第一章9 陽だまり
静寂な書斎で響くのは、規則正しい秒針の音。気が付けば、窓硝子から初陽が照らされ、ちらちらと舞う埃を光が散乱させる。朝だ。
うつらうつらとしながらも、ベッドのない書斎で熟睡することは叶わず窓際の框で重い瞼を起こす。肩や腰が鈍く痛い。
「あれ、カレンさんいない」
意識を落とすギリギリまで存在していたカレンの姿がない。積まれていた始末書も、デスクには置いていなかった。それだけでも、彼女の優秀さが伺える。宣言通り、徹夜で始末書をこなしたのだろう。
想像していた宮廷魔術師の仕事とは乖離している気がした。
カレンさんが食べたいご飯を作ってあげよう。そう考えながら、散らばった魔導書を拾い上げ被った埃を払った。本棚の隙間に差し込み、新たに魔導書を拾い上げる。
本の擦れる音とブーツの鳴る音。それらに、ドアノブの回る音が交錯する。
「あ……」
反応して扉に顔を向けると、そこにいたのはカレンではなかった。
肩まで伸びた白い髪。顔を隠す前髪の隙間から覗く赤目は、こちらを伺うように震えている。エレナの姿をとらえた瞬間、少女は覚束無い足取りで後退した。
「どうしたの?」
「あ、あの。シートン様の書斎……とは、ここで間違いない、ですか? 花の、模様が描かれた扉……と聞いたのですが」
「合ってるよ。ここで待ってろ、って言われた?」
「……はい、お話があると」
部屋が合っていると理解し安心したのか、少女は静かに扉を閉じる。随分と落ち着いたのか、夜半頃に顔を合わせた時とは打って変わり、落ち着いた口調になっていた。
おずおずとこちらへ歩みを向ける。その双眸は、エレナの腹部に向けられていた。
「痛みはないですか」
「え? うん。魔法って凄いよねえ」
「あの時は動転していた……なんてものは、言い訳になりません。本当に申し訳ございませんでした」
吐息に混じり吐き出されたのは、エレナに対する謝罪。上体を深く前に倒し、頭を低くした。透き通るような白肌に幾つもあった生傷は消えている。だが、肉の付いていない骨張った関節や、細過ぎる手首には痛々しさが残っていた。
エレナはその様子に息を飲み、思考しながら声を発する。
「あたしは本当に大丈夫だったよ。傷だって残ってない。貴方もあの後治して貰えたんだね」
「はい。我儘を言って、手を煩わせてしまいました」
恐る恐る顔を上げる少女。前髪が乱れ、先程より表情が見えやすい。垂れた目尻に、白皮に馴染む白い睫毛が震えていた。
話題が途絶えたことで、二人の間に沈黙が訪れる。
その気まずさに耐えきれなくなったのは、エレナの方だった。
「あー……。そうだ、名前。自己紹介してなかったね。あたし、エレナ。エレナ・チークって言うの。貴方の名前も聞いていい?」
いつもより柔らかな声色で尋ねた。少女は肩をひくつかせ、少しの間を置き、
「名前……気になりますか」
と、囁く。含みを持った物言いにエレナは首を傾げた。
「えっと、言いたくないなら」
「……いいえ、名前ですよね。ネージュ・レアと申します。お好きにお呼びください」
ネージュ・レア。思わず唇に乗せて、復唱する。すると、ネージュは首を傾げ「はい」と返事。か細い声が澄んでいるようで、不思議と心地が良かった。
「昨日、夜遅くなったでしょ。少しでも眠れた?」
「……いつもとは違う環境ですので」
「そっかあ。そうだよね」
会話が弾まない。エレナは、框に腰掛け息をつく。そして、隣に空いたスペースを掌で叩いた。
「おいで」
「? はい」
ネージュは、少々首を傾げたものの促されるまま腰掛ける。そして、背筋を伸ばし真っ直ぐこちらを見つめた。口には出さないが、何故呼んだのだ? と言いたげだ。
「ここ、暖かくて好きだから」
「そう、ですか?」
「そうそう」
今の時間は丁度陽が当たって、特に暖かい。ネージュも、ペタペタと、窓硝子に触れ「ほんとだ」と独り言のように囁いた。
眠気を誘う陽だまりに瞼が重みを増し、エレナも微睡み出す。窓枠の壁に頭を預け、一つ欠伸を零した。
「カレンさん、遅いねえ。呼び出しておいて待たせるなんてさ」
「どんな用かはわたしにも分かりません。……あの」
「ん?」
「わたしには、どんな処罰が下されるのでしょうか」
思わぬ言葉にハッと顔を上げる。ふわりと舞うような白髪が、陽に照らされ透けていた。ひび割れた唇は、ただ淡々と言葉を続ける。
「わたしのご主人様は、この国で処罰されるのですよね。なら、その仲間であったわたしも処罰の対象でしょう。それに」
「待って、待ってよ。なんで、ネージュが処罰を」
「それにわたしは、恩人である貴方を刺してしまった。治せるというのは、些細な事です。処罰を受けるべき対象です」
そこに怯えはない。むしろ、処罰を望んでいる。そう錯覚させるほど、事もなげに言う。
「あたしは、ネージュを許した」
「ッ……。では、どうすれば良いのでしょう。わたしはもう、奴隷としての生き方しか分かりません。この髪も、この目も、普通の生き方を許してくれない。この国で攫われた子のように、帰る場所もありません。なら、牢で居られた方がよっぽど」
ネージュの形姿を今一度見る。雪のような白い髪も、焼くような赤い瞳も、確かに稀覯なものだ。カレンの言った「アルビノの容姿はこの国では目立つ」という言葉が思い出される。
そして、ネージュの放った言葉から得られる情報にエレナは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
ネージュが奴隷として仕えたのは、あの男共だけではない。ということだ。
言葉から伺える、攫われ売られ買われを繰り返しによる諦め。そしてネージュは、望んで不自由を求めてしまうようになってしまったというのか。
「いいんです。こうも離れてしまっては、お母さんにも会えない。わたしを知っている人なんて、今になってはもう居ないんです」
「駄目だよ」
言葉が咄嗟に出てしまった。簡単に覆えてしまう小さな手首を掴み、エレナは続けた。
「ネージュは、あいつらに加担したの?」
「そ……ういうわけでは」
「なら、処罰なんて絶対にない」
突然の大声に、ネージュが困惑したように吃る。眠たげな瞼を見開き「どうして」と、漏らした。
「どうして。どうしてですか。貴方は、わたしを恨んでもおかしくないはずです。今、殺したいほど憎んだって文句は言いません。わたしが全て、悪かったんだから」
「やだ」
「……え」
「あたしが、やなの。なんで? って聞かれたら難しいけど、他でもないあたしが許したって言ってんじゃん。……それに、処罰を受けるなら、カレンさんの書斎になんて呼ばれないよ」
不満げに言う。対しネージュは未だ、理解が出来ないとばかりに眉を寄せた。
「では、何故わたしはこの部屋に呼ばれたのでしょう」
そして、最初の疑問に戻ってしまう。エレナは、ネージュの手首ではなく手の甲へ添えるように握り直した。少女は身体を震わせたが、抵抗は見えない。
「きっと悪い話じゃないよ。カレンさん、無愛想だけど優しいから」
それだけは確信が持てる。今回の事件でも「魔術師の仕事じゃない」と言いながらも、彼女による助力のおかげで解決したようなものだ。十年前もそう。フォルテムと共に、魔物と対峙するための力を与えてくれた。
そんな彼女が、いたいけな少女を放り出す訳が無い。
「貴方はどうして、こんなにも――」
ネージュが何か言いかけた時、書斎の扉が激しい音を立て、開け放たれた。小さく悲鳴を上げたネージュが、さりげなくエレナの手を握り返す。扉の先に居たのは、待ちわびたカレンの姿。纏めた髪は所々絡み、目の下には隈を携え不機嫌を表情に滲み出している。
「カレンさん、おかえり」
「お前ら、さっさと帰り支度をしろ。少しも待たん。私は早く寝たい!」
身勝手に怒鳴ると、カレンは即座に踵を返した。特に荷物もない二人は、慌ててその後を追う。
「え、あっ。帰るって、どこへですかっ。わたしっ帰るところなんてっ」
情報の収拾が出来ず、そのままの疑問を口にするネージュ。対し、エレナの唇は自然と緩んでいた。
カレンは国直属の印である外套を翻し、高らかに放つ。
「私の家に決まってるだろう」