されてて!」
「あう……。分かりました」
エレナに気圧され、成す術なく従うネージュ。その表情にはもう、困惑も緊張もない。ただ、エレナの甲斐甲斐しい介護を一身に受ける年相応な子供の顔だった――。
◇
狼狽えた赤髪の女性によって、ベッドに横たわるよう指示される。「目、見える方が良いね」なんて、単純な一言で頑なに伸ばしていた前髪は中央で分けられた。明るくなった視界がこそばゆい。
「大丈夫? 気分悪くない?」
過度に心配し続けるエレナに、思わず笑ってしまった。こんな真っ直ぐな優しさ。受け取らないなんて、出来ない。堪らなく欲しくて、それでも届かないと思っていたものだから。
「心配し過ぎです、エレナ様」
「だってまだ顔赤いよ、お水飲んでね。飲める?」
「ふふ、お水くらい飲めます」
恐ろしいくらい簡単に、ネージュの心は溶かされてしまった。刺してしまう程の憎しみも、居場所を奪われる恐怖も何一つ残っていない。ただ、自然と与えられる温もりを享受し続けたいと、そう願ってしまう。
――そんな資格、ないのに。
瞬間、まるで乖離したように冷静な事実が脳裏を過ぎる。なぜなら、ネージュは知っているのだ。
カルウたちが検問を掻い潜り、この国で過ごす事が出来たのか。エレナ達に暴かれるまで、居場所がバレなかったのか。得体の知れぬ異邦人の言葉を受け入れ、女児誘拐を誘発出来たのか。
それらを手引き出来る国賊が未だ、捕えられずに居ることをネージュは知っている。
話せなかった。まだ、カルウの配下である認識が抜けない。逆らえない。カレンがこの家に招いたのは、恐らくネージュの動向を監視する為だ。
――エレナ様は許してくれる。また、怖かったねって抱き締めてくれるんだって思える。けれど……。
「ネージュ、眠れそう?」
「……はい。ベッドがふかふかで暖かいです」
「そっか」
一つ一つの選択肢が全て間違いに思えて、怖い。少しでも違えば、セピア色の瞳がもう向けられないような気がして。
「エレナ様」
「ん、なあに?」
「夕飯作り、頑張りますね」
これ以上考えていても仕方がない。ネージュの出来ることは、見限られぬように尽くすことだけだ。お世話されてばかりでは直ぐに、捨てられてしまう。
「ん。一緒に作ろう」
「はい」
おやすみなさい、と互いに言い合って瞼を落とす。城では一切訪れなかった眠気が、すぐ近くまで来ていた。