五 お疲れさま ②
鳴坂はそこで目を覚ました。慌てて辺りを見まわし、自身がショルダーバッグを膝に電車に揺られていること、また未だ目的地に着いていないこと、さらに念のためスマートフォンの待ち受け画面を表示させて日付が二月四日になっていることを確認して息をつく。
鳴坂は昨日の犯行を、そのまま夢に見ていた。
かなり綱渡りの部分はあったものの、今ところ計画は予定どおりに進行している。
辻は本当に指示どおり動いてくれた。自宅に置いていったスマートフォンでSNSのメッセージを一言一句違わず発信し、鍵もポストに入れてくれている。あの六人もすでにこの世にはいない。それが証拠に近くの乗客三人が噂話をしている。
「それにしてもあの殺人事件、ヤバイよな」
「同じ奴がやったに違いないよ。被害者全員、女の人だし」
「犯人、早く捕まらないかな」
いかに都内といえども、六人もの被害者が一晩のうちに殺されるなどという事件はそうあるものではない。各種メディアが一斉に報道し、警察も殺しの手口が共通する点から同一犯との見方を強めていると公表したことが拍車をかけ、話は早くも人口に膾炙するようになっていた。
したがって本来、鳴坂はこうした状況下で眠ってなどいられないはずなのだ。何しろ世間を騒がせるほどの大事件を起こしているのだから。それなのにほんの僅かの間ながら意識が途切れてしまったのは、直接の犯行以外でもここに至るまで計り知れないほど心身を消耗したためだった。
たとえば警察は会見の席で、殺しの手口はいずれも頭部を殴打してからの絞殺だったと述べた。実際に鳴坂が踏んだ手順そのものだ。しかし殺人に成功したかどうかは、事件当夜の時点では分からない。かなりの低い確率ながらとどめを刺したつもりが息を吹き返す、あるいは予想より早く現場に第三者が足を踏み入れることは考えられたからだ。
翌朝ニュースに触れて六人の死を確認したあとも、それは同様だった。細心の注意を払って証拠を残さないようにしたつもりでも、盲点がなかったとは断言できない。また、いつ己の身柄を拘束しに警察がやって来るかも知れないのだ。心配の種は他にも幾つかある。その恐怖感にはなかなか慣れず、つい先ほどようやく精神的な折り合いをつけられるようになった。
もっとも安心するのはまだ早い。むしろ今から気を張り詰める必要がある。辻が異常に気づく前に、この計画の総仕上げをしなければならないからだ。
手筈は整えてあった。本格的な交際をスタートさせる記念と銘打ち、これから鳴坂が向かう成城学園駅前の個室バルに辻を誘っている。そのために鳴坂は今日、本来は苦手なコーディネートに相当な気を遣っていた。濃紺のジャケットに白系統のセーター、明るい灰色のズボン。シンプルではありながらどれも高級品だけに一応は様になるとの萌からのアドバイスを思い出し、この組み合わせを選んだのだ。
そしていつものキャップとマスクで顔を隠して家を出ると、まず最寄りの京王線若葉台ではなく少し離れた場所にある小田急線はるひ野駅で電車に乗り、相模大野で降りてそこからほど近いマンションに向かった。次いで辺りの様子を窺いつつ辻の部屋の前に立ち、扉を叩いてすでに本人が外出していることを確認する。続けて手袋を嵌めたまま紙袋から一通の封筒と一台のスマートフォンを取りだし、どちらもドアポストに放りこみ、あらかじめ木製の柄と金属の頭に解体しておいた四本のハンマーをゴミ置き場に捨てて駅へと戻った。
もちろん、辻との鉢合わせを避けるための工夫もしてある。鳴坂は事前にスケジュールを空けておきながら、急用を装って予定より少しだけ遅れると伝えていた。そのせいで当初に約束していた待ち合わせ時刻は幾分か過ぎている。ただ、それも決して大幅なものではない。相模大野駅を出た電車は多摩川を越えたかと思うと、さほど間を置かずして成城学園前駅に到着した。
それから改札を抜けて街中を歩く間も、鳴坂は改めて自らに言い聞かせていた。ここまでの腐心が実を結ぶかどうかは、今日この日にかかっている。辻を呼びだした二つの目的を達成するまでは、気を抜くなど言語道断だ。ぬかりなく事を最後まで済ませなければならない。腹の奥底で呟いているうちに目的地が見え、その前で自身を待ちかねていたであろう辻が声をかけてきた。
「恭治。こっちよ」
名前を呼ばれたものの、相変わらず顔は隠している。土曜の夜で人通りの多い中、いちいち男女の会話に聞き耳を立てる者などいないはずだが、それでも鳴坂は念のために人前で声は出さず、目だけで返事をしながら辻の後についていく形で店に入る。
「二名で予約していた辻です」
辻には現時点で二人の関係を周囲に覚られるべきではないと説明し、店の予約を取らせていた。だが鳴坂には、この日の食事を辻の提案であるように見せかける狙いがあった。
様子を窺うに、辻はその狙いに気づいていない。こちらの姿を見とめた時からいかにも浮かれた空気を発散しており、店員に席の案内を促す声の調子もさも嬉しげだったからだ。くわえて個室に通された辻が窓側の席に座り、脱いだコートと荷物をソファに置いて開口一番に次の一言を発したところからもそうした心情が同様に察せられた。
「恭治、今日はありがと」
辻は今、幸福の絶頂にいるといっても過言ではないはずだ。何しろ他ならぬ鳴坂が萌を捨てて辻を選ぶと明言したうえで、障害となるあの六人を現実に亡きものにしてみせたのである。辻の頭からは善悪の判断などとうに消え失せ、夢にまで見た真剣交際がいよいよ始まることに対する喜びで満ち溢れている様が端々から伝わってくる。メニューを選ぶ待つ仕草ひとつとっても実に軽やかで、鳴坂もキャップとマスクを取るとそれはいっそうあからさまなものになった。
「では、乾杯」
店員が注文の品を運びおえると、鳴坂は料理を口にしながら現在の状況を再認識する。
いま鳴坂が腰かけているのは、個室の出入り口に向かって背を向ける形になる通路側の席だ。わざわざ振りかえるような真似をせず、それとなく俯いて顔を背けていれば店の人間に素性を覚られずに済む。この配置なら大丈夫だろうと考え、最初の目的を果たすべく速やかに行動を開始した。店の予約は二時間。あまり時間の経たないうちの方がよい。
「そうそう、あの紙、持ってきてくれた?」
あの紙というのは、SNSで何を発信すればよいかを記したメモ書きである。事前にここへ持ってくるよう念を押しておいたのだ。むろん辻はその指示を覚えていたようで、すぐに箸を置き、財布から出して手渡してきた。
「うん。これね」
鳴坂はそれをいちど両手に持って広げてみる。自分の書いたメモで間違いない。
これで今日の目的は一つ達成した。
さて、そうとなればついにもう一つも完遂させたいところだが、こちらはおいそれと手を着けるわけにはいかない。今しがたのようなあらかじめ渡したものを回収するといった簡単な作業ではなく、辻の意識をますます自身に引きつけて油断を誘う必要があるからだ。
そのため鳴坂はメモをポケットにしまってから、ずいぶんと長いあいだ辻と会話を続けた。具体的に何を喋ったかは後から思い出せない。おそらく一刻も早く動きに入れる条件が整わないかと焦りつつ、なおかつ自然な体を装って神経を集中させていた反動だろう。
ただ、その注力の成果か、辻が徐々にかつてないほど熱を帯びた視線を向けてくるようになったのが分かった。頃合いと見た鳴坂は、話がひと区切りついたところで何気ない風を装い話を切りだす。
「そろそろ次の飲みもの頼みたいんだけど、香恋も同じの頼む?」
同じものを飲むかと訊かれて断る術は今の辻にはないだろう、との鳴坂の読みに誤りはなかったらしい。
「うん。恭治と同じやつなら、何でもいい」
嬉々として答えを返すのを確かめ、鳴坂は手元のタブレットを操作した。
「じゃあ、頼むよ」
「何を注文したの?」
「カルアミルク」
「ちょうどよかった。あたしも甘いの飲みたかったの」
それから鳴坂は言葉を交わす傍らで、辻の顔色や仕草を観察する。肌には赤みが差し、動作にも緩慢な部分が見うけられた。マティーニ、ジャックター、アースクエイク、ギムレットとより早いペースでアルコールを摂取している辻は、もうほとんど警戒を解いた状態に違いない。いっぽう鳴坂は判断力を保つため、グラスビール二杯に抑えている。ちらちらと時計に目を落としながら、事を起こすタイミングを計る余裕もあった。今が好機だ。
「お待たせしました」
鳴坂が注文を待っていると、やがて店員がグラスを二つ運んできた。店内が混んでいたせいか多少時間がかかり、辻がドリンクを全て飲み干していたのも幸運だった。店員はついぞ鳴坂の素性に気づくことなく二人の前にそれぞれ注文の品を置き、代わりに空のグラスを回収する。これで辻は、かなりの確率で新しいグラスに手を伸ばすはずだ。
「じゃあ、ここで香恋にサプライズ。ちょっと目を瞑って」
鳴坂は胸の内で何度となくシュミレーションした手順を反芻しながら、唇を開いた。
「こう?」
状況的にプレゼントであり、先に宣言している以上サプライズでも何でもないのだが、辻は素直に従う。鳴坂は瞼が堅く閉じられているのを目視しつつショルダーバッグから一本の小ビンを掴みとり、キャップを開けて気配を覚られぬよう身を乗りだし、内容物を辻のグラスに注ぎこむ。実家から密かに調達したシアン化ナトリウムは、致死量たった二百ミリグラムの劇薬だった。それを手元のスプーンを使い、見た目だけ覚られぬよう軽く素早くカルアミルクに沈みこませる。
「もっと、ぎゅっと目を瞑って」
その直後に間髪入れず小ビンをしまい、替わりに同じくショルダーバッグからリングケースを出し、掌に載せて蓋を開けた。
「いいよ」
瞼を開けた辻は満面の笑みを浮かべる。それはそうだろう、眼前にはペアリングが差しだされていたのだから。
「えっ、これ……」
「せめてもの罪滅ぼしだよ。桐ケ谷と別れるにはもうほんの少しだけ時間がかかる。それまで、これで我慢してほしい」
辻は感激のあまり、目に涙まで滲ませていた。
「本当にプレゼントしてくれるのね。ありがとう」
そしてすでに鳴坂を独占したつもりでいるのか、甘えた声を出してケースに触れる。
「ね、これ恭治が着けさせて」
「ここじゃダメだよ。食べものもあるし。店を出てからにしよう」
鳴坂はケースを引っこめようとした。しかし辻は譲らない。
「そんなこと言わないで。手を拭けばいいでしょ。私、もう待てない」
この時点で、辻が何の疑問もなくカルアミルクに口をつけてくれるとの確信はあった。とはいえ十分な量を摂取する前に異変を感じ、途中で飲むのを止めてしまう可能性もわずかながら残されている。もしそうなれば、これまでの苦労は水の泡だ。果たしてうまくいくか、一か八か賭けてみるか、詰めの部分も練っておくべきだったか。
案じはじめた矢先に鳴坂はある考えを思いつき、愚にもつかない遊びを持ちかける。頭に閃いたのは、より確実に辻がグラスを空にする方法だった。
「なら、さっき来たカクテルをどっちが早く飲めるかで決めよう。僕が勝ったらリングを着けるのは後。香恋が勝ったら今ここで着ける」
「望むとこだわ。負けないんだから」
辻にしてみればこの場で要望が叶うのに越したことはなく、仮に負けたとしても鳴坂と共に帰宅すればよい。そこまでの移動も電車一本で済む。だからこそ鳴坂はこの店を選んだのであろうと解釈してくれたようで、まったく軽いゲーム感覚で話に乗ってきた。
「じゃあ、用意」
鳴坂がグラスを持つと、辻も同じく勝負の準備に入る。
「スタート」
ありがたいことに辻はゲームといえどそこそこ本気らしく、声を出して開始の合図を告げる鳴坂より早く右手を持ちあげ、グラスを口元で思いきり傾けてくれた。中身が半分になったあたりで顔を曇らせるも、そのまま喉を鳴らして最後まで胃に流しこむ。飲み終えたのは、鳴坂とほぼ同時だった。
「ちょっと変な味ね。なんか、薬っぽいというか……」
たった数秒のあいだグラスの中身を撹拌しただけでは、薬物を全体に行き渡らせるには至らない。むしろあえて上層部分に滞留させていた部分もある。あまり音を立てると勘づかれる恐れがあり、また無味無臭といっても、今のように何かしらの違和感を覚えることも想定していたからだ。
「何だろう?」
「分からないけど、ここのはちょっと私には合わなかったかも」
ただ、辻は大して気にしていない。すぐに先ほどの話題に戻る。事前に懸念していた点は当たっており、対応策も正解だったことになる。
「でも、ほとんど一緒に飲み終わったわよね?」
「そう。だから間を取って、店を出る前に着けよう」
「やった」
鳴坂はその後も辻と話を続けた。今度は内容こそ後になっても覚えてはいたものの、替わりに時間の感覚が麻痺していた。頭の中で早く薬物の効力が出るようひたすら強く願うあまり、それが三分なのか五分なのか、もしくはもっと長いのか短いのかすら分からなかったほどだ。
だが、やがてその時が来た。
辻の顔からにわかに血の気が引いていき、身体をくの字に折って口元を手で押さえたかと思うと、指の間から吐瀉物を漏らしはじめたのだ。
鳴坂はそれを見て立ちあがり、改めて背中をソファにもたれかけさせる。吐瀉物を喉に詰まらせ、救急車を呼ぶまでの時間を稼ぎ、大きな物音が立つのを防いで周囲に異変を覚られないようにするためだった。
不意に扉が開かないか、鳴坂は個室の外に気を配りながら辻の容体を注視した。意識は相当に混濁しているどころか、ほとんど不明の状態といってよい。顔色はいちど紫に近づいたあと土気色に変わり、次第に呼吸も不規則になっていく。鳴坂はその間にもハンカチでショルダーバッグにしまっていた小ビンを執拗に拭き、辻の掌に握らせ、指紋をつけたうえでソファの下に転がす。そして最後にテーブルの上に置いておいたリングケースを中身ごと窓の外に投げすてた。
鳴坂は再び時計を見る。辻が意識を失って十分な時間が経った。もはや助かる見込みはないはずだ。壁の向こうに複数の気配を感じたところで声をあげる。
「辻さん、しっかり! 大丈夫ですか!」
すると思惑どおり、すぐに店員が個室に入ってきた。
「どうしたんですか!」
「トイレから戻ったら……救急車を呼びます!」
店員は一も二もなく頷く。鳴坂はすぐさまスマートフォンに手を伸ばし、一一九の番号を押した。
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