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五 お疲れさま ①

 時刻は二十三時を過ぎた頃、鳴坂は地下鉄東日本橋駅の構内を歩いていた。あるていど遅い時間帯だけに、混雑とまではいかないものの周囲には通行人もいる。その通行人の誰ひとりとして鳴坂の正体には気づかない。それとなく気配を抑えるだけで、何の障害もなく足を前に進めることができていた。

 理由は簡単だ。変装をしているからだ。ありきたりなダッフルコートと太めのジーンズで体型を隠し、口元をマスクで覆い、目元を伊達メガネでごまかしている。両手にも革手袋を装着済みだ。普段から顔を隠すのに慣れているうえ、周囲にまったく違うイメージを与えるために厚着をしても不自然に思われることがない冬真っ只中という季節も幸いしていた。

 そのメリットは最大限に活かしている。髪型を隠すのに被る帽子はいつもの鍔つきのキャップからこれまでほとんど着けたことがないニット帽に替え、必要な道具も常用のショルダーバッグではなくわざわざ中古品を買って用意した手提げカバンに入れていた。

 ホテルは駅に隣接していた。地上へ抜けると、すぐに看板と建物から漏れでる光が目に入る。鳴坂はつゆも歩調を緩めず、何食わぬ顔で入口の扉を潜った。

 しかし途端にフロントの男性がこちらの顔を眺めまわしてくるのに気づく。

 内心ぎくりとした。この日に足を踏み入れた他のホテルではうまくやり過ごすのに成功しており、こんな反応は初めてだったのだ。おそらく他はそれなりに客の往来があったおかげで、苦もなく紛れこめたのだろう。対してここは時間帯相応にフロアを訪れる客が少ないせいで、妙に注意を向けられてしまっている。

 ならばと出方を窺うも、すぐにそれが思い違いであることに気づく。男性は、何かしらものを言いたげな素振りをしている。もしかすると、まだチェックインを済ませていない客がいるのではないか。そう考えた鳴坂は黙って建物奥のエレベーターを指さし、フロントに向かってアイコンタクトをとる。

 すると男性は笑顔で頷いた。

 鳴坂はその姿を見やりながらほっと胸を撫でおろし、一階のフロアを悠々と通過してエレベーターのボタンを押す。

 ビジネスホテルなど、大抵このようなものだ。スタッフにしてみれば、部屋に入った客がどんな背格好や服装だったかまで全てを覚えてはいられない。ローテーションで人員の入れ替わりもあるだろうし、ましてやこの日は金曜日だ。東日本橋駅ちかくと立地のよいこのホテルはほぼ毎週末、満室になっているに違いない。そうした状況下でチェックインを済ませた客を装えば素通りできる。

 どうもその目論見がうまくいったらしく、後から素性を怪しむなどして追いかけてくる者もいないと分かると、鳴坂は到着したエレベーターに乗り十九階のボタンを押す。そこから先は途中で止まることがなかったためにすぐだった。

 開いた扉をまた潜り、目の前の案内表示にしたがって左へと歩を進める。行先は一九一六号室。予定どおりなら、すでに伊崎茉実が到着しているはずだ。

 廊下はほとんど静寂に包まれている。わずかに一室からテレビと思しき音声が、もう一室から電話と思しき話し声が漏れきこえるものの、誰も外には出ていない。万が一、誰かが出てきたところで素性を覚られはしないだろうが、姿を見られない方が都合はよい。鳴坂はその状態が変わらないようにと祈りつつ廊下を進み、一九一六と記された扉の前で立ちどまるや右手で小さくノックをした。

「僕だよ。開けて」

 当然ながら名前は言わない。あらかじめ合言葉のようなものを決めていたのである。中からすぐに慌ただしげな足音が聞こえ、鍵が回るとともに部屋の扉が開いた。

 伊崎がいる。顔にさも嬉しげな表情を浮かべるのを見、鳴坂もまたマスクの奥で口の端を吊りあげた。次いで自分の名を口にしようとする伊崎を小声で制す。

「静かに」

 続けて扉を閉めるや否や鍵をかけ、意識して笑みを柔和なものに変えた後でマスクを取り、手提げカバンを足元に置く。

 伊崎が胸の中に飛びこんできたのはその直後だった。

「褒めて。私、言われたとおりにしてきたよ」

 不意の行動だというのに、鳴坂はまったくたじろぐことなく両腕で肩を強く抱いてこれに応える。のみならず胸中では呆れかえっていた。どのような神経をしていれば、今の言葉を口にできるのか。

 とはいえ、ここまでの相手は隙を見つけるのに苦労した。油断させるために一定時間、話までしている。むろんそのために行程に余裕を持たせてはいるのだが、あまりゆっくりもしていられない。先ほどの場所でもあやうく電車を逃しそうになり、冷や汗をかいていた。それを思えば、むしろ伊崎の行動はありがたかった。何もしなくても勝手に警戒を解いてくれているのだ。飛んで火に入る夏の虫も同然だ。

 鳴坂はこの機を逃さない。左手を伊崎の肩に回したまま、右手をポケットに滑りこませスタンガンを握る。この日はじめての作業ではないだけに、タイミングにも慣れてきていた。

 伊崎は右腕が離れたことが分かったのか、わずかに背中をぴくりと震わせるも、自身に迫る危機までは察知できていないようだ。抵抗の気配は皆無といってよい。

――夢を見たまま、あの世へ行け。

 鳴坂はスタンガンのスイッチを入れ、身体を離しざま伊崎の腹部に押しあてる。電流で全身の筋肉を硬直させるのに成功したらしく、声ひとつ出せずにいる。鳴坂は音が立たぬよう伊崎の服を掴み、後方の床にではなく右側のベッドに倒れこませる形で横へと身体を押しやった。

 鳴坂の行動は、ここで止まることはない。息をつく暇もなく自身の手提げカバンからハンマーを取りだすと、伊崎の両腕の動きを封じるように馬乗りになり、ハンマーを頭めがけて思いきり振りおろす。

 伊崎の顔が衝撃と苦悶で歪んだ。だが、まだだ。まだ意識がある。鳴坂は続けざまに二撃目、三撃目を頭に食らわせた。

 その度に鈍い音が鳴る。

 ハンマーのヘッド部分には血液の飛散を防ぐ目的で分厚く布を巻いてある。そのために幾分かは音も緩和されているはずだった。おまけにこの部屋は建物の隅のため、他と比べて異常には気づかれにくい。ただ、あまりに手こずれば話は違ってくる。鳴坂は一刻も早く意識を失えとばかり一撃ごとに力を込めた。たとえハンマーが破損しても、スペアはあの手提げカバンの中にある。五度、六度と殴りつけたところでようやく伊崎は打撃に反応をしなくなり、ベッドの上にぐったり顔を横たえた。

 だが、鳴坂はまだ安心していない。またも手提げカバンに手を伸ばし、今度はロープを取りだすと伊崎の首に巻きつけて思いきり絞めつけた。万が一にも蘇生などされたら鳴坂は破滅する。この場で確実に絶命させなければならない。

 鳴坂は青紫色に染まる伊崎の顔を視界に入れながら、聴覚を四方に巡らせていた。先ほどの打撃音が周囲にどう聞こえたかまでは、鳴坂には分からない。伊崎を殴りつける回数も最小限に抑えた。不審に思うな、誰も来るなと願っていると、壁の向こうからシャワーの音が聞こえた。助かった。どうやら隣の客はこの部屋に何ら関心を向けていないようだ。扉の向こうからも足音などはしてこない。

 それでもなお不安は残る。当たり前だ。人体に起こる現象は不確定要素が大きい。見たところ呼吸は止まっているものの、意識が戻る、あるいは息を吹き返す可能性はゼロではないのだ。

 鳴坂はその肌の色や瞳孔の変化などを凝視しつつ、ひたすら伊崎が落命するのを待った。 それからしばらく経って首に絡めていたロープを緩め、馬乗りの姿勢を解いてベッドから降りる。そしてロープとハンマーを手提げバッグにしまい、伊崎に服の一部を掴まれていないか姿見に自身を映すなどして確かめた。後はこれまでと同じく締めの作業を済ませれば、部屋には死体が一つ残るだけになる。

 しかし、ここだけはもう一つ別の仕掛けをしておかなければならない。

 鳴坂はベッドに備えつけのアラームに目をやると、タイマーのスイッチをオンに切りかえて時刻を零時ちょうどに合わせた。

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