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六 初めまして ①

 翌日未明、パトカーが成城学園前駅ちかくの個室バルを目指して闇夜に包まれた街の中を疾走していた。

 助手席に座る能登は途中のほとんどの時間、携帯電話を耳に当てて現場からの情報収集に費やしていたが、一度それが途切れると思わず大きくため息をつく。本来、気を散らしている場合ではないことは重々承知しつつも、ここ一日強の目まぐるしいまでの忙しさを嘆かずにはいられなかったのだ。

 発端は金曜の夜に都内六か所のホテルでそれぞれ一人ずつ、計六人もの女性が犠牲となった殺人事件である。いずれも死因は頭部損傷もしくは窒息。鈍器のようなもので殴られた後で首を絞められたと見られ、全員が華美な下着を身に着けていたという。殺害の手口が共通している点から同一人物の犯行と推定され、課をあげての捜査が始まったのだ。あの即売会から実に五日後のことである。あそこで満喫した至福の時間の余韻を味わう暇もなく、能登はあっという間に血なまぐさい日常に引き戻されてしまっていた。

 いや、それだけならまだいい。刑事である以上は事件から逃れられない。むしろ待ち焦がれていたイベントを先に楽しめた僥倖に感謝するところである。しかしそこへ来て女性が中毒症状に陥り死亡したとの報が入った。おまけにその場には大人気声優の鳴坂恭治が居合わせていたという。

 能登は戸惑っていた。職場では巧妙に隠しているものの、日頃から漫画やアニメは大いに楽しんでいる。よって鳴坂の出演している作品も人並み以上に視聴し、演技も高く評価していた。いわゆる一般人よりコア寄りのファンであり、ある種の憧れがあったと言ってもよい。その憧れの対象が事件に関わっているのかも知れないのである。完全な平静を保てという方が無理な注文だった。

 だがこれは仕事だ。捜査に当たっては先入観を持たないよう心がけなければならない。ましてや個人の感情を持ちこむなど論外だ。余計な思いこみは真相究明の邪魔になると、パトカーを降りる頃には意識を切り替えていた。

 その能登が規制線を越えて店内に足を踏みいれると、すでに捜査員が慌ただしく動きまわっているのが目に入った。そして周囲に挨拶をしながらさらに奥へ進んだ先に、今の今まで頭に思い浮かべていた人物の顔があった。

「鳴坂さんですね?」

 件の個室の前に、紛れもない鳴坂恭治が立っている。声に気づいてすぐ能登の方を向いた。

「ええ、はい」

 ジャケットにセーター、ズボンとシンプルながら小綺麗な格好をしている。人気声優だけに経済的な余裕もあるのか、どれもいかにも高級そうだ。しかし同時に、どこかイメージと違った印象もある。やはりここまでの著名人が手の届く距離にいるのが新鮮なのか、いつもは画面越しに穏やかな笑みを湛えていた顔が知人、もしくは友人の唐突な死を受けて沈んでいるためなのか。

 一体どちらなのかと少しのあいだ考えるも、あまり長いあいだ黙っているわけにもいかず、おそらく理由はその両方であろうと勝手に納得し、いつも通りに手帳を掲示して身分を名乗る。

「初めまして。私、警視庁の能登と申します」

 現場に身を置いているとき、あるいは捜査で聞き込みをするときの能登は職場や自宅とは口調が大きく異なるのが常だった。長めの前髪にパッとしない私服と外見にこそ変化はなく、言動も社会人として一応のところ常識の範疇に収まっているという点で普段との違いはないのだが、緊張のあまりオタク特有の妙な早口になってしまうのだ。特に初対面の相手には無理に喋ろうとするせいでその特徴が顕著になる。

「この度は大変だったかと思います。まだご気分が優れないようですが」

「そんな風に見えますか? ご心配をおかけしてしまいまして、申し訳ありません。ですが、お気になさらないでください」

「いえ、ご無理をされる必要はありません。むしろ自然なことです。あんな形で人が亡くなるのを目にするなんて経験は普通しません。一般的なお仕事をされている方は動揺して当たり前です。しかもこんな夜中に、病院からとんぼ帰りのような形でお越しいただいたわけですから。こうして今の仕事についている私でも、事件が起こるたびにいい気分はしないもので……そうそう、いつも鳴坂さんのお声は聞かせていただいております。やっぱり生でお会いすると違いますね。実は私、家ではよくアニメを見ておりまして、ですからお会いすることになると知って、こう見えても緊張しているのですが」

 ただしそうした癖は相手の警戒を解くのにしばしば役に立ち、鳴坂に対しても効果を発揮しているようだった。

「お気遣いいただいて、ありがとうございます。でも本当に大丈夫ですよ」

「そう仰っていただけると助かります。では本題に入らせていただきます」

 嘘偽りを口にしているわけではないこともあって一連の挙動が滑稽に映るのか、血の気の引いた鳴坂の顔にうっすらと笑みが浮かぶのが分かる。能登はその様子を見やり、メモ帳とボールペンを取りだした。はじめに可能なかぎり話のしやすい雰囲気を作るというのが、能登なりの聞き込みの入り方だった。

「まずお訊きしたいのですが、亡くなられた辻さんとはどういったご関係で?」

「僕がデビューしたての頃から、応援してくださっているファンと言えばよろしいでしょうか。まあ正確に言えば、単なるファンの一人ではありません。公私にわたって悩みごとの相談に乗ってくれていた大事な友人でした」

 能登の目には、鳴坂は言葉を選んでいるように映る。警察官、とりわけ刑事と接する際に大抵の人間が見せるごく自然な態度だ。事実の確認は後でもできる。現時点ではこの点について拘ることはせず、質問を次に進めた。

「では、ご一緒に食事をされたのは昨日が初めてではないということですか?」

「はい。こちらから食事に誘うときもありましたし、逆もありました」

「今回は?」

「辻さんから誘われました」

「やはりそうですか」

「やはりということは、何かあるわけですか?」

 その傍らで、鳴坂がちょっとした一言に引っかかる素振りをしたのも見逃さない。とはいえ、これも珍しいことではない。能登は鳴坂の様子を観察しながら、話を続ける。

「順を追ってご説明しますと、まず亡くなられた辻さんがどのような意図でこちらに来られたのか、それを確認しておきたいと思いまして。まあ、予約は辻さんのお名前で取られていましたし、ご自宅までの交通の便を勘案すると辻さんの方から言い出したのだろうと思われますが、想像だけで捜査をしてはまずいものですから」

「警察の方というか刑事さんは、こんな風にお仕事をされるものなんですね。こういう場に居合わせたことがなかったので、初めて知りました。でもちょっとおかしな気分です。さっきも髪の毛とか指紋を調べられたり、こう……」

 ところがそこで鳴坂は言葉を濁し、困ったような苦笑いを向けてくる。苛立ちや攻撃性は窺えない。おそらく本筋の話が急に始まって動揺したのだろう。声が途切れかけたタイミングで、能登の方から先を促した。

「疑われているような?」

「そう、正直に言うと、そんなところです」

 鳴坂が薄く瞼を伏せるのを見、能登は続けて口を開く。まだこれが事件なのか事故なのかさえ分からない状態だが、いずれにせよ疑問や不信を取り除いておいて損はない。

「私としては純粋に話をお訊きしているつもりではありますが、どうしてもそういった印象をもってしまいますよね。こちらに戻られるなり指紋を採られたり、髪の毛を抜かれただけでも気分を害されたでしょう? ご不快な思いをさせて本当にすみません。皆さん、同じように受けとられていると思いますが、これも仕事、ですので」

 そんなことを考えながら弁明をはじめると、にわかに滑舌が怪しくなり噛んでしまう。それがやはりおかしいらしく、相変わらず沈んだ空気を漂わせながらも鳴坂が三たび表情を崩す。

「刑事さん、どうかそんなに謝らないでください。お気になさらず」

 能登はそれを確かめたあとで聞き込みを再開した。また緊張がほぐれたようだったからだ。その見立てはどうやら当たっていたようで、今度はかなりスムーズに質疑応答を繰りかえすことができた。

「では、お言葉に甘えて話を進めさせていただきます。ゆうべは先ほどお訊きしたような形で、このお店に来られることになった。ちなみに先にお店に来られたのはどちらですか?」

「辻さんの方です」

「待たれていたのは建物の中ですか?」

「いいえ。店の前です」

「なるほど、それでお食事をされていたところ、辻さんがいきなり倒れられた。こちらのお店に入られて、どれくらい経ってからですか?」

「一時間から一時間半の間だったような気がします。ここにいられるのは二時間だと分かっていたので、もう少しで出ようとしていた頃でした。正確な時刻は覚えていませんが、おかしくなってすぐ救急車を呼びましたから、大きなズレはないと思います」

「辻さんの身体がおかしくなったきっかけは何かお分かりですか? 心当たりでも結構ですので、その前に何か兆候のようなものはありませんでしたか?」

「それが、全然わからないんです。普通に話をしていて本当に急でしたから。でも思いあたるところと言えば、少し前に僕がお手洗いで席を外したことでしょうか」

「席を外されていたのは、どれくらいの時間ですか?」

「混んでいて、ついでに仕事の連絡も確認していたので……そうですね、だいたい五分くらいでした」

「その辻さんの身に、なぜあのようなことが起こったかはご存じですか?」

 能登は、鳴坂も辻と一緒に救急車に乗りこんでいたと聞いている。その際、治療に当たった救急隊員も異常の原因に言及し、鳴坂も断片的ながら一定の情報は耳にしているはずだが、多分に気が動転していたせいで記憶があやふやになってしまったのだろう。そこから一晩経ってようやく当時の状況を思い出したのか、二、三秒ほどの間を置いて耳にたどたどしい呟きが届く。

「たしか救急の方は、中毒だとか話をされていましたが……」

「もう捜査員が辻さんのグラスを鑑定にかけておりまして、つい先ほどシアン化合物が検出されたようです」

「シアン化……?」

「失礼しました。いきなりそんな名前を出されても分かりませんよね。具体的な物質名はまだ特定できていませんが、要するに猛毒の化学物質です。農薬などに使われることが多いもので、当然ながら普通は食べ物や飲み物に入ることはありません。つまりどこかの段階でそれが混入した。可能性は幾つか考えられます。このお店で仕入れたカクテルの原料に元から混じっていたか、あるいはこちらに運ばれる間に入れられたか」

「まさか」

 さらに鳴坂の顔が青ざめるのが見えた。

「お店にあった飲み物類の鑑定はまだ終わっていませんので断定はできませんが、辻さんの他に異常を訴えた人は今のところいらっしゃらないので、誰かが無差別に毒物を混入させたわけではないようです。そうなると誰かがこの部屋で辻さんの飲み物に毒物を入れたということになる。飲み物に混ぜられた毒物が入っていたと思しき小ビンも、ソファの下に落ちていました。鳴坂さんが病院へ行かれている間にこちらで回収させていただきましたので、ここにはもうありませんけれども。

 私が今日、鳴坂さんにこちらへお越しいただいたのは、この毒物が入れられた隙がなかったかどうかを確かめたかったからなわけでして」

 改めて恐怖を感じたとしても仕方のないところだ。自身が辻と同じ目に遭っていたかも知れないと考えるだけでも身の凍る思いだろう。しかも仮にそうでないからといって、幾らか心を落ち着けられるわけではない。能登が明らかにしたように、嫌でも別の可能性に向き合わなければならないのである。

「やっぱりあのときだ。ちょっとの間と思って外に出てたときだ。それしか考えられない。やっぱり止めておけばよかった。ずっとここにいればよかった……。どちらにしろ、悔やんでも悔やみきれません」

 鳴坂は視線を床に落とし、拳を握り声と身体を震わせる。聞き込みのため刑事を前に気丈に振る舞ってはみたものの、やはり慚愧の念は隠しきれないといったところだろうか。

「あまり気を落とされないでください。この部屋に他の人の出入りがなかったかどうか、店員の方はもちろん、ゆうべこちらにいらしたお客さんにも確認をいたします。また先ほど申しあげたように、部屋にあった小ビンに指紋がついていないかも鑑定にかけます。もちろん、鳴坂さんの指紋とも照合させていただきますけれども」

 指紋の照合と口にしても、鳴坂は顔を伏せたままでいる。普通なら何かしら反応するところではあるが、それはほとんどないといってよかった。この一晩のうちに起きた幾つもの出来事に、心も身体も疲れきってしまっているのだ。だとすればこれ以上、この場に拘束するのも酷であろうし、話を訊くにしても日を改めた方がいいだろう。

 そう能登は判断し、メモ帳をしまい頭を下げる。

「あの、本日はお疲れのようですので、この辺りで終わりにします。どうもありがとうございました。また色々とお伺いすることがあるかと思います。そのときはよろしくお願いいたします」

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